帰ってきたら

我が家が全く別物のようになっていた。

午後9時。久方ぶりのジムで一汗流し、、その後鍋の食材を買い、ギリギリ行きつけのガソリン屋が開いている時間に滑り込んで給油した後、お腹ぺこぺこ、身体クタクタ、で我がマンションへ車を近づけていた。で、マンションのエントランスをくぐって、目が点・・・・。全くの異世界がそこには展開されていた。

そう、クリスマスイルミネーション。

今朝出るときには全くその面影もなかったのに、夜九時には一変、一階付近は電飾で光り輝いている。しかも、大家さんの事務所からは電飾サンタがこんにちわしているし、ツリーも爛々の光。さらには入り口付近では電飾シカさんがお出迎えして、事務所の入り口にもサンタさんとリースが飾られている。何という手の込みよう。しかも、それを一日でやってしまったのだから、びっくり。一瞬どこの国の誰のお宅に来たのだろう、とびっくらこいてしまった。

確かにスウェーデンにいるときも、西宮時代も、電飾したおうちはこの時期にみたことはあった。特にスウェーデンの西部、イエテボリに冬住んでいた折りは、このころからクリスマスの飾り付けで街中浮き足立っていた。都市部はアパートが多いのだが、派手にブルーの電飾で飾るところもあるし、普通のおうちでもリースやツリーの飾り付けは当たり前。ここらあたりまでは日本と同じなのだが、最大の違いはツリー。なんせ、近所のショッピングモールの駐車場などでは、この時期、ツリーが売り出される。しかも、半端じゃない、原木をそのままカットして売っているのだ。平均で1メーターくらいのがどんどこ売れていくのだから、本気度が違う。そんなに高そうではなかったのだが、坂の上に住んでいた僕たちは、あんなに重そうなもみの木を担いで坂道を上ると思うだけで気が遠くなりそうなので、遠慮しておいた。スウェーデンの人々は、正月の1週間が過ぎるまで、クリスマスの装飾をしておいてもいいらしく、年明けまで電飾も飾り付けも残っていたのを思い出す。でも、我が大屋さんは、きっとこの調子でいくと、25日を過ぎたらさっと飾り付けを片づけ、次は立派な門松を出してくださるんだろうなぁ。我が家といえども、決して目が離せない、と思う今日この頃だ。

クリスマスつながりで、友人のケーキ屋さんのことを思い出す。大学卒業後、一般企業に入職していたはずなのに、いつの間にかフランスで修行を積んでパテシエになっていた彼女。人はいろんな人生があるんだなぁ、と思わされていた。しかも、彼女の作るケーキの美味しいこと。甲府に来てからは頼んでいなかったので、早速「御無沙汰+クリスマスケーキ注文メール」を発注する。週末は高槻までクリスマス用のシャンパンを仕入れに行くし、はや年末に向けた準備は着々と進んでいる。こういう着々さが、論文やら〆切を抱えた仕事やらで応用できればいいのだけれど・・・そうは言っても、好きなことしか早くこなせないタケバタ。まだまだ修行は足りませんなぁ。

そういえば、現時点では来年の手帳をどうしようか迷っている。今までは意外と流行に流されて!?「超整理手帳」なるものを使っていた。ただ、ちゃんと計画的に考えるには、もう少し書き込める情報量が多い手帳がいいかなぁ、と想いながら、思案中のただいま。土曜日に大阪の本屋に出かけるので、少しそこで物色して考えよう、と思う。手帳に書くほどの予定があるのかって? こんな僕でも一応ちょびっとはあるのですよ。それよりも、もう少し時間を自分本位で産みだし、ちゃんとアウトプットに向けた時間確保せねば、といつもうわごとのようにタケバタは今日も繰り返していた・・・。

冬支度

甲府は本気で寒くなってきた。

昼間は暖かいのだが、朝晩はものすごく冷える。気がつけば、最低気温が2度とかテレビで言っている。こりゃ、本気で寒い。

実はこれほど寒いのは、スウェーデンの冬を二年間に過ごしたことがあるので経験ずみなのだが、でも今回は様子が違う。スウェーデンで借りていたアパートだけでなく、スウェーデンの建物はどこでも、中に一歩入ればすっごく暖かい。正直、半袖でも十分、というほどに暖かい。だから、脱ぎ着できるように重ね着して、外ではパッチもはくぐらい寒くても、おうちではそのパッチのおかげで汗ダラダラ、という事態に遭遇していた。日本から持って行ったジャンパーがからきし役に立たず、現地でスキー用の上着を購入してお正月に北極圏まで繰り出したことを思い出す。北極圏ではなくとも、イエテボリでも本気で寒かった。

それに比べたら甲府はましだが、だが家の中が寒い。鉄筋コンクリートの我がマンションも、2週間前くらいから底冷えがし始めた。電気ストーブやエアコンではラチが空かない。いつもお世話になっているHさんが、「甲府の冬を乗り切るには絶対に石油ファンヒーターよ」とご助言頂いたので、早速ストーブを買いに走る。予算は3万円だったが、「消火後の臭さをシャッターをしめてシャットアウト」という宣伝文句の最新型ストーブに思わず目がいき、5000円オーバーだが買ってしまう。当初はもう3000円高かったのだが、値切れてしまったので衝動買いしてしまった。でもこのストーブのおかげで、ようやく朝の寒さも乗り切れる事となった。

冬支度はこれだけでない。先週末は仕事の帰りによった小淵沢のアウトレットで、ダウンジャケットを買う。手持ちのジャンパーは重すぎるか、あるいは生地が薄くて、甲府の冬を乗り切れない。かといって、スウェーデンで買った重装備のスキー用ジャンパーをスーツの上に羽織るのも不格好。なので、ちょっと高かったが、黄色と茶色のリバーシブルのダウン素材のジャンパーを買う。着心地が良く、何より軽い。スーツを着ていても、どうも肩こり気味のタケバタにとっては、大変に良い素材、と感動する。ついでに、以前買ってお気に入りになったシャツ屋で白シャツを買う。良いシャツは、仕立てが本当によくて、着心地がいい。しかも、今回買った白シャツは一ひねりしてあり、着るのがすごく楽しみだ。そう、皆さんご存じないかもしれないのですが、実はタケバタはシャツ好きだったりするのです。でも、この仕立ての良いシャツを見つけてしまったので、当分の間、このシャツ屋で買おう、と心に決めていたりするタケバタであった。

で、冬支度は我が家と自分だけではない。今日は車の冬支度、スタッドレスタイヤの交換も行った。奥さまはノーマルタイヤのホイルがお気に入りだったので、「スタッドレスタイヤのセットについてくるアルミホイルはダサイのではないか?」と不審がられていたが、いざ装着されたタイヤをご覧になられて一言、「意外とわるくないじゃない」。ああ、よかった。一番安いアルミホイルだけれど、16インチなので、結構高かったのですよ。などと言ってもしゃあないけれど、これで冬道も安心だ。なんせ、勤労感謝の日、大阪からのお客様を乗せて御坂峠を登って天下茶屋まで向かった折、朝10時過ぎでも道は一部霜が降りていた。山梨の山道はそれほどもう、寒い。車も朝、かなり白くなっている。西宮と違い、本気の寒さだ。なので、人も家も車も冬支度。そしてタイヤを倉庫にしまったついでに、倉庫に置いてあった奥さまのスノボも取り出す。この冬は、ちょっくら僕もスキーに出かけよう。そうしないとスタッドレスの元もとれないし・・・。などと考えていると、この冬も楽しくなってきた。

緊張と弛緩

今日は久しぶりに午前をお休みにした。

昨晩は真夜中まで八ヶ岳の麓で議論をしていて、帰ってきてもテンションが高かったので夜中からキムチをバリバリ食べながら、食器を洗ったりゴソゴソ二時ぐらいまでしていた。そしてお風呂にも入らず寝てしまったので、当然翌朝はどろどろべたべた。10月中頃から毎週末仕事が続いて、疲れも溜まっているし、明日は長野で仕事だし・・・と思うと、ここらで半日休んでおかないと体が持たない。なので、パートナーを仕事場に送り届けた後、ほったらかし温泉へ。

抜けるような青空の下、素っ裸で甲府盆地を眺めていると、疲れも吹き飛ぶ。目をつぶれば心地よい日差しがまぶたにあたり、体はじんわり温泉で暖まり、極楽状態。太陽の日差しは体の隅々にまであたっていて、本当に気持ちよい。村上春樹の小説の中で出てくる、主人公の男性のサンベイジングの描写がふと頭によぎる。これでピナコラータでもあったら・・・あ、それはハワイのことだっけ。南国に久しぶりに出かけたくなってきた・・・。などとくだらないことを考えているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。

体はリラックスできたので、次に出かけたのがインフルエンザの予防注射。この春、甲府に引っ越す直前にアメリカ調査に出かけたのだが、その最終日、飛行機の中で風邪を引き、しかもそれがインフルエンザだった。帰国後1週間で引っ越しというキツイ日程で、そのころは送迎会を連日のように主催して下さっていた。なのに肝心な時に風邪をこじらせてしまい、結局、お世話になったある方が開いて下さった送迎会を、主賓の私が蹴ってしまった。そんな「前歴」があるので、今年も予定は年末まで詰まっているし、ここで風邪をひいちゃあたまらん、と予防接種に出かけたのだ。チュッと一針3000円。これでインフルエンザが予防できるのなら、ありがたいものだ。その後、アクセラ号を洗車機にかけた後、大学へ。

昼から原稿書きをしている最中、元の教え子から久しぶりのお電話。どないしたん?と声を聞くと、受話器越しに泣いておられる。色々聞いていると、今の職場で、ある利用者への支援に関して理不尽な処置がなされ、そのことで腹が立っている、とのこと。「私が怒られるのはいいけど、利用者さんの問題を解決する方向に進んでいないのが腹が立つ」 なんというまっとうな怒り。こういう真っ直ぐな気持ちを、入職1年半経っても持ち続ける彼女は実に頼もしい。ただ、そういう気持ちを持ち続けるためには、真っ直ぐさ、だけでは限界があることを知っている老獪なタケバタなので、少し入れ知恵をしてさしあげる。入れ知恵、と言っても別にたいしたことではなく、組織間不連携や責任の所在のなさを超えるための当座の処方箋をお示しした上で、「今日はお友達と飲んで、愚痴を言いまくって、すっきりして眠る。で、気分を落ち着けてから、明日以後、クールに問題を処理するべし。熱い気持ちは大切だけれど、頭はいつでもクールに分析的でないと乗り切れないよ」と申し上げる。怜悧な彼女のことなので、多分明日以後、復活なさっておられるだろう。

こうやってたまには頼りにされると思うと、こちらも背筋がピンとする。ピンとしたついでに、うねうね考えていた原稿の原案もとりあえず書き終える。こうやって書いたり、話したり、としているうちに頭が活性化するタイプ(逆に言えば書いたり話さなければまとまりのないタイプ)のタケバタにとって、午前中にエネルギーチャージを終えた上で、午後は大変エンジンがかかった良き一日であった。まさに弛緩と緊張のメリハリある一日。肝心の来週の授業の組み立ては積み残しになったが、ま、それは日曜日にのんびり考えるとしよう。さて、今日は白ワインに合う魚でも探しに行きますか。

拒否宣言のメタメッセージ

ボランティア拒否宣言を久しぶりに授業で扱った。
(原文は次のhpに http://syuwade.gozaru.jp/volunteer.htm

9年くらい前、大学4年生の頃だっただろうか、非常勤で教えに来ておられたH先生のボランティアに関する授業の中で、この「拒否宣言」に出逢った。当時は障害者運動の流れも知らず、むしろボランティアする側のマインドでこの「拒否宣言」を眺め、ずいぶんキツイ表現だなぁ、と思っていたものだった。

先日研究室を掃除していた折り、このH先生の授業のレジュメ一式が出てきた。僕はこの先生の授業が好きで、他の授業はろくすっぽ出なかったのに、この先生の授業はすごく考えることが多くって、自分の性にあっていたのか、毎回必ず出席していた。もともと少人数だったが、最後のレポートが終わった後の補講にはとうとう僕しか出席せず、一対一で色々教えて頂いたことを昨日のように思い出す。そういえば、この先生が用いておられたフィールドワークの手法の一部も、自分の中で息づいているような気がする。だが、このときは、正直「拒否宣言」の本質を理解していなかったのかもしれない。

それから10年、今年授業で用いてみて、意外な発見があった。
先週の授業でこの「拒否宣言」を題材に取り上げたのだが、実に様々な感想が出てきた。今週火曜日はその感想から14人分のご意見を一枚のプリントにまとめ、ボランティア・NPO論の4限の授業では、10数名の大学3、4年生の皆さんと全部の意見を読んでみて、自分が誰のどんな意見にどういう気持ちを持つか、のディスカッションをしてみた。そのとき、ある学生の感想の中に「ボランティアを拒否してしまって、車いす生活者なのに、そんなプライド高くして生きていけるのか?」という問いかけにどう答えよう、と思っていた時のこと。ふと、次のようなフレーズが口をついて出だしたのだ。

拒否宣言は、実は文字通りの拒否ではなく、切実なるコミュニケーションを求める過激なきっかけなのかもしれない。例えば皆さんだって、彼氏彼女に「あんたなんか嫌いよ」という場面もあると思う。でも、そのとき「じゃあ別れようか?」と相手に言われたら面食らうことはないか? 「あんたなんか嫌いよ」という表現に対する論理的解答としては、「では別れれましょう」もありだが、「嫌いよ」表現が発するメタメッセージが実は別の所にあるから、「別れよう」という応酬は、「嫌いよ」というメッセージを発したご本人が求める返答としては相応しくない場合がある。

どういうことか? たいていの場合、「あんたなんか嫌いよ」という表現の裏には、「こういう部分についてすごく不満があるのだから、ちゃんとこの部分を聞いてよ(配慮してよ、大切にしてよ、遠慮してよ・・・)」という訴えがある場合が多い。その際、この裏の表現(メタメッセージ)に着目して、「どこが納得いかなかったのかなぁ?」と耳を、目を、心を相手に向ける人と、表面的な「嫌いよ」メッセージにのみ反応する人とでは、その後のコミュニケーションの行く末はずいぶんことなる。

私たちは本質的なデッドロックにさしかかった時に、しばしばそれを打開するための強硬手段として「あんたなんか嫌いよ」というフレーズを用いる。もしかしたら、花田さんの「拒否宣言」も、ボランティアに本音が伝えられずに身もだえした結果、にっちもさっちも行かなくなった折りに、その状況を打開するための強硬手段として選んだ「宣言」なのではないか。ならば、この拒否宣言の表面的メッセージに囚われて「ほんならボランティアなんていらないの?」と感情的判断を先行させるのではなく、メタメッセージは何か、に気づいて、「じゃあどういうことを直せばいいのか?」というコミュニケーションの回路を開いていくこと、それが、この拒否宣言に対するレスポンスとしては相応しいのではないだろうか。

書いてみたらごく単純なことなのだが、このことに気づくのに10年かかってしまった。なんという遅々とした歩み。でも、多分10年前の青臭いタケバタ少年には思いもつかなかった考えだろうなぁ。その一方で、この日の発言に一番深く頷いて、授業後も「今日の先生の発言、恋愛に置き換えて言ってくれたから、深く納得しました」と仰ってくださったのが、女子学生2人組だった。彼女たちが20才で気づいた事を、僕は10年後にようやっと気づいているんだから、まったく、ねぇ・・・。

なにはともあれ、このメタメッセージ分析、というのは、デッドロックにさしかかっている他の事象を解きほぐす際にも有用かもしれない。表面的な言葉に振り回されず、メッセージの本質と真っ当に向き合う、それが肝要なのだと気づけて、変な話だが自分でも得した授業だった。

タコツボを超えて

静岡への出張から帰ってきた。

今回の出張は、他学科の先生方と一緒だったので、大変おもろい二泊三日だった。

大学で研究室と授業と教授会、という3点セットしか回っていないと、同じ学科・会議の特定の先生以外とのやり取りの機会はない。また、あったとしても立ち話程度で、ゆっくりじっくりお話する機会、なんてそうない。それが今回、ご一緒させて頂いたお二方の先生と、文字通りゆっくりじっくりお話出来たのは、大きなひろいもんだった。

何がよかった、って、普段の3点セットでは、「知っている人」との会話になり、どうしても視野が狭くなりがちだ。でも、違う経験を持ち、専攻・分野も違う先生方に自分のやっている事を伝えようとすると、最近の自分が何をしているのか、の棚卸しから始めて、その先生方に届きうる抽象性と普遍性を持つ言葉で自分のタコツボを開きながら、中の具を取り出していかなければならない。そして、この取り出す作業をする中で、「あ、俺って最近こんなことやってたんだ」「こういう事で困ってんだ」とわかるだけでなく、お相手してくださる先生方の意外な方向からのボールに答えようとする中で、放っておいたら閉じがちなタコツボの中身をさらに開く必要にせまられる。これが、ジャンルの違う先生方とのおしゃべりが面白くなる契機となるんだろう。

このタコツボを開く、というのは、最近別の場でも感じている。

例えば今日はこれから大月に講演に出かける。自立支援法が通った後で地域ではどうすればいいのか、のヒントがほしい、と主催者からは言われている。別にこの問題の専門家ではなかったはずなのだが、たまたま去年の10月、グランドデザインが出た後からずっと追い続けて来たら、少し「おたく」になっていたようで、それを勉強会の場などでお伝えするうちに、なんだか「にわか専門家」になっていた。勿論制度を作るのは厚労省側だし、制度の流れもきちんと追い切れているわけではない。でも、それでも多少は「わかりやすい」とお褒めの言葉を頂くこともあるのだが、その理由は、僕がたまたま障害福祉分野のあれこれを垣間見て来たからだろう。

僕は博論までは主に精神障害者福祉を見てきた。そして博論を書いた後の二年のフリーター時代、縁あって身体・知的の脱施設に関する研究班に混ぜて頂き、身体・知的の現実に初めて触れた。去年はそれに重症心身障害の方々の地域生活支援を考える現場にも関わるようになった。で関わってみて感じるのが、「なんだ、精神と同じじゃん」と「でも全然やり方や議論内容が違うじゃん」ということであった。

僕は多分自分のめがねとして「精神障害者のノーマライゼーション」という観点のめがねを持って、知的障害者や身体障害者福祉の現実を眺め始めたのだと思う。そして見てみると、案外他障害の現場で、言われている表面的な事は違っても、事の本質は同じ、という問題に多く遭遇する。施設からの地域移行という問題は、精神病院からの退院促進と全く同じ問題性や困難性を抱えている。なんだ、同じじゃん、と思う瞬間である。

一方、いろいろな業界の方々のお話を聞くようになって、三障害、そして高齢者福祉で、同じ様な問題を扱っているのに、語り口が微妙に(時には大きく)違っているのも気になる。地域福祉、という側面で考えたら同じ問題を扱っているはずの皆さんが、現場のリアリティ、という小さな差をものすごく大きな違いのように感じて、他障害の現場に出かけると「ここは私の現場と違う」と差異を強調されることがある。でも、地域福祉に関係ない普通の市民にとって、三障害の違いなんてわかんないし、高齢者と障害者の福祉の何が違うか、にも興味ない方々がおおいのだ。ならば、三障害と高齢がそれぞれ自身の差異にこだわってタコツボ化していて、どうして「地域に開く」ということが出来よう。こんなことに、僕もフリーター時代に少しずつ気づきはじめた。そこで、ちょうど三障害が「法律的」には統合される時期だし、もっというと将来高齢者の法律に吸収合併される可能性が高い時期だから、「それを利用して皆さんもタコツボを超えて、地域を豊かにする応援団を増やさなければ」と今日も朝からヤイヤイ言ってくるつもり、である。

タコツボを超えるのは、自分を、ダメな部分や至らない部分も含めて客観視することであり、ハッキリ言って楽じゃない。でも、そうやって相対的に眺め、他の人からの視点やアドバイスを入れる中で、自身が育んできた中身、がきっと豊かになっていくはずだ。タコツボ内で水を腐らせない為にも、たまには外ににゅるにゅるっと出て行くのもよいなぁ、と思った週末であった。

ギリギリ、きりきり

明日がデッドラインの報告書を抱え、ギリギリの状態である。

もとはといえば、「大変重要だけれど優先順位が低い」と放っておいた僕がお馬鹿さんなのであった。典型的な「忙しいことを言い訳に、肝心な仕事が出来てないタイプ」である。でも、来週の月曜に発表なので日曜が〆切、というお達しが消て、明日の夕方から出張なので、どう考えても明日がタケバタが手が入れられる〆切。しもうた、もっと早く・・・という戯言を言っているヒマもないほどせっぱ詰まったギリギリだったので、きりきり舞いになりながら、とにかく資料を当たりつつも書き進めた。ほんと、これは絶対精神状態が良くない。とにかく明日で区切りをつけ、時間管理を徹底的にしないと、めちゃくちゃ今の僕は要領もわるけりゃ、仕事を処理できる容量も少ない。これではほんと、先が思いやられるばかりだ・・・。

そんな中、3年ゼミ募集で学生さんが何人か質問に来て下さったが、「ごめん、今日明日だけは堪忍して」と来週にお願いする。おしゃべりなタケバタが一番楽しいのは、こうやって来て下さる学生さんとのやりとりなのに、その最大の楽しみを自制するほど、本当にデッドラインなのだ。いやはや。

とはいえ、そんな中、今日はこれくらいで切り上げて、自宅に戻る。ちょっとここ最近ずっと張りつめっぱなしで頭がほぐれないので、大切な明日の締め切り日に能率を上げるために!?、というのは嘘だけれど、家に帰ってワインとシャンパンを片手に、友人宅に「三河屋さん」しにいくのだ。大阪のいつものワイン屋で仕入れたワインを6本分、届けに出かけるのである。そして、ついでにお宅に上がり込んで、シャンパンを飲みつつグタグタ言ってキリキリ舞いのここしばらくの日々をメルトダウンさせよう、という魂胆だ。「ちゃんと〆切を終えてからにしなさいよ」としかられそうだが、そうでもしないと、全くここしばらく休んでも遊んでもいないので、もう変になりそうなタケバタ。もともと「遊び」が多い人間なのに、それが取られるとちょっと調子を崩しそう。そういえばインフルエンザもはやりかけているし・・・やはりここは一つ景気よくポンとボトルを開けよう、という野郎の会なのである。気が合う相手ゆえ、それはそれで楽しや。というわけで、帰ります。

タイムマネジメントとお節介おばちゃん

なんだか最近、目の前の締め切りとしなきゃならない雑務で追いまくられている。

それはそれで大切なのだけれど、どうもそんな毎日で、「ほんまは大事だけれど〆切が自分で設定できること」がどんどん後回しになり、ストレスがたまっている。なので昨日大阪から帰る飛行機+電車の中で、タイムマネジメントに関する本を読んでいた。曰く、「忙しいを言い訳にしてはいけない」・・・。今の自分は「とにかく忙しい」とよく言い訳にしていたので、イテテ、と胸に刺さった。さらに曰く、「すぐの締め切りにばかり振り回されてはいけない。タイムマネジメントをして、本当に大切な仕事をちゃんとこなせるようにならなければ」・・・その通りなんだけれど、そう簡単に出来ないんだよねぇ。でも、急激に仕事が増えて来ると、ほんと対策を考えなければならない、と思って、一念発起。今日はその本に書かれていた、スケジューリングをアウトルックを使ってやってみた。何のことはない、既に決まっている予定に加えて、「自分へのアポイントメント(=自分一人でする仕事に関して自分で時間的にどれだけ使えるか見積もりすること)」をしてみた。そして、愕然。ほとんど、時間が残っていない。

そんなグチをある先生にこぼしていたら、その先生はこう仰っていた。「そりゃあ、社会人なんだから仕方がないねぇ。だから僕だって、論文と授業と学務の常に三本を頭の中に錯綜させながら、空いた5分でも10分でも、パッと何かに取りかかれるように、常に臨戦態勢になっている。そんな中から、時間を振り絞って、論文を書いているんだ」。さすがは先輩。恐れ入ります。タケバタはまだそこまでする器はございません。・・・と思いながらも、僕もそうしてムリしてでも臨戦態勢組まないとムリだよなぁ、とも思い直していた。

で、じゃあ真面目に今日は報告書作成に取り組んだのか。いやいや、さにあらず。またもや、僕の中の「お節介おばちゃん」の血が騒いでしまった。

今日は4限、法学科の一年生向けの法学の授業で、「精神障害者と権利擁護」というタイトルで一コマ授業をさせてもらった。僕は政治行政学科所属なので、こういう授業でもないと、法学科の皆さんの前で話すことはない。しかも、一年生の半数(140人くらい)が受講してくれている。こういう新たな出会いはまたとないチャンスだ、とばかり、いつものようにまくし立て、挙げ句の果てに、法学科の大家の先生の御前で、「法律という枠組みを不変のものと考えずに、どうすればみんなが幸せになれるよう、この枠組みを維持・変更すべきか、を一生懸命考えてほしい」などとわめいていた。にもかかわらず、多くの学生が真摯な眼差しでしっかと受け止めてくれ、授業後に3人の学生が声をかけてくださり、うちお一方は研究室まで訪れてくれ、1時間くらい、じっくり話し込んだ。こういう風に、お節介にダイレクトに答えてくださる方がいられるのは、教師冥利に尽きる。

「1件の重大災害(死亡・重傷)が発生する背景に、29件の軽傷事故と300件のヒヤリ・ハットがある」というのがハインリッヒの法則だが、この法則を都合良く理解すると、授業後に一人の学生がわざわざ来てくれる、ということは、29人の方が興味を持ち、その倍以上の方の心の片隅に、何らかの言葉が残っていればいいなぁ、とタケバタは夢想している。そう思うと、こういう他学科や一回こっきりの出会いといえども大切であり、お節介おばちゃんにとっては、手が抜けない貴重な経験だ。

ちなみになぜお節介「おばちゃん」か、というと、大阪のおばちゃんというものは、「にいちゃん、これええで、絶対お勧めやさかい」と自分が気に入ったものをやたらとひとに勧める傾向がある。タケバタの授業のやり方も、これに似ているので、題して「お節介おばちゃん」なのです。

さらには、何だか今日はこの「お節介おばちゃん」の血が騒ぎまくったのか、授業後に来た学生さんをお相手に1時間以上話しまくっただけでなく、以前メールをくださったワーカーさんへも1時間近くかけて自分ありの考えを書きつづったり、帰宅後も別のワーカーさんにまたワイワイガヤガヤまくし立てたり、まあまああれこれしゃべって、同じくらい書いておりました。こういう風に盛り上がっているからこそ、またタイムマネジメントがうまくいかなかったんだよね。でも、それも大事だし、まあしゃないか、などと思っているうちに、今日も一日が終わっていくのであった。さて、アメリカ報告書は〆切の週末に本当に間に合うのだろうか・・・。これはマネジメント能力の問題か、はたまた仕事の詰めすぎの問題か、その両方なのか・・・。

メモリアルな一週間

この一週間は、あれこれメモリアルな出来事に遭遇しながら、あっちゅう間に過ぎていった。

11月9日の水曜日。冷え切っていたが、朝から澄み切った青空。大学に出かける途中、愛宕トンネルを抜けてすぐの右側に、甲府盆地が見える。この日はすごく天気が良かったので、富士山がスッと見えた。そんな朝から晴天のその日の2限は、来年度の3年ゼミの募集説明会だった。他の先生がお話になられている最中、窓から見える図書館前の紅葉を前に、1年前の11月9日のことに想いを馳せていた。

この1年前の11月9日も、今年と同じように晴れだった。そして、僕はその日、甲府の、山梨学院にいた。そう、それが大学の面接の日であり、生まれて初めて甲府で降り立った日でもあったのだ。澄み切った青空と鳥のさえずりの聞こえるキャンパスが妙に印象に残っていた。それから1年後、こうして実際に大学の一員として甲府に住んでいることに、摩訶不思議なご縁を感じていた。ちょうど1年前の11月頃、と言えば、フリーター生活二年目の後半を迎え、これもご縁あって3月までの研究資金は頂いていたものの、その後の見通しは全く立たず。しかも、二年間で大学の常勤職に書類を出した数は40を超え、もうダメかも、などと弱気になっていた。そして、自分の出身の人間科学部でも、あるいは自分が研究していた福祉学部でもない法学部、という未知の領域への期待と不安が膨らんでいた。ご縁、と言えば、確か朝9時か10時頃からの面接だったので、前日は富士見の恩師のお宅に泊めて頂いた。いつものように美味しいお酒と料理で面接前日の緊張をほぐして頂き、いくつかの貴重なアドヴァイスも頂いた。そんなご縁もあって、その数日後、採用の連絡が届いた。ちなみに変なもので、この採用通知の数日後、別の大学からも同様の連絡が届いた。「落ちるときは落ち続けるけど、通るときは続けて通るもんだ」としみじみ感じていた。

実はこの11月9日、というと、もう一つ大きなつながりがある。これは、僕がこのフリーター時代にスタッフとして働かせて頂き、貴重な経験とパースペクティブを与えて頂いた、NPO大阪精神医療人権センター(http://www.psy-jinken-osaka.org/)が20年前にスタートした日、でもあるのだ。博論は終えたが仕事が決まらなかった(ということは時間だけあった)この時期にこのセンターと関われたことが、今の自分に与えた影響は大変大きい。自分の視野を開き、そして現場第一主義や当事者の声を聞くことの大切さを身をもってOJTさせて頂いた、本当に貴重な日々だった。そして、様々な出会いにも恵まれ、精神保健福祉に関する視野がこの2年でぐんと深まった・・・。そんなことを、土曜日、大阪で、しみじみ思い出していた。この日はNPO大阪精神医療人権センター設立20周年記念集会に駆けつけていたのだ。

記念集会のタイトル「精神病院はどこまで変わったか?」に表されるように、この20年の日本の精神保健福祉の変わったこと、変わらなかったこと、をある種総決算するような、本当に濃厚なシンポジウムだった。4時間の内容が文字通り、あっという間に感じられた。180人の会場が一杯になるほど、多くの皆さんが興味を持って足を運んでくださったことも、元スタッフの一員として嬉しかった。そして、懇親会の場で、お世話になった様々な方々との歓談の中で、改めてこのセンターに関わることによって頂いたご縁への深い感謝を新たにしていた。

それ以外にもメモリアルはてんこ盛りだった。金曜日の大阪入りに際しては、西宮まで空港バスに乗った際、名神高速の車内から、3月まで住んでいたマンションをちらと見かけた。以前住んでいた部屋は、パラボナアンテナもついていて、新たな住人を獲得したようだ。あのマンションの近所にはお気に入りの花屋があって、兼業主夫の時代はガーデニングもどきにもはまっていったっけ。最近はすっかりそんな時間もないなぁ。帰りは帰りで、大学1,2年の一般教養の時代の通学路である阪急宝塚線に乗って蛍池へ。大学前半といえば、なんだかあか抜けず、バイト三昧の暗中模索で、あまり楽しくなかったよなぁ。もっと自分の殻に閉じこもらず楽しんでおけばよかったのに・・・。過ぎゆく駅と記憶が重なり、不思議な感じがする昼間の快速急行だった。

文字通り、この1週間は過去の自分を再確認する日々だった。でも、それが今の自分に繋がっていて、そして未来の自分への投企の第一歩となる、と思うと、大切な断片の数々だ。次の10年20年に、どんなご縁がいただけるのだろう、そう思うと、新たな週を前にして、ワクワクしてきた。

己の語り口を疑え!

先日、ある歴史的経緯について僕と同じような見識を持たれた方の意見が、僕の知る他の方によって批判されていた。批判をした人は、その方の意見そのものに批判的なのではない。その人の語り口の強さや一面性について、問題視されていた。なぜそういう語り口をするのか、と。なぜそのような言い方で言い切っていいのか、と。そこには様々な歴史的ファクターがあるのに、それらを全てバッサリ否定して、一面的な正誤の判断をしてしまっていいのか、と・・・。

その話を聞きながら、すごく気になり始めた。実は僕だって、批判をされた人と同じ語り口をしてはいないか。つまり、「I am right, you are wrong」のロジックで話しているのではないか、と。

この二項対立的言説は大変クリアカットでわかりやすい。でも、その際、wrongと宣言された人に、反論の余地は全くない。何をどういっても、wrongの人の戯言だ、で終わってしまう。これは、対話の回路を全く閉ざすことである。論理的に相手が言うことの方が正しいと理解できても、感情的なしこりは全く消えずに、むしろ増幅される。そして、この世の中で、論理的整合性の破綻よりも、感情的亀裂の方が、問題をより深刻化する可能性が高いのだ。

要は、本当に問題を解決したいのなら、正邪の二項対立の論理を設定して相手を言い負かすのではなく、同じ方向を向かって、一緒にあるべきrightの可能性を模索しようよ、という語り口(言説)の方が、実際的に多くの人の共感を得て、物事を変えうる、のである。タケバタは、本当に物事を解決したいのか、はたまた誰かを言い負かしたいだけなのか?

もちろん僕は理論的喧嘩に勝って(言い負かして)自己満足をしたいのではない。多くの人の合意に基づき、この日本社会がもっと幸せな社会に変化していってほしい、と願っているだけだ。ならばその際大切なのは、正邪の判断を断定することではなく、どうすれば望ましいsolutionの道へと歩めるのか、を様々な立場の人が協働して見いだしていくことである。

・・・こう整理してみると、最近自分の周りで起きている現象も違って見えてくる。ここ最近、自分の周りでうまくいっていないこと、あるいは反発意見が寄せられたこと、を一つ一つ眺めていくと、実はその多くが、「I am right, you are wrong」のロジックで僕がねじ伏せていた例であった、ということを、今朝、大学に行く途中の愛宕トンネルの中で急に気がついてしまった。「そっか、あれがうまくいかなかったのは、他の誰のせいでもなく、僕自身の語り口に端を発しているのだ!」と。

そう思うと、気がつけば、僕の周りでは様々な警告ランプが点灯している。その警告ランプにきちんと自分で答えられるかどうか、はまさに自分自身にかかっている。自己満足から始まって他者満足まで志向するタケバタにとっては、自分の発言へのリフレクションは、次への一歩を進める上で、大きな一歩となるはずだ。難しいこっちゃない。自分の語り口そのものをまずは疑えばいいのだ。Am I something wrong?

失敗をすれば、こそ・・・

木曜は一日中こゆかった。

スウェーデンやオランダから知的障害を持つ当事者と支援者、またオーストラリアの研究者もゲストにお招きし、本人活動やその支援についての在り方、入所施設から地域に戻ることの意義、などについてのシンポジウムが一日あったのだ。実に内容が濃かった。

僕は主催者の研究班の一員として、裏方に回っていたのだが、僕がサポートに入った分科会がめっちゃ面白かった。そこでは、オランダとスウェーデンの障害当事者がプライバシーのことについても、基調講演で突っ込んだ発表。「僕はグループホームで世話人に自分の部屋のタンスの中まで全部見られてすごく嫌だった。だから、グループホームを出て、一軒家を借りて、そこで結婚して子供と妻と住んでいる。支援さえ受けられれば、集団生活する必要はない」とオランダ人のウィリアムさんが話せば、スウェーデンのジェーンさんは、「あたしは、障害があるから、といって低く見られたくない。私は今、結婚もして、自分の子供もいて、仕事も持って、いきいきと生きている」と発言。この2人の発言に触発されて、日本人の参加者からも色んな意見が飛び出してきた。

「僕はグループホームに住んでいるけれど、自分の部屋の鍵がもらえない。ほしい、といっても、許してもらえない」「あたしは、自分がいないときに掃除してほしいから、信頼できるスタッフには部屋の鍵を渡している」「自分も恋人がほしいが、どうしたら出来るのか教えてほしい」「お話をされたスウェーデンの方もオランダの方も、発言もしっかりしておられ、障害程度も軽いと思う。でも私の娘は大変重度。そういう重い障害では、プライバシーが大切なのもわかるけど、もしものことを考えると心配だ。その場合、どうすればいいか?」・・・

日本のこういったシンポジウムにしては珍しく、本音の質問がたくさん集まった。で、それに対するウィリアムとジェーンの答えもまた、深かった。

「鍵は自分を守る、という意味で、大事な『鍵』になってくる。なので、どんなに障害が重くとも、自分の部屋は自分で鍵をしめたい」「自分がいないときに掃除をしてほしい、という理由で鍵を渡すのは変だと思う。だって、もしも一軒家なら、その鍵を誰かに預ける、ということは不安なはず。信頼できるスタッフなら、自分がいるときに掃除して貰えるように頼めばいい」「結婚も、一度でうまくいくとは限らない。私は一度目のダンナはつまらない人だったので別れて、二回目で幸せになった」「重い障害を持っても、お母さんが想像する以上に『できる』可能性はある。だから、まずは任せて、やらせてみてほしい」

これらのやり取りを聞きながら、「過保護」と「失敗を未然に防ぐ」ということが、日本の福祉における大きな問題だな、と感じていた。

重度の障害のある人ほど、支援者や家族が様々なお膳立てを最初からしてしまう。例えば「お金をすぐに使い果たしてしまうので、かわいそうだから、小遣い管理を支援者がする」というのは、結構多くの施設で日常的に行われていることだ。だが、それに対してもウィリアムは大きく反対していた。「僕だって以前、お金の管理が苦手だった。レストランでご飯を食べた後になってスッカラカンであることに気づき、こっぴどく問いつめられたことがある。だが、その経験があるから、お金の管理はきちんとしなきゃいけない、という事が肌身でわかった。なので、使い果たしてしまうのも、いい経験だと思う。」 このウィリアムの発言からも、「失敗をする」という貴重な体験が、自分なりの試行錯誤を促し、次に「お金をうまく管理する」というステップへと繋がる最大のやりかたなんだなぁ、と感じさせられた。逆に「町で怒られたらかわいそう」だからと、そういう「失敗を未然に防い」でしまったら、結局の所、本人の潜在能力開発のチャンスを奪うだけだ。それは「過保護」というか、大切な成長のチャンスを奪うだけ、ということが、この分科会を聞いていて、すごく感じられた。

で、はたと考えた。今の日本では、障害者にはもちろんのこと、普通の学生さんにだって、「過保護」になっていないか? 失敗するチャンス、を与えているか? それを適切にフォローできているか? これは大変大きなテーマであると思う。少なからぬ学生さんが、「失敗したら嫌だし・・・」とあらたな何かに挑戦することを渋っている。試行錯誤は、失敗してはじめて次の段階にいくのに、それが嫌だから、面倒くさいから、とはじめの一歩が踏み出せない。すると、障害当事者への支援も、学生支援も、実はこの局面ではほとんど同じ。いかに、一歩踏み出してもらうか、そして失敗したときに、必要なだけの、次に繋げるための支援が、出過ぎない(過剰でない)形でどれだけ出来るか、なのだ。そう思うと、大変深くてこゆいお話であった・・・。