脱線事故雑感

JRの脱線事故に関連するニュースに接して、どうも腑に落ちない。

確かにご家族の怒りや悲痛は痛いほど伝わってくる。JRの安全軽視と
ダイヤへの固執への問題点もよくわかる。でも、もっと深く考えないと、
問題の本質は捉えられないような気がしてならない。

まだ、きちんと考え切れていないので、今は考えるべき材料だけを
列記しておこうと思う。

・「時間感覚」について
僕自身が大阪にいた頃、京阪神をそれこそ「分刻み」で移動するような
日々に慣れていた。それが当たり前だ、と思っていた。素早さ、が美徳だ
とすら感じていた。その感覚で山梨に来て、ゆったりした速度感に最初、
いらいらさせられた。だが、事故後の報道を見ていて、普段のダイヤの誤差
が1分以内、というのを知るにつけ、それ以上「遅れてはならない」「素早く
しなければ」という、ある種の強迫観念が、すごく気持ち悪く感じる。そして
それを内面化していた自分にも。
 よく駅で、電車が10分こないだけで、駅員につっかかっている客を目に
していた。僕自身も、数分遅れで舌打ちしたこともあった、と思う。事故などで
JRが止まるたび、客が血相を変えて駅員に殴りかかろうとした事件があった
事も思い出す。なぜ、そこまでに時間に厳格さを求めるのか? 
 これは電車に限った事ではない。宅配時間の「翌朝時厳守」などの厳格さ、
大企業への24時間以内の納品厳守、などの、いろいろな「納期」という厳しさ
にも通じると思う。なぜ、ここまで時間にコントロールされねばならないのだ
ろう? この論理を内面化させているのは、どういう力が働いているのだろう?

・「個々の個人、会社だけの責任なのか?」
何かの問題が日本において生じた時、マスコミは手のひらを返したように、
問題を起こした企業や個人の責任を追及する。時にはまるで「あら探し」で
あるかのように。たしかに「あら」は出てくる。だが、その「あら」に原因を全て
押しつけて「それ見たことか!」と大岡裁判をしている、その裁判の根拠は、
いったい何なのだろう? 私はこいつ、この企業とは違う、という高みの見物
のような「傲慢さ」を報道に感じるのは僕だけなのだろうか? もっというと、
悪いことをした会社の記者会見時の、一部マスコミ記者の偉そうな突っ込みを
耳にすると、「あんたがそんなきついことを言える立場か?」とすら思うのは、
僕だけなのだろうか。
 確かに運転手もJR西日本も悪い。それは事実。でも、急がせたのは、少し
でも遅れたら文句を言い、抗議をする客なのではないのか? だから乗って
いた客が悪い、というのではない。じゃなくて、傍観者然として、高みの見物を
していて、違う場面では駅員に怒鳴っていて、この問題発覚後はJRに対して
ひどいと感じている(かもしれない)私たち自身にも、この問題の根本原因は
ないのだろうか? それを棚上げして、誰かを血祭りに挙げても、気は済むか
もしれないが、解決策とは言えないのではないか?

繰り返すが、JRの安全軽視、モラルのなさ、は言語同断である。事件後の
同じ日に車掌区でのボーリング大会があった云々を見ていると、JR職員
自体がこの問題を「他人事」と考えている姿勢に、あきれて言葉も出ない。
だが一方、自分がもしJRの職員、この運転士だったら、同じミスをしなかった
のか、と言われると、その自信がない。そういう「自分事」として、事故を起こした
会社や社員の問題を構造的に捉えない限り、他人事としての「いじめ」のような
報道は、接していてすごく嫌な気になってしまう。

まだまだモヤモヤしている部分が、言語化出来ない部分がある。
もう少し言語化できたら、再度書いてみようと思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。