何のための「理想」「価値」?

八王子から甲府に帰る「かいじ号」の中で、ダイナブックくんをパタパタ打っている。

時刻は午後11時。8号車指定席の大半が十代後半とおぼしきうら若き女性陣。みなさん一様に大きいバッグを抱えている。バーゲンにでも出かけたのだろうか、でもその割に大集団だよなぁ、とちらちら観察していると、出てきたのは大きな半円形のうちわ。そこには同じくティーンズ男子の等身大の顔写真が張られている。これはもしや・・・と思いチラチラ観察を続けていると、出てきたのが某アイドルグループ名の入ったパンフレット。なるほど、今日はあのグループがコンサートだったのですね。いやはや、ファンの力は恐るべし、です。今はICレコーダーで「無断録音」した音源を聞き比べておられます。なるほど、隠し撮りも進歩、ですなぁ・・・。

今日はとあるところで春先に行われるある会議に関する打ち合わせ(指示語ばかりですいません)。その後、その会議の主催者であるYさんと喫茶店で議論をしていた。Yさんは団塊世代より十歳若い「団塊の世代に反発した世代」と言っておられたが、この40代後半までの世代は「社会運動としての福祉」というものにリアリティを持っていた世代であり、日本の障害者福祉の支援者として一定の層をなしている。そして、その下の40代前半から30代後半までが、バブル期の世代。ここが人材不足で福祉業界には少なく、その下が「福祉の国家資格化」と「福祉で飯が食えると錯覚!?」した世代で急激に従事者が増える。つまり福祉従事者は世代的に考えると40代後半以後と30代前半未満のふたコブがあるひょうたん型である。

で、このひょうたんの両側では、全く発想が違う。前者の40代以後が「社会運動としての福祉」とすると、後者の30代前半までは、ある種「お仕事としての福祉」であり、そこには「社会運動」「地域変革」「障害者解放と自己解放」といったロジックが希薄な場合が多い(もちろんそうでないケースは両方共にある。燃え尽きてしまって給料泥棒の40代以後と、薄給でも地域支援に必死になる20代30代など)・・・。上の世代からすれば下の世代は「筋金が入っていない」ということになり、下の世代からすると上の世代は「自己犠牲的・滅私奉公的」に映ってしまう。つまり、同じ福祉の世界で働く人間なのに、共感や連携が成り立ちにくい、という構造を抱えているのだ。

これがお商売の世界だったら、こういうズレは生まれにくい。なにせ、「儲け」という単純な指標で計れるし、この「儲け」には思想は入り込んでこないから。ただ、当事者支援というものは、制度政策がどれほど実現したか、という面ではある種の数値化が可能な部分もあるかもしれないが、社会の偏見がどれほどなくなったか、エンパワメントがどのようになされているか、などはある種の理念や思想と不可分なところがある。すると、現状では視座の違いによるズレが出てくるのだ。

ただ、ズレが生じないよう障害者福祉も数量化して考えるべきだ、とは全く思わない。

「戦後の日本では、統計学的手法やコンピュータの発達に支えられて社会現象の数量化(計量化)が急速に普及し、行政や企業経営はじめ各分野で広く利用されてきています。しかし、主として計測手法が依然として幼稚な段階にとどまっていることから、計量的アプローチに頼ることによって、現象の本質が見極められなかったり、時には誤って認識されたりすることさえざらではありません。これには正に要注意です。
 日本の社会科学界で俄然計量的アプローチが盛んになったのは、戦後のアメリカニズムのおかげで、そのためどの分野でも、理系出身の学生が過大評価されて大学研究室に残される比率が一時期高まりました。僕自身も志望先の工学部航空学科が廃止になったためやむなく文系へ転科したポツダム文科生の一人ですが、計量的アプローチに関わって以来、社会現象の本質的価値は、例えば理想とか倫理といった絶対に数量化不可能な部分にあると信じて疑いません。」
野田一夫 2005年12月21日 Rapport-581より)

野田氏が指摘するように、「社会現象の本質的価値は、例えば理想とか倫理といった絶対に数量化不可能な部分にある」とは僕もその通りだと「信じて疑」わない。ただ、ここで指摘したかったのは、その「理想」や「価値」が支援者の嗜好物ではなく、当事者が求める「理想」であり、当事者主体という「価値」に合致するか、が一番に問われるべきである、という点である。視座がズレるのは、誰の「理想」「価値」を守ろうとするのか、が、障害者支援の現場でもバラバラだからではないか、と最近感じ始めているのだ。つまり、視座がズレたりぶれたりしないためには、支援者が自分の思想を投影する訳でもなく、また自己のエゴを当事者に仮託するわけでもない、本当の意味での当事者が求める「理想」や当事者主体という「価値」に合致する支援が求められる。そういった支援というものがどうすれば日本でも出来るのか、を先述のYさんとハイネケンのハーフパイントを頂きながら議論していたのである。(なんだか長い回り道でしたね)

で、落ち着いた結論が大変単純かつ自明な事実。「People first」であり「私たち抜きで私たちのことを何も決めるな」なのだ。逆に言えば、今の日本の障害者支援の現場では、障害当事者がいつもlastにおかれ、障害当事者抜きで障害当事者の現実がほぼすべて決められている、という現実がある。これは障害者に限らず、子育て支援であれ、不登校やニートの問題であれ、広く児童支援であれ、同じ理屈だ。いわゆる「専門家」と称する人々と官僚が、当事者の意見をきちんと聞かずに「対策」をたてるから生じる問題である。もっと言えば、対策を後付的に講じる時点で、事前救済ではなく事後的救済である、という時点で、一歩も二歩も出遅れているのであるが。(その点スウェーデンの福祉は、実際に施設入所してしまった、あるいは社会参加出来ない人への「対策」に力を入れるより、とにかくそういった施設や病院をつぶして、入所施設や社会参加促進の阻害を「予防」することに政策的に力点を置いている、という点で興味深いのであるが。)

つまり、障害当事者の人々が権利意識を持って、地域変革につながっていく、そういう活動が展開し、支援者がそれをどう支えていけるか、という展望が、今の日本においては描きにくい、それは支援者の年代的分断にも起因している部分もあるのではないか・・・と議論はつきないのであった。

実はこの議論はその後、本当は、一般人にすら権利意識の根ざしていない日本における「障害者の権利意識」と欧米でのそれとの違いなども議論していったのだが・・・この権利の問題は相当にやっかいなので、また時間のあるときに考えてみることとする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。