挨拶と組織文化

ようやくコーヒーが身体に効いてきたのか、頭が回り始めた。

昨日はある先生にごちそうになり、お店をハシゴする。ほとんどビールしか飲んでいないのだが、ひどく身体がだるい。これは単純明快な「二日酔い」。それに運動不足まで重なって、ダルい朝なのだ。身体がだるいと、それはすぐに心にも伝染して、一気にやる気が失われてしまう。結局研究室に朝からいるのに、今までぼーっとネットをしたり、本を読んだり、だった。そういえば、新大阪駅構内の本屋でみた何かの本のタイトルに「机とパソコンを無くせば営業成績が上がる」というようなフレーズがあったが、確かにさっきまで僕のような状態だと、机とパソコンは何もしないための言い訳として通用する、といわれても、仕方ない。でもね、時計の針が午前10時を指す頃、ようやく頭の電源も入りました。今週はテストの採点もあるし、明日はスウェーデンからお客さんを研究室に迎えるし、そろそろ報告書のまとめもしなくちゃいけないし・・・と書き付けながら自分を鼓舞している。頑張るのですよ、タケバタ君。

で、頑張るのですよ、といえば、今日は僕の研究室がある建物の4階に高校1,2年生の皆さんが集まっている。夏休みのお勉強会だそうだ。みずみずしいエネルギーが詰まった高校生の皆さんと、朝、入り口で一緒になる。皆さん口々に「こんにちは」と気持ちよい挨拶をして下さる。何だか、すごく嬉しい。実はこの大学に入ってちょっと寂しいのが、多くの学生さんと「すれ違う」のだが、「こんにちは」と挨拶する、ことがあまりないことである。まあ、確かに僕も大学に入ったあと、あんまり挨拶することはなくなった。でも、この前模擬授業で訪れた高校では、皆さん挨拶して下さったし、半年間住んでいたスウェーデンでも、特定の建物の中では、知らない人でも目が合ったら「ヘイ!」なんて言い合っていた。そういう視点で眺めてみると、大学教員として甲府に来て、授業期間中は多くの学生さんにすれ違うのだけれど、教職員で挨拶をすることがあっても、学生さんと挨拶することはない。教職員と言ってもまだ面識がない方々がほとんどだが、大人(の格好をしている)人には会釈や黙礼をするのに、なぜか学生には挨拶しない。僕も学生もお互い何となく目を合わせず通り過ぎていくような気がする。これってすごく寂しいことだ、と前々から何となく気になっていたけれど、今日、見ず知らずの高校生に挨拶をされて、強く問題に感じ始めた。

そういえば、さっき何気なく読み返していた本の中でも、元宮城大学の学長である野田一夫氏が、大学開学時に「キャンパス内では、行き交う人同士で挨拶をしよう!」と呼びかけたことが、宮城大学の慣習、そして文化に高まっていった、と言っていた(「『革命』にかける7人の男たち」佐藤豊著、本の森)。宮城で出来て、山梨で出来ない、なんてことはない。現に、高校生達は、挨拶をしてくれるのだ。それが、どうして大学に入ってきて、挨拶しなくなるのか。ほんとは挨拶したいけれど、誰も挨拶しかけてくれないから、気まずくて、恥ずかしくって、挨拶を返してくれなかったら嫌だなぁ、なんて思っているうちに、挨拶しないことが「当たり前」になっていくのではないか。あ、でもそれって、あそこと同じだよなぁ・・・と連鎖反応は続く。

今、ある福祉組織で定期的に職員研修のお手伝いをさせて頂いている。新人だけでなく、施設長や幹部職員含めた全ての職員を対象にして、その施設が今陥っている構造的問題に立ち向かうための、一人一人の職員をエンパワメント(力づける)ためのお手伝いだ。実はその現場で今年の初め、全職員にインタビューを行い、その結果を発表したのだが(詳細は「論文・記事」のコーナーにあります)、その発表会の席で、ある職員の方がこんなことを言っていた。
「この組織では、『おはようございます』の挨拶がない。僕はするんだけれど、あまり返してくれない」
出勤時、スタッフルームに入る際、お互いあんまり挨拶をしあわない。先に来た人は、黙々と仕事をし、後から来た人は黙って更衣室へ向かう、という光景がある、というのだ。この指摘を受けた後の4月以後、少し挨拶をするようになった、という話も聞いたのだが、7月末の職員研修の場でその話を聞いたとき、再び挨拶をする人は少なくなった、というのである。でもその一方、新入社員のスタッフはいつも笑顔で挨拶してくれるので嬉しい、なんていうエピソードも伺った。

僕はこの挨拶というのは、結構根元的な問題の一つでもあるような気がしている。少なくとも挨拶をしあうことで、人と人との間の交流が出来、それが組織的に自然に生まれてくることで、良いエネルギーが流れ出す。すれ違いざまに「こんにちは」というやりとりをする事、それを通して、お互いが同じ場を共有する事を認め合い、その現場でお互いより良く・気持ちよく過ごしていこう、という契機が生まれて来る。このように、社会的に構成されていく現場において、気持ちよい一日を過ごすための原始的なツールとして挨拶が機能している、とは言えないだろうか。そして、このツールが使われなくなった組織は、大学であれ、福祉組織であれ、気がつけば内部での結束やその組織への愛着心が薄れ始めるのではないか・・・文字にしてみれば実に平凡なこの事実に、ようやく僕は向きあいはじめている。

そんな挨拶一つで、と言われるかもしれないが、そういう何気ない身体感覚に基づいた「常識」の変容こそ、文化形成に与える影響は計り知れないものがあるのではないか、と感じるのだ。
「能書きはわかった。じゃあタケバタはどうするねん?」
簡単です。今日から学生さんにも、すれ違いざまに、ちゃんと挨拶をしようと思う。ドドッと人とすれ違う時は大変かもしれないし、気後れするかもしれないけれど、出来る限り目があった人には挨拶しよう。こういう原始的なことの繰り返しの中から、組織文化が変わるきっかけが生まれたら、所属している人間にとって、これ以上気持ちのよいことはないのだから。高校生に、ええことを教えられてしまった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。