研究者とメディア

とある現場でメディア関連の方と話していて、改めて福祉に関わる研究者とメディアの共通点について考えていた。

事実をある枠組みの中で再解釈して一つのストーリーとして再構築し、誰かに伝える役割。しかも、理論と現場、現場と視聴者などの「あいだ」という立ち位置。この役割と立ち位置を、どう現実に活かせるのだろうか、そんなことを考えていたのだ。

例えば障害者分野で言えば、今は4月からスタートする自立支援法のことで、この業界はもちきりだ。勉強会は各地で開かれ、多くの方々が何がどう変わるのか、が見えてこず、とにかく必死で勉強してついていこうとされている。勉強自体は大変結構なことなのだが、私たちは勉強すればするほど、その「勉強」にのめり込み、ついつい現実を忘れてしまう。そもそも、その枠組みがいったいどこからやってきて、何がどう問題化され、どれは放置されているままなのか・・・。こういった本質的に大切なことは、目前の変更課題についての勉強に翻弄されている間に、いつの間にか遠くに追いやられてしまうのだ。そして、ようやっとその制度を理解したころには、またさらなる制度の変更が追いかけてきて、いつまでも目の前の勉強にのみ終始する。その間に、本質的議論はどんどん後退し、現実の後追い勉強をすればするほど、本来許せないはずの現実でも「しかたないよ」としたり顔に現状追認する「かしこい」人間に変わっていく・・・。

こういう現状追認システムに「ちょっと、待った」をかけられるのが、メディアであり研究者である、と思うのだ。

何に「待った」なのか。まずは、そもそも新しい制度の「勉強」にのめり込むことに「待った」である。不用意に「勉強」に入り込むことは、まず相手のロジックを肯定することに繋がりかねない。そのロジックが内包する問題点や矛盾点は、無批判にそのロジックの勉強に終始する人間には決して見えてこない。「でも、そうは言っても新しいシステムを勉強しないとついていけない」 こういう意見が出てくるかもしれない。この意見にも「待った」である。何のために「ついていく」必要があるのか。「乗り遅れたら大変」という答えが返ってくるかもしれない。では、乗り遅れると、何がどのように大変なのか? そもそも、本当に、その仕組みに乗っかったら幸せになるのか? また乗り遅れたら、どうしようもないのか? 本当はそのシステム以外の新たなシステムの方が、乗り心地も方向性も良いのではないか? こういったことを、一呼吸置いて考えるための「待った」が大切なのである。

メディアも研究者も、事実をある枠組みの中で再解釈して一つのストーリーとして再構築し、誰かに伝える役割と書いた。この際、ある事実に関する解釈は、決して大本営発表である必要はない。むしろ、メディアや研究者の真骨頂は、世間で信じられている大本営発表のストーリーをひっくり返し、いかに同じ素材から、違う文脈で、違う展開で、新たな物語へと再解釈できるか、が腕の見せ所のはずである。しかるに今のメディアも研究者も、どうも大本営発表の強化役割を果たしているような気がしてならない。

また、研究者もメディアも、理論と現場、現場と視聴者などの「あいだ」という立ち位置にいる。「あいだ」にいるからこそ、両方の現実を有機的に結びつける事が本来可能な、接着剤の役割を果たしうる。そして、その接着剤が良い場面で適切に効いた時、そこから現実を変えうる歯車が回り始めるのだ。だが、現実は「あいだ」の位置で右往左往するか、「あいだ」を標榜しながら、どっちか片一方に固着している例が多い。

これらは何も福祉に限らず、日本の現在のメディアや社会科学系の研究者にある程度共通する、ある種の機能不全のような気がする。この機能不全をどう超えていったらいいのだろう。そんなことを、考えていたのだ。で、その処方箋はそう簡単に思いつかないが、少なくとも、その立場にいる人間が、自らの立ち位置を常に自覚しながら「待った」をかけていく、この正面突破作戦が、実は一番処方箋として効果があるのではないか、と今のところ感じている。

ドタバタ劇からの解放

ツアーから帰ってきた。

金曜の朝一番の列車で静岡京都高槻と乗り継ぎ、11時15分頃、いつものワイン屋に飛び込む。店長のMさんには「とにかく10分くらいしかいられない」と告げて注文をお願いしておいた。しかも今回も、ここのワインを気に入った知人の分も購入するので、12本×2=24本分。彼にはお世話になったので、プレゼントワインも1本忍ばせるから計25本! これを10分で確認して買うのだから、何とも・・・の話だ。だが、ここのワインは本当に苦労して買いに寄る甲斐があるほど、おいしくてお値頃のワインが多い。1本1000円そこそこでホンとええのがそろっているのです。今回はその後、花粉症のお医者様@甲子園口、に12時半に滑り込まねばならないので、10分で「また今度!」と去って行く。そう、この日はめちゃくちゃな予定の立て方だったのだ。

その後、昔住んでいた甲子園口の医者薬局美容室、と移動。髪にそこまでこだわりがあるわけではないのだが、今まで切ってくださった職人の中で、この甲子園口のYさんの感覚が一番僕に合っているようだ、というのは奥さまと一致する意見。何だかムースまでつけられると、いつも別人かのように(その日だけ)凛々しく仕上がる。しかも、「今日は短めで」という単純な一言で後は全部お任せ出来る安心感もあって、やはりはずせない。で、はずせない、というと、最近行けていなくて気になっていた、芦屋の「うつわや えん」に今回は寄る時間があったのだ。るんるんとJRで芦屋へ。

JR芦屋駅からちょっと神戸よりの、線路南沿いにあるこのお店、以前京都から神戸の予備校に教えに行っていた時に、芦屋駅を出て加速をし始める車内から眺めていて、すごく気になっていた。で、結婚して西宮に引っ越したとき、思い切って二人で入ってみた。すると、待っていたのだ。足にけがをした「ふくろうくん」が。それは陶器で出来たふくろうの置物。中に裸電球を入れることが出来、光のオブジェともなる。みた瞬間、すっごくいい、と思ってたのだが、よく見ると、足に包帯! どうしたのですか?とご主人に伺うと、「実は移動中に足が折れちゃったので、接着剤でくっつけて、包帯しているのです」とのこと。何だかそんな「ふくろうくん」に妙な親近感を抱いてしまい、「少しおやすくしておきます」というご主人の言葉にも後押しされ、生まれて初めて、こういう置物を購入。以来、我が家の守護神としておられる。

そんなご縁があって、我が家の料理を飾る大皿(なんせ夜は野菜炒めをごっそり作って取り分け、が多いので)や、お茶碗、お皿など、いろいろなアイテムを、少しずつ、この「えん」で買ってきた。僕らは別に特にこだわりがあるわけではないので、「この種類で統一する」なんてことはしない。その日に、それこそお店の名前じゃないけれど、「ご縁」があった器と少しずつ出逢い、ちょっとずつ買い足してきたのだ。しかも、気取った高価な食器ではなく、僕たちが普段使い出来る実用性が高い、かつコストパフォーマンスもよい器をご主人はそろえてくださっているのだ。

今回は、スウェーデンでもらったペアのグラスが割れてしまったので、ビアマグを探しに伺う。すると、「焼酎は飲まれますか?」とご主人。「ええ、わりと」と応えると、出してくださったのが、小鉢のような、湯飲みより一回り大きい、でも抹茶のお椀より一回り小さい、味のあるコップ。こういう器なら、ビールでも焼酎でもおいしいですよ、と言われて見た瞬間、「参りました」であった。そう、こういう「参りました」というか、「待ってました」という器と出会えるのが、このお店の不思議、というか、奇跡というか。しかも、ペアで3000円ちょっと、という良心的価格。出会うときは出会えるよなぁ、と思いながら、早速購入したのでありました。昨晩は米のとぎ汁で30分ほど煮て器をなじませたので、今晩が「デビュー」。今からわくわくものである。

と色々書いたが、実はこの「うつわや えん」にも都合15分くらいしか滞在しなかった。というのも時計の針は午後3時過ぎ、4時半から、今回の大阪出張のメインである、とある会議が西宮であるので、逆戻り。ほんとは阪急西宮北口の本屋にも寄っていこうか、と思ったのだが、朝の静岡行きの特急電車がめっちゃ寒くて、少し風邪を引きそうな「予感」だったので、無理せず現場に直行し、ココアを飲んで一休み。結局11時前に京都に着いて、16時頃までに高槻甲子園口芦屋西宮、と移動したことになる。なんだか5時間のドタバタ劇だ。

甲府に住む今、こんなに予定をみっちり入れて密に動き回る事は、まずない。しかし大阪に住んでいた頃は、上述のような「ドタバタ劇」は、実は結構日常茶飯事だった。これくらい色々こなすのが当たり前だったので、昔取った杵柄、的に動けてしまうのだ。以前はそれが「効率的」であり、「なんだか格好良い」とさえ「錯覚」していたのだが、スウェーデンや甲府に住むようになり、そういう「効率」が少し変であり、全然「格好良」くない、ということに、少しずつ気づき始めた。ま、それまでは足下定まらず、不安定なグラグラ状態だったので、仕事や予定をとにかく詰め込んで、というのもあったかもしれない。だが、ようやっと本拠地を構え、仕事も腰を落ち着けてやろう、と思うと、一定の時間的余裕が必要になる。そのためには、いつまでも、毎日ドタバタ劇場、は続けていられないのだ。たまに出張の折りでの「ドタバタ劇場」は「あり」でも、それを日常茶飯事にはしたくないなぁ・・・。

そうある方にしみじみ語っていたのは、昨夕の国分寺に向かう車内での出来事。
実は金曜夜は会議たこやき&お好み焼きパーティーの後、京都に深夜帰宅。土曜朝の「のぞみ」で横浜に向かい、土日と研究会。で、研究会終了後、主催者の車に乗せて頂き、日曜夕暮れを国分寺まで向かう中で、ここ最近のことをその方に色々報告していたのである。その方は、僕のこの不安定な3年間を、いつも暖かく見守ってくださり、また様々なチャンスをくださった「恩人」である。そんな「恩人」と横浜から国分寺までの車内で約2時間、最近の実状について、ゆっくり報告する機会があったのだ。

「移動続きの、ドタバタ続きのこの3年間でしたが、ようやっと、研究の方も、生活スタイルの方も、腰を落ち着けつつあります。ドタバタ劇でやっつけ仕事ばかりしているのでなく、あまり他人のことを気にせず、マイペースで、かつ本質に迫るねっとりさを持って、仕事に励もうと思います。」こう報告しながら、ここ最近の膠着状態からようやく一歩踏み出しつつある、と実感していた。

「満たされ」なかった原型

一月は行く、二月は逃げる、三月は去る。

今日、ある先生の研究室でふと思い出したこのフレーズ。まさに、僕の一月はあっという間に「行って」しまった。でも、ジムには行けていない・・・。

言い訳大魔王になりそうなのだがやはり言い訳すると、先週風邪を引いたのが痛かった。年明け、実家から帰った後は週二回のペースが保てていたのに、授業が再開されると、追い込みの授業まとめなのでついついジムに行きそびれ、その翌週には風邪引きが始まり、センターまでに治さねば、と全てを放り出して風邪の治療に当てていると、今週は週末の研究会に向け、以前から懸案になっている報告書の全面書き換えでてんやわんやで・・・結局の所、今月は二回しかジムに行けていない!! これではせっかく払ったお金が大損だ。月末はマメにジムに行かねば・・・。

で、今日はとにかく先述の報告書に一区切りをつけた。まあ、どこまでで区切りをつけられるかはわからないし、土日の研究会で先月同様厳しい指摘をうけまくるかもしれないけれど、前回から持ち越しの問題には一応区切りはつけられた、つもりである。今回は、相当自分の思いや考えを、冒頭部分で書き足し書き直した。これほど赤を入れて、これほど訂正したのは久しぶり、というくらい書きあぐねていた。この間様々な方々にご指摘を頂いて、自分のスタンスが問われている、と感じていた。なので、逃げることも出来ず、正面突破的に、自分がここしばらく抱えている問題意識を、丁寧に書き込み、その上で何が問題なのか、を整理したつもりだ。こうやって、とにかく一区切りつけた文章を前にすると、最近「風呂読書」していた本のフレーズを思い出す。

「テクストを書く人間はあらかじめ自分の内部に自存する『書きたいこと』を文章にして伝達しているのではない。自分が『書いたこと』を読んで、自分が『何を書こうとしているのか』を知るのである。『言いたいこと』は『言った』あとに遡及的にその起源に想定されるばかりであって、決してそのままのかたちで取り出すことができない。(中略) 『ことばになる前のほんとうに言いたいこと』というのは、私たちがことばを発した後になって、『ほんとうに言いたいことに言葉が届かなかった』という『満たされなさ』を経由してしか現れない。それは、『いま語ったのは、私がほんとうに言いたいことではない』という否定文のかたちで、欠性的に指示される以外にありようのない幻想的な消失点である。」(内田樹「女は何を欲望するか」径書房、p119-120)

内田氏の言うとおり、前回の研究会で厳しく指摘された文章は、「ほんとうに言いたいことに言葉が届かなかった」という「満たされなさ」に満ちたものであった。指摘される様々なコメントに、「もっともです」と頷きながらも、「でもそうやないねん」と叫びたくなる自分がいた。確かに書かれたものだけみれば、何の弁解のしようもない。でも、そのテクストが批判されるなかで、「いま語ったのは、私がほんとうに言いたいことではない」という否定文をどれほど言いたかったことか。そういう辛い場面があったおかげで、でも、僕はいったい自分が「何を書こうとしているのか」を、その研究会の後に、徐々に知るようになってきた、と思う。まさに、「『言った』あとに遡及的に想定」された何かを追いかけて、先月からずっと必死になってもがいて来たのだと思う。

こういう満たされなさはすごく辛いけど、でも、自分が言いたくても書くことを思いつかなかった様々なフレーズが、特にこの二週間くらいで色々出てきた。それを書いているうちに、結局以前書いたもののうちの半分以上を捨て、その上に一昨日から今日にかけて新たに半分くらい書き加えたから、先月の研究会で出したものは、結局原型をとどめているのがわずかで、全面的にリニューアル、という代物になってしまった。でも、それはそれでいいとおもう。あの、結構きっつく批判された「原型」があったからこそ、そこからの七転八倒、苦悶のはてに、今の文章へとたどり着けたのだ。まあ、僕は知識人が持つべき、「まず自分を疑う」という健全なる態度をあまり持たず、自分に甘あまなところが多い。なので、それを他人にご指摘頂いて、目覚めたら、ちょうど差し引きゼロだ。そんな風に楽天的に見ている。本当は土日に何を言われるか、で実はビクビクしている部分もあるけれど、その時はそのとき、と開き直って、明日からの出張に備えて早く寝ようっと。

試験漬けとクワズイモ君

100本目のブログを書いた後、1週間近く更新が滞っていた。
この間チェックしてくださった方、すんません。

木曜金曜とまだ少し風邪を引きずりながら大学でとやかく雑用をこなしている内に、土日はセンター。入試担当のタケバタは連日13時間コース。朝から晩まで対策本部にいて、身も心もぐったり。なんせ、初めてのセンター業務なのに、いきなりリスニングの監督も引き受ける。新聞報道で機械の故障が報じられていたが、実際にはイヤホンの故障が多いように現場では感じられた。ICレコーダー自体は一台一台動作チェックが出荷時に行われているそうだが、イヤホンはたぶんしていないのだろう。だからといってイヤホンまで全て動作確認する訳にもいかず、40万人も受ける試験とは本当に大変である。

監督の何が大変って、あの試験監督の文言は、一言一句、読み間違っても、勝手にアドリブを効かせてもいけないのである。受験生は全国で統一された、同じ試験を受ける。なので、その指示・監督者がバラバラでは、統一性に欠け、不公平だ、と場合によっては苦情が出かねない。そこで、僕も会場でマニュアル通り「棒読み」しようとするのだが、一部の方はご存じの通り、大の「棒読み嫌い」なタケバタ。脱線したくなる衝動を抑えながら読むのだが、関西弁のイントネーションだけは消えない。こういう棒読みの関東言葉(=標準語)を関西弁で読むと、そうとう滑稽で自分自身でも気持ち悪かった。聞いている受験生はもっと気持ち悪かったかも知れない。ごめん。(とはいえ、試験前で必死で、そんなイントネーションの差異に気を取られる受験生など少なかっただろうが・・・) なんせ勝手の全く分からない、しかもミスも許されない試験の監督は、本当に疲労困憊であった。

で、月曜日は午前中しんどいので二度寝して、午後は布団乾燥機を買いに出かける。夜が寒くて乾燥するので、どうも咳が止まらないのだ。奥さまはそれでだいぶ迷惑なご様子。でも、当の僕はそれでも寝ているのだけれど・・・。大学で一仕事して、家に帰って早速試してみると、これは抜群に良い。布団がふかふか、である。我が家は外に洗濯物を干してはいけない決まりになっているので、布団が干せず、不便していたので、すごく重宝しそうだ。そして夜は、この前から書いている、二年生ゼミの「甲府のバリアフリーチェック」のデータを印刷会社に転送する作業。先週の金曜日に学生のデータが集まって、一部データはスキャナで取り込み、僕の原稿(あとがき)は、土日の空き時間にぼんやり頭で書いていた。でも、せっかくの集大成なので、何とか4000字程度の文章を書き上げる。もちろん、月末に向けた他の仕事はそっちのけ、状態。先が思いやられる。

今日は朝から定期試験監督のおつとめ3連発。その後、何とかいましがた、月末締め切りの原稿一本が何とか形になる。これは、週末の研究会の「言い訳」材料にもなる予定だ。というのも、実はもう一本の報告書がずいぶん苦戦している。12月の研究会で、「どっちの方向にむかって書いているの?」という厳しい指摘を受け、その後、ある方に「えらい学者さんが上から見下ろしているような」と直言を受けたものである。決して僕はそんなつもりではないのだが、言葉も足りなければ、説明や関連づけも足りない。ようは全てが中途半端な状態だったのだ。で、全くゼロから何かを構築するより、こういう中途半端に6割程度、変な形でできあがり途中にあるものを、ほどよく解体し、新たに一本の筋を通す、ということの方がはるかに難しい。それで、年末から年始、この1月、ずっとこの報告書で悩み続けてきた。何とか木曜日までに落とし前をつけたい、と思っている。

というわけで、今日は業務報告のような一人つぶやきでした。そうそう、楽しい報告もしておくと、我が研究室にベゴニアさんとクワズイモ君も仲間入りしました。南からの直射日光をもろに受ける窓辺に、緑と赤のコントラストのまばゆいベゴニアさんがよく栄える。ちなみに外から見ても我が研究室は結構見えるので、いいランドマークにもなりそうだ。で、クワズイモ君は、パソコンのモニターと本体の間に鎮座ましましている。パソコン関連の出す電磁波を植物が吸収してくれる、という風水の記事を読んで、ミーハーなタケバタは早速花屋に走ったのだ。でも、このクワズイモ君、一本だけヒョロリと伸びていて、モニターの上に雨傘をさすかのような葉っぱを拡げてくれていて、癒し効果も抜群である。心なしか、ここ数日気分もいいし、仕事もはかどる。はやくも植物効果か!・・・などと試験漬け(といってもするのではなく、監督漬けなのだけれど)で忙しくても実に調子のよいタケバタであった。

洗濯機待ち

栄えあるブログ100本目を、風邪引きさんで迎えた。

昨年5月から早9ヶ月。平均して月に10~11本書いているので、週2.5本程度。「二日に一回」というトップページのうたい文句はやや誇張だったようだが、まあ当たらずとも遠からず、という感じである。最近、ブログ見てますよ、とお会いしたおり、あるいはメールの追伸や年賀はがきに書いてくださる方もあり、ありがたい限り。今後ともよろしくお願いします。

で、風邪さんである。この冬は引くまい、とインフルエンザワクチンも打ったし、暴飲暴食はお正月を除くとしてないつもり、なのだが・・・昔から見た目と違って「か弱い」タケバタ、やはりその地が出てしまいましたね。特に甲府は空っ風で、イエテボリ時代よりも乾燥しているように感じる。先週末にノドがやられ、おうちで養生していたら治るかな、と思いきや、週が開けて月、火と鼻から全身にだるさ、へと、おきまりのコースを辿ってしまった。図書館でお会いしたHさんには、「それはフルコースですね」と言われる。そう、フルコースのもう終わりの方なのである。

だが、今週が風邪、というのは、まあまことに都合がよろしくない。なんせゼミの面接に来る学生もいれば、来年度ゼミに向けて学生さんへ伝えることもある。そう、今週は授業最終週なのだ。なので、風邪にもかかわらず、学生さんが来ればついエンジンのかかるタケバタ。月曜から水曜まで、よーしゃべった、しゃべった。今日は1年の基礎ゼミ(新入生研修)と2年の専門演習の最終日だったが、どっちもノドを枯らしてしゃべりまくる。2年ゼミはこの一年のプロジェクトの総決算を学生さんとしていた。ほんと、福祉の知識がほとんどゼロの11人が、たった一年でここまでよやったよね! ・・・と新人教員は感動しながら、最終報告書のゲラに赤を入れていた。この報告書はまたウェブ上にアップするので、そのうちみてやってくださいまし。

1年ゼミの学生さんには、いろいろ自分自身のことを振り返ってもらい、みんなの前でそれを発表して貰った後、次のようなことをお伝えする。

皆さんにこの1年ゼミで自分のことを話してもらったのには、二つの理由があります。そのキーワードが「対話」です。そうは言っても皆さん、友人同士でふだん対話しているよ、って言うかもしれません。でも、本気で自分の価値観を相手に伝えたり、相手の思っていることを真面目に聞いたり、という場面が最近あったでしょうか。このゼミでは、いろんなワークシートなどを使って、皆さん自身にそれを振り返ってもらい、仲間の前で発表してもらいました。これは、「自分を開く」対話です。こういう自分を開く対話をしながら、仲間の「開かれた」姿に出会う中で、自分自身にとっても様々な気づきが生まれてくれればいいな、と思ってやっていました。あと、もう一つ大切なのは、「社会につながる」対話、です。後半のディベートの練習などは特にそう。いろんな人とつながる中で、社会に向けて一歩踏み込んでいくために、色々調べたり、吸収したりすることが必要です。そういうプロセスを経て吸収したものを、多くの人の前で発表したり、分かち合ったりすることも大切。そういう中で、「社会に向けて」「開かれ」「つながる」対話が、皆さんの中で少しずつ出来てきたと思います。

でも、このゼミで出来たのは、あくまでも、「自分を開く」「社会とつながる」対話の「お作法」を体得しただけです。これから皆さんが二年、三年と成長していく中で、のんべんだらり、とすごさず、折に触れ、二つの対話を試みてほしい。また、「俺って最近この二つの対話が出来ているかな?」と確認してほしい。その中で、試行錯誤を繰り返してほしい。試行錯誤とは、試して、失敗して、その失敗から再び何かを気づいて試すこと。つまり、社会とつながろう、と試みて、失敗して、その失敗の要因を自分を開いて確かめて、再び実践する。そういうチャレンジの中から、自分がやりたい何か、が見つかるはずだ。そういう実践を積み重ねれば、「諦め」から解放される。「どうせ」「俺になんて」「しゃあない」・・・こういった逃げ口上しか言わない人は、その逃げ口上で自分をがんじがらめにしてしまっている。そうじゃなくて、自分を開きながら、社会とつながりながら、試行錯誤しながら、諦めずにチャレンジしてほしい。

・・・よくもまあ、そんなに饒舌にしゃべるなあ、って?
はい、これは僕が大学1年生の時に、聞いておきたかったことだからだ。あんとき、これくらいの気づきがあったらよかったのに、と再帰的に過去を振り返り、僕ではなく彼ら彼女らにバトンをつなぐ、それが教員の役目のような気もしている。風邪引きさんでも、これくらいのことは伝えたかったので、今日もがんばってみたのであった。

と書き終わったところで、そろそろ洗濯機もお仕事を終えたようだ。風邪で早く帰ってきて、とりあえず乾燥機に服を放り込んだら、ひとねむりします。おやすみなさい。

価値と神話からの自由

昨日はたくさんの学生さんとお話ししたが、夜6時を過ぎてやってきたのはゼミ生のNさん。今は二年だが、三年ゼミでも僕のゼミを選んでくれたので、冬休みにやるべき課題、というか、4月までに考えておいてほしいことをお伝えする。どうやらNさんは社会学的な視点にかなりのご関心を示されている、ということがわかってきて、「そういえば僕も大学1年の頃ね」と取り出した、当時頻繁に教えて頂いた先生の本のタイトルに、目が釘付け。副題の「ドラマとしての思想史」とは、以前「最近のマイブーム」と書いた小熊英二氏の一連の著作と同じ目線。先生は12年前からその視点でいらしたのですね、と改めて恐れ入り、自宅に持ち帰って読み始める。第一章の「方法を通じてみたウェーバーの思想」に、思わず引き込まれてしまった。

「具体的な実践的提案を科学的に批判する場合、その動機や理想を明らかにすることは、その根底にある価値基準を他の価値基準、とりわけ自分自身の価値基準と対決させることによってのみなされうるということがきわめて多い (中略)ある実践的意欲の『積極的』批判は、必然的にその根底にある価値基準を自分の価値基準と対決させつつ明らかにすることである。」 
(大林信治著、『マックス・ウェーバーと同時代人たちドラマとしての思想史』岩波書店 p51)

僕自身、自分自身が追いかけている問題については、明確な動機や理想といった価値基準がある。その立場から、僕とは違う価値基準に基づいた「具体的な実践的提案」に対して、「科学的に批判」しようと思うこともある。だが、残念ながら、僕は大林先生が教えてくださったウェーバーの考えるような、真っ当な批判の仕方を展開できていなかった。「脱施設・脱精神病院」や「地域自立生活支援」を語るとき、いつの間にか、自身の価値を「絶対的善」の高見において、この価値と対立する意見を持つ人々の価値と「対決」させることをしていなかった。勝手に自分自身がレフェリーになって、「不戦勝」状態だったのである。これでは全く「独り相撲」だ。

「ウェーバーにとって『価値討議』の本来の意味は、対立する立場の人々が価値判断の問題をめぐって討議し、それぞれの立場の根底にある価値基準を明らかにするとともに、『人々がなぜ一致できないか、またどの点で一致できないか』認識することであった。」(同上、p46

「脱施設・脱精神病院」を語るなら、入所施設の必要性を語る人、精神病院の社会的入院解消に疑問符を付ける人、の価値判断と「価値討議」をちゃんとしなければならないのだ。
例えば、下のような意見を拝聴したとする。

「重度障害者の中には、家庭ではなく施設だからこそできた安定した生活というものもある。そういう人には入所施設は必要だ。」「地域では精神障害者に対する差別・偏見が根強い。また社会資源もほとんどない。そんな中で患者さんの最終的な拠り所になり、支えて来たのは地域の人々でも、研究者のあなたでもなく、私たち精神病院のスタッフなのだ。」

こういう価値判断に出会うと、お恥ずかしい話、これまでの短気なタケバタはすぐにカッとなって、北欧の事例などを用いて、“You are wrong, I am right!”という論法でまくし立てたのだ。そして、こういうやり口で議論を進めると、相手の拒絶反応に出会い、「あの人とは話しにならない」と、こちらの意見に聞く耳を傾けなくなる、というパターンに陥った。最近でもあるワーカーさんとこの議論になり、最終的には、上述のやり口で「教条的かつ高慢な一方的宣告」を僕はしてしまっていた。これは、本当に卑劣なやり方である。相手の理解を求めるどころか、相手を傷つけてしまうだけなのだ。きっとそのワーカーも、僕のやり口を見て、「結局この人は『高見の見物』なのだ」とため息と絶望感を抱かれたかもしれない。そう気づくと、僕はそのワーカーになんて申し訳ないことしたのだろう、とすごく反省している。

僕がすべきなのは、そのワーカーが提示してくださった意見と僕の見解について、「それぞれの立場の根底にある価値基準を明らかにするとともに、『人々がなぜ一致できないか、またどの点で一致できないか』認識することであった」のだ。そうやって整理していくと、「当事者の豊かな暮らしを望む」という根本的価値は同じなのに、様々な条件的要素が重なり、最終的に全く異なる意見として構成されていく、ということが明らかになる。そのプロセスを丹念に辿り、どこまでが共有できて、どこで見解の相違が出るのか、それはどういうデータ分析の違い、事実解釈の違いなのか、それにはお互いでコンセンサスを取りうる余地はないのか・・・を分析していくことにより、お互いの理解が可能になり、相手との討議は断絶ではなく継続していく余地があるのだ。僕は何という無知蒙昧であったか・・・。

「ホーニスハイムが明らかにしているように、ウェーバーの『価値自由』の要請は決して実践から後退することではなく、むしろ絶えずしたたかに実践的な価値判断をするためであった。つまり、『自己自身に対する厳しい禁欲的な闘いのなかで、個別科学的な研究から得られた成果を自分の意欲する目標の実現に役立てるために、社会科学から価値判断を排除すること』であったのである。」(同上、p51

「脱施設・脱精神病院」というのは、「障害当事者が地域で自分らしく暮らせる」という目的のための手段にしか過ぎない。つまりこの目的の実現に役立てるためには、僕自身に対して「厳しい禁欲的な闘い」を課す(=「価値判断を排除する」)ことにより、正しい手順を踏んで相手が納得のいく「価値討議」を行うなかから、「個別科学的な研究」を見いだしていけばよい。そうすると、「脱施設」や「地域移行」に関する研究に関しても、一方的な独りよがりの意見ではなく、討議対象も納得しうるコンセンサスが得られる結論が導き出せる、ということにようやく気づいたのだ。

でその後読んだ小熊氏の議論でも、これと同じ事が書いてあった。

「自分や自分の党派だけは真理を知っていて、他の人びとはすべて神話にとらわれているなどということは、まずありえないことです。自分が神話を持っていることに自覚を欠いていると、神話を破壊すると称しながら、じつは自分の神話でほかの神話を攻撃しているだけとなってしまいます。」(小熊英二著、「神話を壊す知」 小林・船曳編『知のモラル』東京大学出版会、p84

自分が属する日本社会が持つ、「入所施設・精神病院必要悪論」、という「神話」。これに対抗する為に議論したいのに、僕は「脱施設・脱精神病院」を「神話」として掲げて、「神話」の置き換えを求めているだけなのだ。では、この「神話」に対して、私たちはどう対応すればいいのだろうか。小熊氏はそれに対してこう述べている。

「人間は神話から無縁になることはできなくとも、自分の神話を自覚し、相対化することはできます。その自覚があらたな神話になってしまうまでの一瞬、私たちは神話から自由になり、ぶつけあっていたたがいの神話の殻のすきまから、相手に向かって開かれることができるのではないでしょうか。大切なのは、その一瞬の新鮮さを忘れずに、外界と対話し、時には相手の神話の主張にたいして謙虚になって、自覚の課程をくり返し続けることではないでしょうか。」(同上、p84-85

神話からの自由、それはまさに大林先生が教えてくださった、ウェーバーの本来意図した「価値自由」と同じではないか。「価値討議」を通じて「謙虚」にお互いの神話を精査する中で、「人々がなぜ一致できないか、またどの点で一致できないか」が明らかになる。その瞬間、「ぶつけあっていたたがいの神話の殻のすきまから、相手に向かって開かれる」のだ。その瞬間を目指して、ウェーバーの言葉で言えば「禁欲的」に対象に向かうこと、これが僕にとってのこれからの課題となるだろう。

嬉しい瞬間

今週から大学が再開され、ブログの更新の間もない一週間であった。

なにせ授業は最終回を迎えるし、テストの準備に来年のシラバスの締め切りも迎え、それに加えて会議なども目白押しだった。毎日やるべきことをトットコとっとこやっているのだが、次々に課題は続く。しかも来年度のゼミ面接に来た学生さんとついつい話し込んでしまったために、それ以外の仕事を片づけていたら、夜もどっぷりになってしまうのだ。

だが、今日はそんな学生さんとの語らいの中から、様々な発見があった。

まず、お昼には二年生のゼミの発表会があった。今期のゼミテーマは甲府のバリアフリー。学生たちが自分たちで車いすに乗って、バスや電車に乗って様々な体験をしたり、他県との比較などをした結果を発表していた。ただ、その場所が、大学ではなく高校であった。そう、今年のゼミ生たちは、「バリアフリーの普及啓発」のために、成果を中高生の前で出前授業する、「キャラバン隊」を組織していたのだ。もちろんこれらの現地調査や発表のまとめ原稿、中高生に配る冊子の印刷、キャラバン隊をさせてくださる学校へのアポイントメント、そしてキャラバン隊の司会進行はすべて彼ら彼女らが考えている。タケバタは、最低限のアドバイスをするだけの、産婆役である。

ゼミの一年間の集大成の一つである、このキャラバン隊をみて、またその後彼ら彼女らと学食で話をしながら、しみじみと感じた。「すっごく成長したなぁ」と。

最初、このゼミを始めた時は、福祉の基本的なことを知ろう、と新聞や文献を読み、みんなで意見を発表する、というスタイルだった。だが、それでは次第にみんなのテンションも下がっていく。何かやれることはないかなぁ、このままだったらゼミもつまらなくなるな、と僕も思っていた。そんな矢先、車いす体験の話題がゼミで持ち上がり、それをうちの大学独自の学生支援である「学生チャレンジ制度」に応募することになったのが、5月中頃か。その企画書作りから自分たちでやり始めて、活動資金として10万円頂いた後、彼ら彼女らの試行錯誤が始まった。ちょうどそのころお会いしたある方に、「大学生だったら自分たちで何でも出来ますよ」と助言されていたことも、頭の片隅にあった。

なので、ゼミ生には以後、徹底的に自分たちで考え、行動してもらうようにし向けた。リーダーを決め、そのリーダーを中心に議論してもらった。班分けをして、各班ごとの役割分担の中で実際の車いす体験などの企画・実践もしていった。

実際はスルスルとうまくいった訳ではない。途中でゼミ自体が中だるみになったり、夏休みに結局みんなが都合つかず集まらなかったり、で作業が大幅に遅れることがあった。休み明けに一度、タケバタから皆さんへ檄を入れたこともある。「このままだったら10万円返さなあかんぞ。どないするんや」と。でも、だからといって僕が介入するのは出来る限り最低限にしようと心がけた。受験生と同じでやるのは学生自身、である。僕は彼ら彼女らが躓いた時、どこでどうつまづいたか、の原因を一緒に立ち返って調べ、その大本を取り除く方法をみんなに助言し、彼ら彼女らがそこから解き放たれ、独り立ちしていくのを支援する役割である。これなら10年間やってきた塾講師の経験が即、活かされる。なので、この塾講タケバタのスタイルで、「締め切りまで何週間あって、いついつにこれをしていないと報告書が出来ない。だから、そこから逆算すると、来週までにしなければならないことは何か?」を学生に考えてもらう、逆算的思考法を伝授した。これは受験生とまるっきり一緒。

こういうコツを伝えると、彼ら彼女らは、中だるみ停滞状態から脱し、再び歩き始めた。そして、その後は「1月末の報告書締め切りに間に合わせるために」を合い言葉に、再びスパートが始まる。なので、後期の、特に10月終わり頃からの2,3ヶ月は、見違えるように成長していった。当初はいろいろヤイヤイ僕も口を挟んでいたが、もう最近ではほとんど口を挟まなくても、勝手にみんなで議論している。今日もキャラバン隊の直前に僕の研究室で話し合っていたのだが、僕は他の仕事をしている間に、みんなワイワイがやがや言いながらも、結構まじめに考えあい、打ち合わせをしている。こういう用意周到さなんて、最初のころなかったよなぁ、と思うと、学生の皆さんのこの一年の成長ぶりに、本当にしみじみと感動させられるのであった。「すっごく大きく成長してるよなぁ」って。

そうすると、教員タケバタの役割は、彼ら彼女らの実践の「場」をどのように提供し、はぐくみ、何らかの成果を自分たちで作り上げていくように持っていくか、ということになってくる。これは大変だけれど、できあがるとすっごく楽しい。塾講師時代も、英語の授業は10時半や11時に終わっても、その後学生さんたちと本気で語り合いながら、彼ら彼女らの未来作りを支援してきた時代を思い出す。場は塾から大学に変わっても、同じことをしているんですなぁ。

こういう嬉しい瞬間があるから、彼ら彼女らと一緒に格闘するのはオモロイのである。来年度もどんな出会いの中で、どういう方向に場が育っていくか。今から楽しみである。

なるようにしか

ここしばらく、何をどう書けばいいのか、逡巡していた。

いろいろな報告書の締め切りが今月末、結構重なっている。こうなることは目に見えていたのだが、やはりギリギリで追い込まれている状態だ。でも、先月までの三ヶ月間は週に7コマの授業に自立支援法がらみの講演に、などとドタバタしていて、落ち着いてまとめる暇がなかったから、出来てなくても無理ない、という言い訳も出来ないことはない。でも、何はともあれ、締め切りが迫っている。そのため、一応書き出してみたのだが、どうも楽しくない。楽しくないから気乗りがしない。気乗りがしないので、ついついネットをフラフラ見ていて・・・と悪循環になりそうだったので、今日は思い切って「研究室デトックス」! 昨日の毒キノコパーティー以来、色々グログロしているものを出していこう、という戦略を、研究室に応用した。・・・なんて小難しい理屈は後付で、ようは部屋が汚かったのでお掃除したのであります、はい。

年末は実家ツアーに帰る予定だったので、とても掃除し切れなかった。で、松の内のあけた今日、一生懸命研究室のゴミと戦っておりました。様々なレジュメやいらん紙切れやら何だかんだと処分、しょぶん。そのうちにめっけもんの論文もいくつか発見し、こういう大掃除は大変効能がある、とご満足。こうやって体を動かしながら、さっき読んでいた本を思い出していた。

「私は戦前の人たちを書く場合でも、基本的には私がこの立場にいたらどうだろうと思わないと書けない。一冊目の『単一民族神話の起源』のあとがきに、一方的な書き方はしたくない、できるだけ追体験するようなかたちで書きたいと記したのですが、せめてそれが礼儀だと思うんです。そのこともあって、一貫してその人たちが置かれていた同時代的な文脈や制約は重視しているつもりです。」
(「対話の回路 小熊英二対談集」小熊英二、新曜社 p289)

彼の三部作は実はまだ読んでいないのだが、この対談集を読み始めて、密かに僕のマイブームになっている。小熊氏の対談のうまさ、は、対談相手の資料の徹底した読み込みと、自分の仮説を相手に何度も角度を変えながらぶつけていくおもしろさ、そして相手が巨匠であっても(というか網野善彦や上野千鶴子、村上龍などその世界の巨匠ぞろいだが)、相手の論拠やデータに基づいてズンズン奥深くまで切り込んでいく、その爽快感にあるような気がする。その対談集の中で垣間見られる小熊氏や対談相手の対象への迫り方を読んでいるうちに、何だかふっと思い始めたのだ。「僕だって、好きな分野を追いかけよう」と。

そう、ここ最近困惑していたのは、他者から要請される(と自分で勝手に予期している)中身と、自分が書いていて楽しくなる中身、が一致しなかったからだ。でもよく考えてみると、どのようなレベルで内容を求められても、自分がもっている材料では、自分が書けるようにしか書けない。この当たり前のことなのに、それでは「求められた問いへ答えていないのではないか?」と、未だ1:1対応の受験生的根性が抜けきらず、さりとて相手のストライクゾーンにはまる文章もそう簡単に書けそうになく、もだえていたのだ。そういう文章を書いたって、せっかくのデータが死んでしまう。なにより、そういうやり方をしていると、僕がこれまであちこちで聞かせていただいた、「当事者」の方々の「語り」を、ありふれた元からある枠組み、という「一方的」な文脈の中に小さく押さえこんでしまうことにつながりかねない。僕自身が聞かせていただいた様々な話を「追体験」とはいかないまでも、その話に基づきながら論を構築するためには、あんまり最初から「こう書かなくちゃ」なんていう制約のたが(=先入観)をはめ込まず、自分が面白いと感じた内容を、その背景をちゃんと分析しながら、書いていけばいいのだろうな。そう思い始めている。

もちろん小熊氏や彼の対談相手の方々のような筆力も構想力も僕にはない。でも、そうやって一つ一つのデータと真面目に向き合う中から、そんな正面突破からしか、何かは生まれてこないだろう、という予感は確信に変わりつつある。時間をかけて、丁寧に、これまで集めてきた情報をじっくり読み込みながら、書けることを書ける範囲で報告書にまとめるしかない。そんな実に当たり前の結論に達した。それが、昨日ある先生と話していた時に出た、「僕の論文執筆アプローチの不確かさ」の克服にもつながるかもしれない。確かにその先生に指摘されたように、僕自身、まだどういうアプローチで対象に迫っていくか、が決まり切っていない。それは、色々な方々のアドバイスやオーダー、あるいは先行研究などを多少なりともかじっているうちに、誰の何を信じていいのやらわからず「どつぼ」に陥っていたから、故の不確かさなのだと思う。でも、このままだと八方美人的論文になってしまいかねない。それは「つまんない」。

別に先行研究や他人のアドバイスをもう頼らない、というつもりは毛頭ない。だが、一方で、僕自身、これまで様々な現場で、いろんな方に自分が興味あるテーマについてたくさんのお話を伺い続けてきた。その中で、知らず知らずのうちに、自分の体内に羅針盤のようなものが、出来つつある。この自分の中のブリコラージュ的なものを信じて、それを熟成させながら、読み手にも理解してもらえるようなデータを使いながら、一歩一歩自分の辿った軌跡を文字に落とし込み、論理の整合性を丁寧に検証しながら、わかりやすい表現で説明していけばいい、そう思い始めた。というか、この羅針盤を無視して表層的に何かを論じても、相手に全く伝わらない、ということがようやくわかったのだ。まあ、関西弁でいうならば、僕の持っているものを最大限に出し切った後は、「なるようにしかならん」のである。大切なのは、まず自分の持っているものを出し切ること、だけだ。こういう境地に落ち着いたのも、お部屋をすっきりした効能であろう。えかった、えかった。

毒キノコパーティーの夜

松の内の最終日、今日は学校法人の新年会があった。

昨年まで組織に属していない「あぶれもの」だったタケバタにとって、就職以来経験する様々な組織としての儀式に新鮮な驚きを持ちながら参加していた。今日の会もしかり。新年のおめでたい雰囲気で、法人としての一体感や連帯感を育む上で、こういう会が大きな役割を果たしていることを学ばせて頂く機会であった。で、昼からの「おとそ」は大変まわりが早い。帰ってきた時点で、緊張の糸が切れてか、そのままベッドにばたん。夕方まですっかり寝込んでいた。

その後眠りから覚め、今はデトックス料理の準備。何せ正月は食べ過ぎて太っちゃったしね。現在恐ろしや、81キロ・・・(涙)。明日はジムで精出して泳ぎます・・・

デトックスなんてはやりの言葉を使う前から、我が家では濃い食べ物が続いた後は、「毒キノコパーティー」なのだ。実際に毒キノコを食べる訳ではもちろんない。ただ、キノコを薬膳風に山ほど食べて、毒素を体内から出してしまおう、という「毒」素をとる「キノコ」「パーティー」なので、「毒キノコパーティ」なのである。昔新聞の日曜版で中国料理研究家が書いていたのが、3年前の博論で苦しんでいた時期。あのころは、ストレスも毒素もたくさんあったからか!?、月に一度は「毒キノコパーティー」をしていた。そういえば、お金もないのにJR立花駅近くの「高麗飯店」に数ヶ月は一度出かけ、あそこでたらふく焼き肉三昧の翌日は、必ず「毒キノコパーティー」をしてたっけ。山梨の方はよくわからんと思いますが、関西方面の読者の方々、「高麗飯店」はちょっと高めだけれど、本当においしい焼き肉が食べられます。立花は尼崎から神戸よりの次の駅。是非ともお立ち寄りあれ。

ここで気になる!?レシピのご紹介。
1,キノコをとにかくいろんな種類、山盛り用意して、さくさく切って熱湯に放り込む
2,一煮立ちしたらざるにきり、鍋を洗う
3,また熱湯を用意し、今度は鳥の手羽元を放り込み、また一煮立ち。
4,ざるにあげて、鍋にこびりついたアクもあらい、今度は水をいれる
5,その鍋にざるにあげた手羽元と刻んだショウガ、キクラゲや干し椎茸を戻したもの、コショウ粒を適量いれ、40分くらいグラグラ
6,最後に2のざるにとったキノコを入れて、5~10分くらいグラグラ
7,食べる際は黒酢とごま油(ないしラー油)があるとなおよし
8,残ったら翌朝、ご飯を入れておじやにするとおいしい

というレシピを書き終わった頃に、そろそろ煮立ったようです。さて、ただいまから粛々と!?「毒キノコパーティー」をはじめるとしますか。

 

何のための「理想」「価値」?

八王子から甲府に帰る「かいじ号」の中で、ダイナブックくんをパタパタ打っている。

時刻は午後11時。8号車指定席の大半が十代後半とおぼしきうら若き女性陣。みなさん一様に大きいバッグを抱えている。バーゲンにでも出かけたのだろうか、でもその割に大集団だよなぁ、とちらちら観察していると、出てきたのは大きな半円形のうちわ。そこには同じくティーンズ男子の等身大の顔写真が張られている。これはもしや・・・と思いチラチラ観察を続けていると、出てきたのが某アイドルグループ名の入ったパンフレット。なるほど、今日はあのグループがコンサートだったのですね。いやはや、ファンの力は恐るべし、です。今はICレコーダーで「無断録音」した音源を聞き比べておられます。なるほど、隠し撮りも進歩、ですなぁ・・・。

今日はとあるところで春先に行われるある会議に関する打ち合わせ(指示語ばかりですいません)。その後、その会議の主催者であるYさんと喫茶店で議論をしていた。Yさんは団塊世代より十歳若い「団塊の世代に反発した世代」と言っておられたが、この40代後半までの世代は「社会運動としての福祉」というものにリアリティを持っていた世代であり、日本の障害者福祉の支援者として一定の層をなしている。そして、その下の40代前半から30代後半までが、バブル期の世代。ここが人材不足で福祉業界には少なく、その下が「福祉の国家資格化」と「福祉で飯が食えると錯覚!?」した世代で急激に従事者が増える。つまり福祉従事者は世代的に考えると40代後半以後と30代前半未満のふたコブがあるひょうたん型である。

で、このひょうたんの両側では、全く発想が違う。前者の40代以後が「社会運動としての福祉」とすると、後者の30代前半までは、ある種「お仕事としての福祉」であり、そこには「社会運動」「地域変革」「障害者解放と自己解放」といったロジックが希薄な場合が多い(もちろんそうでないケースは両方共にある。燃え尽きてしまって給料泥棒の40代以後と、薄給でも地域支援に必死になる20代30代など)・・・。上の世代からすれば下の世代は「筋金が入っていない」ということになり、下の世代からすると上の世代は「自己犠牲的・滅私奉公的」に映ってしまう。つまり、同じ福祉の世界で働く人間なのに、共感や連携が成り立ちにくい、という構造を抱えているのだ。

これがお商売の世界だったら、こういうズレは生まれにくい。なにせ、「儲け」という単純な指標で計れるし、この「儲け」には思想は入り込んでこないから。ただ、当事者支援というものは、制度政策がどれほど実現したか、という面ではある種の数値化が可能な部分もあるかもしれないが、社会の偏見がどれほどなくなったか、エンパワメントがどのようになされているか、などはある種の理念や思想と不可分なところがある。すると、現状では視座の違いによるズレが出てくるのだ。

ただ、ズレが生じないよう障害者福祉も数量化して考えるべきだ、とは全く思わない。

「戦後の日本では、統計学的手法やコンピュータの発達に支えられて社会現象の数量化(計量化)が急速に普及し、行政や企業経営はじめ各分野で広く利用されてきています。しかし、主として計測手法が依然として幼稚な段階にとどまっていることから、計量的アプローチに頼ることによって、現象の本質が見極められなかったり、時には誤って認識されたりすることさえざらではありません。これには正に要注意です。
 日本の社会科学界で俄然計量的アプローチが盛んになったのは、戦後のアメリカニズムのおかげで、そのためどの分野でも、理系出身の学生が過大評価されて大学研究室に残される比率が一時期高まりました。僕自身も志望先の工学部航空学科が廃止になったためやむなく文系へ転科したポツダム文科生の一人ですが、計量的アプローチに関わって以来、社会現象の本質的価値は、例えば理想とか倫理といった絶対に数量化不可能な部分にあると信じて疑いません。」
野田一夫 2005年12月21日 Rapport-581より)

野田氏が指摘するように、「社会現象の本質的価値は、例えば理想とか倫理といった絶対に数量化不可能な部分にある」とは僕もその通りだと「信じて疑」わない。ただ、ここで指摘したかったのは、その「理想」や「価値」が支援者の嗜好物ではなく、当事者が求める「理想」であり、当事者主体という「価値」に合致するか、が一番に問われるべきである、という点である。視座がズレるのは、誰の「理想」「価値」を守ろうとするのか、が、障害者支援の現場でもバラバラだからではないか、と最近感じ始めているのだ。つまり、視座がズレたりぶれたりしないためには、支援者が自分の思想を投影する訳でもなく、また自己のエゴを当事者に仮託するわけでもない、本当の意味での当事者が求める「理想」や当事者主体という「価値」に合致する支援が求められる。そういった支援というものがどうすれば日本でも出来るのか、を先述のYさんとハイネケンのハーフパイントを頂きながら議論していたのである。(なんだか長い回り道でしたね)

で、落ち着いた結論が大変単純かつ自明な事実。「People first」であり「私たち抜きで私たちのことを何も決めるな」なのだ。逆に言えば、今の日本の障害者支援の現場では、障害当事者がいつもlastにおかれ、障害当事者抜きで障害当事者の現実がほぼすべて決められている、という現実がある。これは障害者に限らず、子育て支援であれ、不登校やニートの問題であれ、広く児童支援であれ、同じ理屈だ。いわゆる「専門家」と称する人々と官僚が、当事者の意見をきちんと聞かずに「対策」をたてるから生じる問題である。もっと言えば、対策を後付的に講じる時点で、事前救済ではなく事後的救済である、という時点で、一歩も二歩も出遅れているのであるが。(その点スウェーデンの福祉は、実際に施設入所してしまった、あるいは社会参加出来ない人への「対策」に力を入れるより、とにかくそういった施設や病院をつぶして、入所施設や社会参加促進の阻害を「予防」することに政策的に力点を置いている、という点で興味深いのであるが。)

つまり、障害当事者の人々が権利意識を持って、地域変革につながっていく、そういう活動が展開し、支援者がそれをどう支えていけるか、という展望が、今の日本においては描きにくい、それは支援者の年代的分断にも起因している部分もあるのではないか・・・と議論はつきないのであった。

実はこの議論はその後、本当は、一般人にすら権利意識の根ざしていない日本における「障害者の権利意識」と欧米でのそれとの違いなども議論していったのだが・・・この権利の問題は相当にやっかいなので、また時間のあるときに考えてみることとする。