「見た目」とノーマライゼーション

 

先日開かれた「山梨の地域生活を考える会」設立記念フォーラム。この会場で一つ気になった発言があった。
「私たち障害者は普通の人以上にちゃんとした服装をしないと、馬鹿にされる」
ある方の実体験を元にしたこの発言を奇貨として、少し考えてみたい。

「ちゃんとした服装」ということを、「見た目」と絡めて考える時、実は結構「見た目」を重視している自分を発見する。

といっても、別にだから美男美女やセンスのいい人をえこひいきする、という短絡的つながりではない。(そうなると真っ先に自己否定することになる・・・)。そうではなくて、その人のトータルな外見的雰囲気に現れるその人のオーラのようなものは、結構大切ではないか、と思ってしまうのだ。例えば、僕より一回り上になんて絶対に見えない魅力的なオーラが前面に出ているお姉様がいる。また、同い年なのにどう考えても40以上なんじゃないか、という雰囲気を漂わせる若オヤジや若オバタリアンに見える人もいる。その理由として、ある一定以上の年齢(実感的に25才以上?)になると、その人の内面の志向性や気持ちが外見に如実に反映されるのではないか、と僕は今のところ考えている。つまり、顔が童顔だとか老け顔だとかは25才くらいまでの話で、それより後は、その人の内面的なものが、表情やしぐさ、服装の選び方やセンス等のその人を取り巻く雰囲気全体(=「見た目」)に反映されてくるのではないか、と思うのだ。

これと同じ様なことは、他の人の語りの中にも出てくる。以前ここで引用した一節に再びご登場いただくとしよう。
「化粧は元々自分の中に眠る隠された人格を引き出す宗教儀式から生まれた
 お洒落だって同じ事さ
 特にあの旦那は扉が錆びついて開かなくなった蔵のようなもんだ
 ちょいと油を差して扉を開いてやれば
 あとは三十年間磨き続けたお宝を並べるだけだ」
(「王様の仕立て屋~サルト・フィニート~」1巻 大河原遁、集英社p125

その人の「中に眠る隠された人格を引き出す」ために、化粧やお洒落がある。ならば、その化粧やお洒落の結果、「隠された人格」が「引き出」され、そこに何らかの感想を抱いた時、事実としては「見た目」で判断しているのだが、その「見た目」は内面と直結した「見た目」と言えるかもしれない。すると、「見た目で人を判断するな」という警句と逆の事態が現実味を帯びることとなる。

ただ、障害者と「見た目」の議論をする際には、今までの議論をそのまま当てはめてはいけない。そこに補助線としてヴォルフェンスベルガーの「逸脱論」をちょっと考えてみなければならない。

「なじみのない出来事とか事物は、新奇であれば、人間でも動物でも否定的な感情を引き起こすものである。人間の歴史は、自分とは異なった特徴、例えば皮膚の色、背丈、容姿、言語、慣習、服装等々で相手を迫害してきた事件にみちている。人間は、逸脱状態のなかに邪悪を見がちである。だから、歴史上きわだった役割近くの1つとして、逸脱した人を脅威としてみる見方があることは、驚くにあたらない。」
(ヴォルフェンスベルガー「ノーマライゼーション」学苑社 p38-39

彼はこの「逸脱」という観点で障害者を捉えた上で、障害者に「脅威」を抱かない(=つまり地域で「受け入れられる」)ためには、「可能な限り文化的に通常である身体的な行動や特徴を維持したり、確立するために、可能なかぎり文化的に通常となっている手段を利用すること」(同上、p48)、という戦略をとった。彼のこのノーマライゼーション論は、発表された70年代当時にはかなり影響力ある思想として全世界に広がった。ただ、これは「障害者が健常者世界に同化することを強いる」という意味で「ノーマライゼーションの同化的側面」と分類され、「危険な適応主義に陥ったり、障害そのものの尊厳性を否定しかねない」(定籐丈弘「障害者福祉の基本思想」『現代の障害者福祉』有斐閣 p20)といった批判を後に受けることとなる。ちなみにこのヴォルフェンスベルガーの「同化的側面」の議論がアメリカや日本ではかなり広まったお陰で、北欧で生まれたノーマライゼーションの考え方そのものが、日米で90年代以後、葬り去られていくこととなる。

先述の「私たち障害者は普通の人以上にちゃんとした服装をしないと、馬鹿にされる」と発言の背景には、健常者と同じ格好をしなければ世間の人は「認めてくれない」という文脈で語られる、健常者の差別・偏見や「同化的圧力」があるのではないか、そう考えた。

だがもしもヴォルフェンスベルガーが「障害者も普通の格好をしなければならない」という「べきだ」(should, must)の文脈(=同化的圧力)ではなく、「障害者だってお洒落はしたいでしょ」という「諦めていた想いや願いの実現」(would like to)の文脈で「見た目」問題を語ったらどうなったのだろう、とふと考える。障害者だからって、入所施設の中で一日中同じジャージを着て過ごすのは変だ。自分のプライベートなおうちでは楽な格好をしていても、外に行くときは、自分が好きな服で「楽しみたい」、「自分の中に眠る隠された人格を引き出す」ためにちょっとキメてみたい、という文脈で考えたら、もしかしたらヴォルフェンスベルガーの考えはもう少し別の角度から捉えることが出来たのではないだろうか。

もちろん逸脱論からスタートした70年代のヴォルフェンスベルガーには、きっと「オシャレとしての服装」という発想には思いもよらなかったろうし、それはそれで仕方がなかっただろう。何も、21世紀の私たちが、それを今の文脈から非難するだけでは、何も生産的なものは生まれてこない。(これはたぶんに自戒を込めた弁明であって、僕自身、以前ある文章の中で、先に述べた「今の文脈」から「当時のヴォルフェンスベルガー」を批判する、という大変な不作法をしていた。) ただ、発想を変えれば逸脱論から出てきた「服装の同化」と、本人の「想いや願い」から出てくる「お洒落」は、そのコンテクストは全然違うのだが、結果としての「見た目」問題は、「服装の変化」という同じポイントに行き着く。ただ、その人が、「べきだ」の文脈で「着せられる」「お仕着せ」の服装には、息苦しさや不自然さという「見た目」がつきまとう。だが、その人が自分でこれをこういう場面で着たい、と思って着飾るとき、その人の内面に油が差さされて、その人の魅力の扉が開かれる瞬間が立ち上がってくるのではないか。

ならば、障害を持った人でも普通に「お洒落」が出来るように、お洒落な服を着るための介助者や、お洒落してパーティーやコンサートにいく為のガイドヘルプ、お洒落な服を買うための所得保障、そもそもそういったお洒落に興味を持てるような施設入所ではなく地域自立生活の保障、お洒落をして出逢った異性と付き合ったり結婚したりした際の支援・・・こういった障害者の「お洒落」にまつわる諸課題を、私たちの社会がシステムとしてどう構築し、保障していけばいいか? ほんとはこういう問いを考えることこそ、もともと北欧で生まれた「ノーマライゼーション(の異化的側面)」なるものの本質だったのではないか、・・・そんなことをつらつら考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。