「異国」と異邦人性問題その2

実は、と告白するのだが、車の中で、結構聞いているのが「中島みゆき」だったりする。このHPを作ってくれているmamnag氏と高校時代からの付き合いなのだが、一年後輩の彼が写真部に入ってきてすぐに、僕に勧めてくれたのがきっかけだった。以来、怪しい薬のように体中が反応してしまい、浪人時代などはウォークマンに入れて、行き帰り毎日「みゆき漬け」の日々。今でも、心身ともに疲れ果てた時などはかかせない。「えっ、あんな暗い歌を、浪人生とか疲れている時に聴いたらよけい落ち込むやろう?」 それは彼女にはまったことのない人が言うセリフ。本当に聞き込んでいると、彼女の、特に昔の時代の真っ暗路線の曲には魂がギッシリ込められていて、聞いていると、歌詞も曲調も声色も暗いのに、なぜか僕は元気が出てくるのだ。

で、以前旅行用に作ったMDLPに40曲以上ギッシリ詰め込んだ「私家版中島みゆきスペシャル」を、今日もアクセラ君で帰りしな、聞いていた。そこで、今日の一曲は「異国」

「悪口ひとつも自慢のように ふるさとの話はあたたかい
忘れたふりを装いながらも 靴をぬぐ場所があけてある ふるさと

しがみつくにも足さえみせない うらみつくにも袖さえみせない
泣かれるいわれもないと云うなら あの世も地獄もあたしには 異国だ

町はあたしを死んでも呼ばない あたしはふるさとの話に入れない
くにはどこかときかれるたびに まだありませんと うつむく

百年してもあたしは死ねない あたしを埋める場所などないから
百億粒の灰になってもあたし 帰り仕度をしつづける」
(アルバム「生きていてもいいですか」より 1980年)

いいねぇ、と思いながら、聞いていて、ふと考えていた。それは、前回のブログに書いた「異邦人性」の問題だ。「異国」の主人公は、狂おしいほど「ふるさと」に憧れている。「百億粒の灰になっても」「帰り仕度をしつづける」くらい、ふるさとが自分を受け入れてくれるのを待ち続ける。これ程までに、濃い「ふるさと」への愛憎半ばする思いの深さ。これが発売されたのは今から25年前の昭和55年。このころまでなら、「町はあたしを死んでも呼ばない」ほどの村八分や、そこから追われて(勘当されて、蒸発して・・・)都会に出てきた者の悲哀、というのに、リアリティがあったのかもしれない。だが、昔ながらのコミュニティが崩壊しつつある、といわれる2005年の今、この「あたしを埋める場所」への強い気持ちを持つ人が、どれほどいるのだろう・・・。地域福祉を考えるに当たって、この部分がよくわからいのだ。

ただ、これを大学と学生の問題に置き換えると、ちょっと様相が変わってくる。今、僕も学生と接していて、大学への帰属意識や、それに限らず自分の大学を「好き」と思う学生、「この大学に入ってよかった」と満足している学生、がどこの大学でも減ってきているのではないか、と感じている。自分自身への低い価値付けと共に、大学への愛着や所属感、も希薄な学生さんが、少なからぬ数、いるような気がするのだ。これは、大学における「異国」問題であるような気がする。

だからといって我が大学は「しがみつくにも足さえみせない うらみつくにも袖さえみせない」ような大学ではない。それとは逆で、学生サービスを真剣に考える教員がすごく多い大学だと、お世辞でなく、本当に思う。ただ、「しがみつく」「うらみつく」ほどのエネルギーを大学に傾ける前に、簡単に諦めてしまう学生さんが、どうも少しずつ増えているのではないだろうか? はじめの一歩、を踏み出す事さえ躊躇して、「どうせ俺・私はアホやから」「出来ない」と決めつけている、そういう学生さんを、以前教えていた大阪の大学でも、この大学でも見ている。これはものすごく勿体ないことだ。なぜって。スルメでもしつこく書いてきたのだが、学生さんが低い自己規定する事によって、自己暗示と自己への束縛を強めているような気がするのだ。つまり、はじめの一歩を踏み出さないばっかりに、自分をどんどん低い状態におとしめてしまい、それが在学中に助長されていくような気がするのだ。

そこで、私たち教員の側の、支援の力量が今、問われていると思う。大学でstrangerの気分でいる学生、ハスに構えいる学生、「しがみつく」「うらみつく」ほどのエネルギーを喪失している学生、彼ら彼女らが活き活き出来るように、学生をエンパワメントしていく必要があると思う。その際大切なのは、彼らが単なるサービス受益者でありお客様である段階ではダメで、大学における自身の役割と尊厳がしっかりあって、謙虚な自信を持ち、主体的に「関わり」を求めてくる、そんな学生へと、どう変身を手助け出来るか、だ。「この大学はおもろい」「ここにおったら自分のためになる」そんなインセンティブの提供の中で、学生の持つ異邦人性が解体され、大学生としての自覚と矜持が生まれると思う。

「忘れたふりを装いながらも 靴をぬぐ場所があけてある ふるさと」

こんな大学を今も、そしてこれからも作り上げていくために必要なことは何か。これも夏休みの大いなる宿題の一つだ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。