予言の自己成就とタケバタの「予言」

予言の自己成就(by マートン)について考えている。

大阪から帰る際に読んでいた「いそぐときほど、ゆっくりと」(ザイヴァート著、技術評論社)と、今読んでいる「健全な肉体に狂気は宿る」(内田樹・春日武彦著、角川書店)では、良いイメージ・悪いイメージの両方から、この問題を論じていた。前者はタイムマネジメントに関する本で、一生の、年間の、1週間の、そして1日の目標をイメージして、そのイメージを実らせる為に、仕事と余暇、家庭、健康などをバランスよく配分していくことを勧めてくれている。後者の対談本では、悪い予想をイメージとして浮かべれば、その浮かべられたイメージに拘束されてしまって、その結果イメージ通りの悪い結末になり、「やっぱりだからうまくいかないんだ」と変に安心してしまう、その回路の事について議論されていた。

僕自身も、確かに良いことも、良くないことも、予言の自己成就的側面が結構人生において、あると思う。特にこの週末に考えていたのは、「良くないこと」の予言の自己成就。だいぶ意識化して、コントロールできるようになってきたけれど、それでもある問題に対して、「どうせ・・・」「このスケジュールなら・・・なんてムリ」などと決めてかかる事がある。そして、それが本当になりそうになると、イライラが増し、確定的状況になると、「やっぱりそうだったんだ」「なんて僕はついてない」などと一人爆発していたりする。だが、これは典型的な予言の自己成就の帰結。内田・春日両氏によれば、自分が「できない」というイメージを膨らませていくと、そのイメージを実現するために躍起になって、「できない」局面を構築さえしていき、なんとかそれを成就させるために必死になる、とのこと。そういう文脈で自分の問題を考えると、「できればいいな」と思いながら、最初から「できない」ことを予期して、「できない」自分への心理的負担を減らすために、あらかじめ出来ない時点での怒りや悲しみを前もって発生させている局面がある。これは自分だけの問題でもそうだし、相手が絡む問題でも、相手をそういう感情的渦の中に巻き込んで、そういうことを実現させていると思う。そして、書きながら気が付いたのだが、これは自分がコントロールしにくいと「思いこんだ」課題に固有の問題だと思う。

そういう課題に関して、ムリして張り合おう、という発想がそもそも間違いなのだ。「○○に決まっている」と決めつけるのは、自分がコントロールしにくいその状況をコントロールした気分になっている、強がりの弁に過ぎない。そんなことにエネルギーを注がなくとも、回避するための方策を積極的に採ることが出来る場面もあるだろうし、そういう方策がとれる状況ではなくとも、少なくともそういうマイナスのイメージに支配されないよう、他のことにエネルギーを注いだ方が随分ましだ。それに予言するから成就するのであって、予言しなければ、色んな未知の不確定要素が飛び込んできた時に、その場その場で新たな再解釈をした上で、新たなソルーションを求めることが出来る。予言をしてしまうから、その後の新たなファクターも予言の範囲内に納めようとしてしまうのだ。ならば、ネガティブなことについては、予言をせずに、その後の「時の流れに身を任せる」ほうが、本当に求める結論への近道なのだと思う。

逆に言うと、ポジティブなことについては、もっと予言の自己成就を狙ってもいい。先述のタイムマネジメントの本などは、まさにこれをマニュアル化したもの。10年後の自分はどうなっていたい、そのために5年後にはどうなりたい、だから1年後にはこれを達成したい、そのためにこの1ヶ月、この1週間、そして今日は・・・これって僕が受験生を教えていたとき、彼ら彼女らに繰り返し伝えてきた「逆算法」だ。なるほど、他人様にはちゃんとそうやって伝えてきたのね、タケバタ君は。では、ご自身には?

紺屋の白袴。医者の不養生。だから、また本を買ってみたりしているのである。ここ最近、自分の仕事をどのように形にしていけばいいのか、に少し焦っている。そんなときだからこそ、「いそぐときほど、ゆっくりと」というキャッチフレーズが目に飛び込んできた。でも、今この文章を書きながら思い出したのが、「焦っている余裕があるのは、やっていない証拠」。これは誰の言葉かって? ハイ・・・この言葉も、何を隠そう私タケバタ自身が受験生に何百回と言ってきた言葉であります。

「どうしたらいいでしょう?」「ムリなのかなぁ」なんて焦っているのは、まだ余裕のある人の言葉です。本当に実践している人は、そんな迷ったり焦ったりしている余裕すらなく、目の前の課題に没頭しているはずです。だから、悩んでいる暇があったら、実行しなさい。

僕は今、自分の「予言」にグサリときている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。