学生支援と地域移行支援

パソコンを前に、茫然自失としてしまう。

だって、今朝は結構気分が乗って、学生支援と障害者支援の重層性についてブログを書いていたのに、アップロードする直前の確認画面で、何の気なしに簡単な手順を間違えたため、ごっそり文章が消えてしまったからだ。あの1時間は何だったのか、と思うと、ぐったりする。時間的な損失よりも、その時のノリや息吹が込められた文章はもう二度と戻ってこない、という意味で、ガッカリしてしまうのだ。

まあ、そうはいっても仕方ないので、ごく短く再構成してみよう。

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僕が学生だった頃(10年くらい前)までは、真面目に授業に全部出席している大学生、というのは、そう多くはなかった。ほどほどに付き合いながら、クラブやサークルや色々な学外活動に打ち込む、というのが定番だった。だが、教員になってみて驚くのが、授業は1限でも真面目に出席する学生がすごく多い、ということだ。そしてもっと驚きは、「出席するものの、友達としゃべる」系の学生が多い、ということである。だが、そのどちらも「とりあえず出席はする」という点では共通する。つまり、昔は「授業に出ない」という選択肢が主流派だったのに、今は、授業に参画するにせよサボタージュするにしてもとにかく「授業に出る」という選択肢の方が主流派になったのだ。この変化は一体何故か?

多くの要因があると思うが、それはシフトチェンジ期における不安の解消の仕方の変容、と僕は仮定してみる。つまり、高校生から大学生、子供から大人、へのシフトチェンジ期に、ある時期までは社会との関わりなどを通じての変化を求め、授業にはほどほどしか出ず、自分で何とか解決するために授業外・学外での試行錯誤を繰り返す学生が多かった。だが、最近はこのシフトチェンジ期のアイデンティティの不安に対して、高校以来の旧態依然の様式(とにかく出席してればいい)を固持する事によって、乗り切ろう、という若者が増えているような気がする。それに対して、大学側のアプローチが未だにレッセフェール(どうぞご自由に、自己決定、自己責任で)というスタンスであるが故に、学生側のニーズと大学側の提供資源がうまくマッチせず、そこで大学生の不安がますます増大する、という悪循環に陥っているような気がする。

では、どうすればいいのか? 一つのソリューション案として、僕はある程度の枠組み作りが必要なのでは、と感じている。「とにかく授業に出てくる」ものの、「自分で何とか解決する」ことに不安を覚え、一歩踏み出せない学生の為に、「一歩踏み出す」仕掛けを大学や教員側が提示して行かなければならない、と思う。僕の専門の障害者福祉の分野に置き換えてみると、問題はよりクリアに見える。

日本では残念ながら入所施設や精神病院に20年以上「社会的入院・入所」している障害者が少なくない。そんな彼ら彼女らの中には、適切な地域生活支援の仕組みがあれば、地域で誇りと役割を持って自分らしく暮らしている力を持っている方も決して少なくない。だが、長年の施設生活で自分の内なる想いや願いを諦めきった「施設症(institutionalism)」に陥っている人々は、「さあ自己決定・自己選択ですよ」と言われても、これからの未曾有の不安や恐怖に対峙するより、旧態依然のシステム内で、決まり切った形式で暮らしている方がよけいな苦労をしなくてすむから、と地域生活を望まない人もいるのだ。では、その人々は地域生活は無理なのか? 諸外国の実践が教えてくれるのは、施設や病院から地域に戻る時期(地域移行時=シフトチェンジ期)に厚い人手と充実した地域サービスを整えることによって、移行期の問題は解決可能だ、ということだ。諸外国に限らず、例えばお隣の長野県の知的障害者入所施設「西駒郷」でも30年間施設に入っていた人が、地域に戻るための練習やサポートを受けて、今では地域のグループホームで暮らしている。その際、急激なシフトチェンジにご本人がついて行けるように、数ヶ月の準備期間で少人数の雰囲気になれ、職員が手厚い支援をする事によって、「上げ膳据え膳」が当たり前だったご本人が、自分でご飯を作るようになって、地域へと帰っていくのである。あるいは自分でご飯は作れない人でも、ホームヘルパーやグループホームの世話人さんに平日は作ってもらう、などの選択肢を増やして、当事者が地域で暮らせる仕掛けを支援者が構築していき、それが成功しているのである。

この障害者地域移行支援から明らかなのは、シフトチェンジ期における厚い人手と充実したサービス内容が、旧態依然の様式からご本人が「一歩踏み出す」のを支援している、という構造である。これまでの大学教育は、エリート教育の名残を受けて、レッセフェール(自由放任主義)が基調であった為に、「自分で何とかする」という力のない学生を取りこぼしてきた。だが、時代の変化と共に、「自分で何とかする」、ということのハードルが年々高くなっている。それと共に、「自分で何とか出来ない」から旧態依然の思考行動様式にしがみつく、という学生も増えていると思う。このような学生に対して、大学はレッセフェールであってはならない。「授業に出るけれど、しゃべる」という学生さんも含めて、何らかの枠組みや支援を必要としている学生の数は年々増えているのだ。もちろん教育と福祉は概念も領域も異なるが、こういった「何らかの枠組みや支援が必要な学生」に対しては、障害者のシフトチェンジ期の手厚い支援を真似た「移行支援」があってもよいのではないか、そう考えている。

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なあんだ、さっきの半分の長さで書けてしまった・・・。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。