構造的排除

 

昨日は大学時代のボランティア仲間の結婚式。新郎新婦ともよく知ったお二人だったので、出席者の顔ぶれも懐かしい顔が多く、同窓会状態。披露宴、二次会の後、ホテルのバーで三次会まで、あっという間に時間が過ぎていく。ワイワイやっていた10年前の事に思いをはせながら、「今の自分が想像できた?」と問うてみる。Kさんが「私は今、やりたかったことをやっていると思う」という発言に、凛とした表情が重なって気持ちよい。そう言われてみて、僕自身も「やりたかったこと」を少しずつ形にしている、と改めて気づかされた。Kさんの笑顔に引き出された発見だった。

その後、高校時代からの友人と実家近くのラーメン屋に移動。西大路九条の天下一品(なんてすごくローカルですが・・・)では、高校から大学時代、よく「モモ定」(こってりラーメンと鶏のモモ焼きがついて1000円弱)なんていう、超こゆい食べ物を食べていた。披露宴(1次会)でたっぷり食べた2時間後に二次会があったので、ほとんど食べずに飲むばかり。3次会も飲むばかり、なので小腹を満たすために4次会でラーメンを啜る、という超おデブコースをたどり、その後向かいのバーで5次会! もう打ち止めだろう、と思っていたのだが、ひょんなことから共通の友人の話になり、電話してみると、「今、大阪から京都に帰るところ」。なので、彼もやってきて、結局バーは6次会的雰囲気に。1次会は正午からスタートし、最後にバーを出たのが午前様。。。こんなに飲んだのは久しぶり、ご苦労様でした。

今朝は朝から胃酸の苦みを感じながら、午前はメールをこつこつ打つ。打ち終わって、よろよろバスと電車に乗って大阪に。当HPの管理人、magnam氏と久しぶりにみっちり話し込むために出かけたのだ。会合場所に当方が指定したのはアバンザ堂島。そう、ジュンク堂堂島店、という大型書店がある場所だ。甲府移住以後、めっきり「立ち読み」「本屋のぶらつき」の機会がへったので、出張の折には出来る限り本屋に立ち寄る。普段の本は、ネット経由(アマゾン)か大学の書籍センターがほとんどだが、やはり大型書店の魅力は代え難い。ネットだと、キーワードが見つかっている(既知)の分野に関しては、サクッと探せるのだが、そのときの気分や「タイトルを見て興味を持つ」なんていう「衝動買い(=未知との遭遇)」には至らない。自分の器を広げたり深めたりするためには、こういう衝動買いが一番モノを言う、と思っているタケバタにとって、本屋でぶらぶら「眺める」ということは、これ以上の喜びはない至福の瞬間だ。まあ、服好きの人のウインドーショッピングと一緒ですね。

至福の瞬間の後、ごっそり「散在」して(といっても、服を何着も買うより遙かにやすいのですが・・・)magnam氏との議論スタート。ギリシャ哲学の素地のあるwebデザイナーの彼とは、都合15年のおつきあい。近況報告もそこそこに、早速どっぷり入り込んでいく。昨日の3次会で久しぶりにあったMさんとのやり取りで気づかされた、「タケバタは発言が過剰である」という「発見」に対して、彼は「あなたの議論は引き出し型ではなく、たたき出し型だ」と受ける。どういうこと?と聞くと、タケバタの場合、相手の話を聞き終えてから話を展開する、というより、自分の聞きたいことを相手にぶつけて「これについてどう思う?」「どうして?」と問いを重ねていく、という。おっしゃるとおり。でも、そういわれてみて、最近自分が気になっていた事が顕在化された。

僕はもしかしたら、自分が興味のある内容に議論を焦点化させる、つまり、自分が元々興味のない話題に関して構造的に排除しているかもしれない、と感じ始めていたのである。簡単に言えば、「キャパが狭いよなぁ」の一言につきるのだが、得意のない話題に展開しないように、もともと話の流れを誘導していたのでは、と自分を疑いはじめたのだ。つまり、未知との遭遇の構造的排除である。

構造的な排除のもとでは、自分がもともと興味を抱いてなかった真実にたどり着く可能性はほとんどない。「発言が過剰」ということは、一見すると議論好きに見えるが、一方的に話し続ける事は、相手の自由な発言の機会を構造的に隠蔽することにつながりかけない。たたみ掛けて話をする、ということは、結局自分の屁理屈を相手にねじ伏せるわけだがら、全然「議論」とはいえない。むしろその逆の、押しつけや説教そのものである。自分が忌み嫌うこの「説教ロジック」に陥っていることを、31にしてようやく気づいたのだ。とほほ。

僕のブログを読むのが面白い、なんてお世辞でも嬉しいことをいってくださったMさんを前にして、つい調子にのって「たたみ掛けている」タケバタは、Mさんがほんとに感じておられた内容を聞くことを「構造的に排除」して、さらに僕の意見を対面の場でも押しつけていたのだ。なんたることか。Mさん、ごめんなさい。ようやくそのことに気づきました。以後気をつけます。長距離の旅路、気をつけて帰ってくださいませ。 

こういう風に、語らいの中から大きくいろいろなことが整理された一日だった。
自分が整理されると、他人の整理まで可能になる。その後、西天満と梅田で、それぞれ目前の課題に困ってらっしゃるお二方の整理のお手伝い。今度は立場が逆になったのだが、他人の課題を整理できる時って、実はご相談された時点で既にほとんど相手によって整理が終わりかけている、ということもよくある。今日のお二方も、相談された課題を伺ってみると、両者ともほとんど整理が終わっている。ただ、最終局面でもう一加工、というときに、相手からお声がかかる。うまく整理が出来る時、というのは、相手の発言のみならず、相手の整理の過程をつぶさに感じ取り、そこに足りない最後の「一塩」をふるだけで充分なのだ。しかも、その塩加減も、整理を待つ相手がちゃんと準備してくれている。この相手の塩加減へのリクエストを体感できたら、その直感に従えば、たいがいうまくいく。今日もそうだった。

ということは、整理してもらった「構造的排除」問題も、そうやって僕があと一歩のところまで整理できていたからこそ、magnam氏との語らいの中で引き出された「物語」であったのだ。また、こうやってこのブログにそんなことを書き付けるのは、「発言の過剰」を抑制するための、エネルギー発散の場であるのかもしれない。

ブログを書き続けると、きっとちゃんと人の話が聞けるようになる。こんな無茶苦茶な整理を今日のオチとして、いまだ口の中が酸っぱいタケバタは、さっさと床につきます。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。