お洒落と中身

 

1300キロの旅を終え、甲府の我が家に戻ってきた。

両家の実家+挨拶まわり+両家のお墓参り、という実に真っ当なお正月ツアーをしてきた。しかも昨日の帰路は「Uターンラッシュ」なるものにも見事に巻き込まれる。こういう「絵に描いた餅」のような正当派正月をきっちり過ごしたのは今年が初めてだったのだが、「まんざらでもないな」と感じている自分がいて、びっくり。もしかして、それだけ年を取ってしまった、ということなのでしょうか。

そんな正当派のお正月ツアーの間に、嬉しい「めっけもん」をしてしまった。それは「王様の仕立て屋~サルト・フィニート~」(大河原遁、集英社)

イタリア・ナポリの泥棒市に住む日本人、織部悠は、ナポリの伝説の名仕立て屋が唯一認めた弟子。その織部が作り出す芸術品とも言えるスーツと、それを身にまとう者の人間ドラマが、魅力的に描かれている味わい深いシリーズもののマンガ。もともとイタリアントラッドにひそかな憧れを抱いてた僕は、本屋で出逢った時、全部一挙に買おうか迷った挙げ句、1巻だけにしておいたことが悔やまれる。このブログを書き終わったら、早速探しにいかなきゃ。

で、お洒落と言えば、タケバタの青臭い時代のことを思い出す。

僕は高校生くらいまでは服に全くといって興味がなかった。男子校で彼女なんて言うのも無縁な存在だし、それなら当時凝っていた白黒写真の現像液やらレンズやらを買った方がいいや、とも思っていた。一方で格好良い人への憧れもあることはあったが、「どうせ僕なんて」と自分の不細工加減、特にぽっちゃり体型とたらこ唇などにものすごいコンプレックスを感じ、なるべく地味で目立たない服を所望していた。大学入学時に親とスーツを買いに出かけた際も、ブレザーに合わせる緑のパンツを「こんな派手なのは僕には合わない」と反発していた。

それがうって変わって、派手な色のシャツを好むようになったのは大学生になってから。タケバタ=派手なシャツ、と大学時代の友人にインプットされているくらいだ。その理由は、大学時代から始めた塾講師と関係がある。僕がバイトしていた塾では「ジーパン禁止、スーツ着用」が原則だった。その塾講の現場には、年齢は同い年だけれど、大学には僕より一年先に入った「先輩」のejapomがいた。でも高校が同じだったので、偉そうな僕は彼と「ため口」をきき、以来彼とは10年来の親友である。奴は、すごくおしゃれが上手で、タケバタのほのやかで、しかし諦め気味だったおしゃれ願望に火をつける。その後、塾講やら家庭教師で稼いだ金で、初めて阪急のバーゲンで四つボタンのスーツを買ったのも、ejapomのお導きのおかげである。一応そのスーツは今でも着れている。何とかギリギリ体型維持、である。

で、おしゃれに凝りだした一方で、タケバタは塾の中間管理職と仲が良くなかった。大学1,2年生の頃にその塾の管理職だったT氏からも、折りにつけいびられる。「服が派手だ」「ネクタイがなっていない」「不遜だ」・・・。生意気ざかりだったタケバタは、その塾の経営者であり恩師であるI塾長を心から尊敬していたが、中間管理職のT氏に対しては敬意を抱くことが出来なかった。彼の教え方もいいかもしれないが、僕には僕の教え方があり、それはそれでいいはずだ。あんたにあれこれ指図されたくない。そんな思い上がった考えを持っていた。だから、反発心もあって、絶対オーソドックスな白シャツなんて着ないし、ネクタイも派手にするし、定番スーツなんて着ない、と決めていた。今思い出したのだが、T氏は必ずダブルのスーツに白のカッターだったので、それに対する反発もあって、服装から考え方まで全て反旗を掲げていたのかもしれない。

だが、実は昨年から、白いカッターやら定番のスーツやら、への抵抗がなくなってきた。というより、わざわざ派手なシャツばかりを着て、やかましく自己主張するのが面倒くさくなってきたのだ。別にピンクや派手な格子柄のシャツを着なくても、僕は僕。服でそこまで自己主張しなくても、見てくれる人は見てくれるし、関心を持たない人は持たない。何も服にそこまで「焦る」必要はないのではないか? それよりは、きっちり教育なり論文なりにエネルギーを注いだ方がいいのではないか? そう思うようになったのだ。まあ、法学部ではスーツ姿の先生方が多いので、僕もスーツの方が「目立たない」という効用故もあるのだが、昨年以来、スーツ姿は多いし、プレーンな白や青のシャツも多い。そして、そういうシャツを着だして、「白」や「青」シャツの方が奥が深い、ということもしみじみわかり始めた。そんな時に先述のマンガと出会い、次のフレーズがグッときたのだ。

「化粧は元々自分の中に眠る隠された人格を引き出す宗教儀式から生まれた
 お洒落だって同じ事さ
 特にあの旦那は扉が錆びついて開かなくなった蔵のようなもんだ
 ちょいと油を差して扉を開いてやれば
 あとは三十年間磨き続けたお宝を並べるだけだ」
(「王様の仕立て屋~サルト・フィニート~」p125

着飾る際に、中身の「お宝」を成熟させていれば、つまり引き出す「何か」が隠されていたならば、ファッションによってグッと自分が引き立ってくる。これは逆に言えば、中身や引き出す何かが備わっていない段階で派手に着飾ると、かえって空疎さが増す、ということである。きっとバイト先の上司T氏は、その空疎さを伝えてくれようとしていたのだと、一回りの年月が経ってようやく身にしみてわかる。Tさん、すんません。そのときはあなたに対抗心を燃やすのに必死で、自分の馬鹿さ加減、服装に現れる空疎さにまで頭が回らなかったのです。

もちろん、お洒落が無駄だ、と言っているのではない。その逆で、服の色の派手さや綺麗さ、形に惑わされず、自分が着てみて、自分の雰囲気にフィットする服装でお洒落を楽しめばいいのだ。だから今では、白や青のプレーンシャツで、どれほどお洒落に着こなせるのか、をたまに考えたりする。最近では八ヶ岳のふもとのアウトレットのシャツ屋がお気に入りなので、そこで店主に色々教えてもらいながら、定番カラーのシャツでの年相応の冒険、というものに手を出している。このブログで服のことを書くなんて、書き慣れていないから変な感じだけれど、そうやって自分が好きな服、気持ちのいい服でよりいい仕事が出来るよう、この一年もがんばろう、と年始に何度も誓うタケバタだった。今日で正月休みはおしまい。明日が初仕事です。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。