価値と神話からの自由

昨日はたくさんの学生さんとお話ししたが、夜6時を過ぎてやってきたのはゼミ生のNさん。今は二年だが、三年ゼミでも僕のゼミを選んでくれたので、冬休みにやるべき課題、というか、4月までに考えておいてほしいことをお伝えする。どうやらNさんは社会学的な視点にかなりのご関心を示されている、ということがわかってきて、「そういえば僕も大学1年の頃ね」と取り出した、当時頻繁に教えて頂いた先生の本のタイトルに、目が釘付け。副題の「ドラマとしての思想史」とは、以前「最近のマイブーム」と書いた小熊英二氏の一連の著作と同じ目線。先生は12年前からその視点でいらしたのですね、と改めて恐れ入り、自宅に持ち帰って読み始める。第一章の「方法を通じてみたウェーバーの思想」に、思わず引き込まれてしまった。

「具体的な実践的提案を科学的に批判する場合、その動機や理想を明らかにすることは、その根底にある価値基準を他の価値基準、とりわけ自分自身の価値基準と対決させることによってのみなされうるということがきわめて多い (中略)ある実践的意欲の『積極的』批判は、必然的にその根底にある価値基準を自分の価値基準と対決させつつ明らかにすることである。」 
(大林信治著、『マックス・ウェーバーと同時代人たちドラマとしての思想史』岩波書店 p51)

僕自身、自分自身が追いかけている問題については、明確な動機や理想といった価値基準がある。その立場から、僕とは違う価値基準に基づいた「具体的な実践的提案」に対して、「科学的に批判」しようと思うこともある。だが、残念ながら、僕は大林先生が教えてくださったウェーバーの考えるような、真っ当な批判の仕方を展開できていなかった。「脱施設・脱精神病院」や「地域自立生活支援」を語るとき、いつの間にか、自身の価値を「絶対的善」の高見において、この価値と対立する意見を持つ人々の価値と「対決」させることをしていなかった。勝手に自分自身がレフェリーになって、「不戦勝」状態だったのである。これでは全く「独り相撲」だ。

「ウェーバーにとって『価値討議』の本来の意味は、対立する立場の人々が価値判断の問題をめぐって討議し、それぞれの立場の根底にある価値基準を明らかにするとともに、『人々がなぜ一致できないか、またどの点で一致できないか』認識することであった。」(同上、p46

「脱施設・脱精神病院」を語るなら、入所施設の必要性を語る人、精神病院の社会的入院解消に疑問符を付ける人、の価値判断と「価値討議」をちゃんとしなければならないのだ。
例えば、下のような意見を拝聴したとする。

「重度障害者の中には、家庭ではなく施設だからこそできた安定した生活というものもある。そういう人には入所施設は必要だ。」「地域では精神障害者に対する差別・偏見が根強い。また社会資源もほとんどない。そんな中で患者さんの最終的な拠り所になり、支えて来たのは地域の人々でも、研究者のあなたでもなく、私たち精神病院のスタッフなのだ。」

こういう価値判断に出会うと、お恥ずかしい話、これまでの短気なタケバタはすぐにカッとなって、北欧の事例などを用いて、“You are wrong, I am right!”という論法でまくし立てたのだ。そして、こういうやり口で議論を進めると、相手の拒絶反応に出会い、「あの人とは話しにならない」と、こちらの意見に聞く耳を傾けなくなる、というパターンに陥った。最近でもあるワーカーさんとこの議論になり、最終的には、上述のやり口で「教条的かつ高慢な一方的宣告」を僕はしてしまっていた。これは、本当に卑劣なやり方である。相手の理解を求めるどころか、相手を傷つけてしまうだけなのだ。きっとそのワーカーも、僕のやり口を見て、「結局この人は『高見の見物』なのだ」とため息と絶望感を抱かれたかもしれない。そう気づくと、僕はそのワーカーになんて申し訳ないことしたのだろう、とすごく反省している。

僕がすべきなのは、そのワーカーが提示してくださった意見と僕の見解について、「それぞれの立場の根底にある価値基準を明らかにするとともに、『人々がなぜ一致できないか、またどの点で一致できないか』認識することであった」のだ。そうやって整理していくと、「当事者の豊かな暮らしを望む」という根本的価値は同じなのに、様々な条件的要素が重なり、最終的に全く異なる意見として構成されていく、ということが明らかになる。そのプロセスを丹念に辿り、どこまでが共有できて、どこで見解の相違が出るのか、それはどういうデータ分析の違い、事実解釈の違いなのか、それにはお互いでコンセンサスを取りうる余地はないのか・・・を分析していくことにより、お互いの理解が可能になり、相手との討議は断絶ではなく継続していく余地があるのだ。僕は何という無知蒙昧であったか・・・。

「ホーニスハイムが明らかにしているように、ウェーバーの『価値自由』の要請は決して実践から後退することではなく、むしろ絶えずしたたかに実践的な価値判断をするためであった。つまり、『自己自身に対する厳しい禁欲的な闘いのなかで、個別科学的な研究から得られた成果を自分の意欲する目標の実現に役立てるために、社会科学から価値判断を排除すること』であったのである。」(同上、p51

「脱施設・脱精神病院」というのは、「障害当事者が地域で自分らしく暮らせる」という目的のための手段にしか過ぎない。つまりこの目的の実現に役立てるためには、僕自身に対して「厳しい禁欲的な闘い」を課す(=「価値判断を排除する」)ことにより、正しい手順を踏んで相手が納得のいく「価値討議」を行うなかから、「個別科学的な研究」を見いだしていけばよい。そうすると、「脱施設」や「地域移行」に関する研究に関しても、一方的な独りよがりの意見ではなく、討議対象も納得しうるコンセンサスが得られる結論が導き出せる、ということにようやく気づいたのだ。

でその後読んだ小熊氏の議論でも、これと同じ事が書いてあった。

「自分や自分の党派だけは真理を知っていて、他の人びとはすべて神話にとらわれているなどということは、まずありえないことです。自分が神話を持っていることに自覚を欠いていると、神話を破壊すると称しながら、じつは自分の神話でほかの神話を攻撃しているだけとなってしまいます。」(小熊英二著、「神話を壊す知」 小林・船曳編『知のモラル』東京大学出版会、p84

自分が属する日本社会が持つ、「入所施設・精神病院必要悪論」、という「神話」。これに対抗する為に議論したいのに、僕は「脱施設・脱精神病院」を「神話」として掲げて、「神話」の置き換えを求めているだけなのだ。では、この「神話」に対して、私たちはどう対応すればいいのだろうか。小熊氏はそれに対してこう述べている。

「人間は神話から無縁になることはできなくとも、自分の神話を自覚し、相対化することはできます。その自覚があらたな神話になってしまうまでの一瞬、私たちは神話から自由になり、ぶつけあっていたたがいの神話の殻のすきまから、相手に向かって開かれることができるのではないでしょうか。大切なのは、その一瞬の新鮮さを忘れずに、外界と対話し、時には相手の神話の主張にたいして謙虚になって、自覚の課程をくり返し続けることではないでしょうか。」(同上、p84-85

神話からの自由、それはまさに大林先生が教えてくださった、ウェーバーの本来意図した「価値自由」と同じではないか。「価値討議」を通じて「謙虚」にお互いの神話を精査する中で、「人々がなぜ一致できないか、またどの点で一致できないか」が明らかになる。その瞬間、「ぶつけあっていたたがいの神話の殻のすきまから、相手に向かって開かれる」のだ。その瞬間を目指して、ウェーバーの言葉で言えば「禁欲的」に対象に向かうこと、これが僕にとってのこれからの課題となるだろう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。