大切なz軸

「あなたは黙って考えるタイプですか、それとも話しながら考えるタイプですか?」

そう聞かれたら、僕なら間違いなく後者と答える。そりゃ四六時中しゃべっている訳にもいかず、ずっとおしゃべりにつきあって下さる奇特な方もいないので、もちろん黙って考えることもある。でも、思いもよらなかった発想が滑らかに浮かんでくる瞬間って、誰かと話し込んでいるうちに、っていうのが僕の場合は結構ある。今日もそういう瞬間が現れた。

現役のソーシャルワーカーの方と組織間連携の話をしていた。同じ資格を持つ者同士でも、組織の縛りがあってなかなか同じ方向を向かないんですよね、と伺って、ふと思いついたのが、三次元のベクトル。x軸に組織、y軸に専門職能集団、そしてz軸に権利擁護とおいた時、組織の外を見ようとしない人は文字通り、直線的思考しか出来ない。ただ多くのソーシャルワーカーの方々は、専門職の職能団体に所属して、専門職としてのスキルアップを図ろうと勉強も重ねていらっしゃる。つまり、組織の壁を越えた横のつながりの中から、直線思考が平面思考へと拡がる。ただ、そういう平面思考をされている方々が、皆さん「当事者のために」と仰りながら、往々にして、その視点が個々人でずれていて、組織間での摩擦や不連携につながる。これは何故なんだろう、と考えてみたら、z軸が答えを出してくれた。つまり、当事者のため、といいながら、その意識がどれほど当事者主体(=当事者の権利擁護の促進)の方向へ向かっているか、あるいは全く逆に当事者不在(=支援者主体=当事者の権利の剥奪)の方向へ向かうのか、によって、つまりz軸でのスタンスの置き方によって、当事者への関わり方・仕事の仕方が変わり、それが組織間の壁を越えて横のつながりがある人でも、立体的なズレ、を生んでいる。そして、この認識のズレが、もしかしたら組織間の不連携の根本原因なのかもしれない。

博士論文を書いている中で、京都中の精神障害者の支援現場を訪れて、おもろい現場では、以下の5つのステップを踏んでいることに気付いた。
ステップ1:本人の思いに、支援者が真摯に耳を傾ける
ステップ2:その想いや願いを「○○だから」と否定せず、それを実現するために、支援者自身が奔走しはじめる(支援者自身が変わる)
ステップ3:自分だけではうまくいかないから、地域の他の人々とつながりをもとめ、個人的ネットワークを作り始める
ステップ4:個々人の連携では解決しない、予算や制度化が必要な問題をクリアするために、個人間連携を組織間連携へと高めていく
ステップ5:その組織間連携の中から、当事者の想いや願いを一つ一つ実現し、当事者自身が役割も誇りも持った人間として生き生きとしてくる。(最終的に当事者が変わる)

このステップと、さっきの3次元は密接に結びついている、と、これも話しながら気づき始めた。福祉の現場では今しきりにネットワーク作り、がいわれている。だが、何の為の、どこに向かったネットワークなのか? 単に同じ職種にある人の仲良しクラブのネットワークなのか。それならば、ステップ1も踏み出せていない。多分、現場で葛藤を抱えながら働いているソーシャルワーカーの方々が横のつながりを求めて職能集団に所属される際には、きっとステップ1に直面して、解決策を求めてステップ2から3へと踏み出すために、福祉士会などに入会されるのだろう。ただ、それで終わっていたら、あくまでも仲良しクラブで閉塞してしまう。本当に当事者主体の、当事者が諦めさせられたり、無理だといわれ続けてきた想いや願いを実現するサポーターとしてのソーシャルワーカーならば、権利擁護、というz軸上で一つの方向を向けるはずだ。そして、その方向性の一致が、個々人の連携を組織的連携へと高める大きな原動力になりうる。これがあるから、その地域全体が変わっていき、その地域でくらす当事者の方々の暮らしが豊かになり、ご本人の願いや想いが実現されていくのだ。そういう意味で、ソーシャルワークの基本といわれているソーシャル・アクションを実現するためには、権利擁護というz軸がなくてはならない大事な視点となってくるのだ。

勿論、これくらいのことは福祉の教科書にも載っていることかもしれない。だが、現場で日々奔走されておられるソーシャルワーカーの方々の、リアリティのある言葉として、権利擁護がくっついてこない。権利擁護といえば、成年後見制度=お金のこと、と思っておられるワーカーも少なくない。そうではなくて、高齢でも、病気でも、障害があっても、地域で豊かに自分らしく暮らすための支援をする際の根本原理として権利擁護を柱においたならば、きっと支援する側と当事者とが同じ方向を向くことが出来るし、支援における様々な誤解や混乱も解け、当事者主体の地域変革がもっとうまく進むのではないか、と感じている。

ちなみにz軸の怖いのは、z軸の片方の極を権利擁護とすると、もう片方の極には権利剥奪がおける点である。そして、この権利剥奪の極を見据えたとき、あの30年以上前に書かれた不朽の名作の最終章の一節がまざまざと想起させられる。
「ナチスは、『社会の中の穀つぶしに金をかけても無駄だ』と殲滅手段をとった。日本は、といえば安楽死体制ならぬ生殺し体制といったらいいか。」(「ルポ・精神病棟」大熊一夫著、朝日文庫、p236)
私たちの社会は高齢者や障害者を「生殺し」にする体制をとってはいないか? そして、ナチスの安楽死計画に多くの善良なる医師や看護師が荷担したように、生殺し体制に多くの専門職が荷担していないか? これを根本から考えるためにも、権利擁護についての自覚が、専門家ほど特に大切なのではないか、そう感じた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。