勇気とは何か?

 

春の嵐なのか、甲府は朝から風がビュンビュン吹きすさんでいる。
もとより「空っ風」の土地柄だが、こういう季節の変わり目の嵐は、季節が冬から春に移行することを、まさに「身をもって」知ってくれているような気がする。

今朝の朝日新聞の論壇に、ある精神科医が精神障害者の病院から地域への「移行」に関して、次のようなことを書いていた。

「今後の退院対象者に関しては、これまで以上にきめ細かな、より少人数での居住環境や、手厚い保護環境下での就労形態が求められているということである。言い方を変えれば、そういった条件が整わない場合、個々の患者について入院を継続させる勇気を医療者側は持つべきである。」

国は障害者自立支援法が制定されるにあたり、他の国より明らかに多すぎる精神科病床(34万床:甲府市人口20万の1.7倍)を削減するための「退院促進支援」にようやく取りかかった。この5年間で72000人の退院促進をする、と言う。でもその実、計画案を詳細に読み込むと、なぜか5万人になっている。あとの2万人については何も書いていないが、老人の施設か「死亡」という名の「自然減」と考えているのだろう・・・。

これはこれで恐ろしいことなのだが、この5万人の退院支援に関してこの医師は、「数値目標を優先して病院から出すとすれば、かなりの数の者が路上生活者となるか、『回転ドア現象』を起こして病院に舞い戻ってくるか、悪くすると、刑務所の中に行き着くことになるのではないか」と分析している。確かに、病院の中で何十年と暮らしていて、自動改札も知らず、三食昼寝付きの生活に慣らされてしまった、いわゆる「施設症(institutionalism)」に陥っている人々にとって、急に環境の違うところに放り出されることは、大きな不安がつきまとう。だから、少人数の住居やきめ細かい支援が必要だ、というこの医師の指摘は、よくわかる。

ただ、どうしてその後に、「そういった条件が整わない場合、個々の患者について入院を継続させる勇気を医療者側は持つべきである。」という論理になってしまうのか。これって、冒頭に述べた季節の変化で言うならば、冬の季節に慣れている人が、春に慣れないのなら、ずっと冬の環境に閉じこめておく「勇気」を医療者側が持つべきだ、という滅茶苦茶な論理になってしまう。確かに季節の変わり目は、よく風邪を引いたり関節が痛んだり、体調を悪くしたりする。でも、そういう中でも徐々に新しい季節に慣れていき、順応していくのが人間なのだ。これは季節の移行ではなく、精神病院から地域への住まいの移行も同じ。ずっと精神病院に暮らしていた人にとって、地域での暮らしは最初はとまどいや失敗もあるだろうが、そういう失敗を重ねる中で、徐々に地域での暮らしに溶け込んでいけるのだ。それを「条件整備が整わなければ入院継続させる」ことが医療者の「勇気」となぜ言えるのだろう・・・。

大阪で始まった、長期入院の患者さんの退院促進支援の動きは、今、全国に広まっている。例えば昨日の沖縄タイムスの中で、ある当事者のかたは「長い間病院にいた患者の勇気や頑張りも大切。退院した人から、まだ入院している患者に、自分が感じた思いや経験を伝える場も必要」と語っている。地域で暮らすための住まいや支援の様々なしかけを作っていくと共に、長い間同じ病棟で暮らしていた「仲間」が退院して地域で楽しんでいる姿を見ることによって、地域への「移行」に消極的だった長期入院患者の中に、希望が生まれているのだ。

ちなみに、長期入院患者の消極的姿勢をこの医師は「より自発性の低下や自閉性の強い、あるいは幻覚や妄想などの症状がかなり残存する患者」と定義しているが、この定義の仕方にも大いに疑問が残る。確かに病棟にはこの医師が表現するような雰囲気を持つ方々もおられる。でも、その方々がそういう現状になったことは、本当に病状のみが原因なのか。急性症状が出たときの治療の遅れ、家族関係の悪化、その後の長期入院、その中での絶望や諦め・・・そういったものが折り重なっての、「自発性の低下」であり「自閉性」、という人も多くいるのではないか? 全部が全部、その人の持つ症状や傾向という「個人因子」に起因させてしまっていいのか? それよりも、家族関係や治療環境、支援不足といった「環境因子」の構造的要因が、その方の絶望や諦めといった消極的姿勢を構築している部分があるのではないか?

そういう「環境因子」の改善について、先ほどの退院促進支援事業などで、地道な努力が全国で始まっている。そういう努力こそ勇気を持って医療者側が取り組むべきなのではないか。そういう努力に光を当てず、「条件が整わない場合、個々の患者について入院を継続させる勇気を医療者側は持つべきである」という見解をふるうのが、医師の「勇気」や「優しさ」と言えるのか。これこそパターナリズムの最たるものではないか・・・。

この精神科医は、論の最後をこう締めくくっている。

「統合失調症の患者の多くは、人に知られず、ひっそり生きている人たちとも言える。その彼らを『広場にもちだす』には、より慎重でなければならないのでだと考える」

確かに人によって、いろいろな住まい方、生き方がある。「人に知られず、ひっそり生きる」ことを好む人もいるかもしれない。だが、どこでどういう暮らしをするか、の選択権は、医者ではなく当の本人にあるはずだ。またその方が「退院したくない」と仰っても、それはその背後に長年の支援不足や家族関係の悪化といった「環境因子」の蓄積によるものかもしれない。それらを検討し、本人と共に今後の人生を模索していく「勇気」こそ、医療者は持つべきなのではないだろうか。地域という「広場」で生きるか、病棟で一生を終えるか、という判断を医療者側が本人の意向や背景要因を分析することなく勝手に判断する勇気にこそ、「慎重でなければならない」、僕はそう考える。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。