分析と消化

今朝は仕事がないので、ホテルの部屋でのんびりする。

昨日は午前も午後も、異なる現場で色々面白い話を聞いていた。そして、どちらの現場とも、あっという間にタイムアウトとなって、泣く泣く移動、という羽目に。カリフォルニアには、半年くらい住みながら考えてみる価値がある様々な論点が詰まっている、と感じている。いずれにせよ、こちらの事が知りたいのは、日本の現在の社会政策との比較の論点から。なので、1つの現象を輸入して、それの是非をどうこう言ってみても仕方がない。それより、その現象の背景にある考え方、捉え方というものにも目を向けて、どう日本で展開していけるのか、の吟味が必要だ。現状のスタンダードレベルを上げる為には、枠組みのどの部分を焦点化し、どのように変更していく必要があるのか、その際に現状で障壁になっているものは何で、カウンターパートとして何をぶつけて行けば、その障壁は砕け得るのか、を戦略的に練っていく必要がありそうだ。まあ、すぐにどうこうする、というよりは、時間をかけてじっくり準備をしていかなければならない課題であろう。

そう徒然なるままに考えているうちに、己が力量、という問題にぶち当たる。で、僕が落ち込みやすい解決方法である「反省」モードに入りかけていたのだが、機内で読んでいたある一節をふっと思い出す。「できもしない反省をしてくよくよしていると、体にも悪い」「失敗から学ぶということと、反省することとは違う」(内田樹・池上六郎著「身体の言い分」毎日新聞社」) 反省とは、自分の中での未だ消化できない腐れた過去の痕跡の断片を、現在の問題点と結びつけ、同じ脈絡のものとカテゴライズし、その問題点を消化できない同種のものとして「腐らせていく」という腐敗の過程なのだと思う。でも、そうやって身体の中に腐敗物をため込んでいくのは、身体にも心にもよくない。それよりは、腐敗した断片を、どうお日様に照らして、養分のある新たな腐葉土として再生させて行くか、の方が大切なのだ。過去の同種の問題に「居着く」と、そこで足場が固まってしまい、柔軟な考え方や新たな展開に立ち上がっていくことは出来ない。でも、そう簡単に身体の中に沈殿している未消化物をキレイさっぱり忘れ去ることも出来ない。ならば、反省という形での腐敗物の蓄積という解決方法ではなく、「学ぶ」という新たなスタンスで腐敗物を白日の下にさらし、その「自身の断片」をかき混ぜながら要素分析をし、次の展開への「養分」へと変えていけば、よい消化(昇華)へとつながっていくのではないか。そう感じはじめている。

そんな事を考えているうちに、気付けばもうじきお昼。腹ごしらえをして、最後の調査に出かけてきますか。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。