画一化の崩壊の後(増補版)

 

*ブログの便利なところは、こうして書き直しが可能なこと。前回のこの文章がかなり舌っ足らずなのが気になっていたので、大幅に書き直しました(2006.3.11

 「平等や公正とは、ほんらい同じであるもの、あるいはあるべきものを同等に扱うという意味であって、ほんらい違うものを同等に扱うのは平等や公正ではなく、画一化である。だから画一化は不(悪)平等や不公正をもたらす。平等化や公正化は積極的に推進すべきであって、平等化や公正化をおしとどめようとするのは、正義の原則に反する。」(間宮陽介「経済戦略会議『最終答申』への疑念」 『同時代論』岩波書店所収、p220)

間宮氏の指摘するように「平等」と「画一化」はトレードオフの関係、つまり「あちらが立てばこちらが立たず」の関係だと思う。平等とは、画一的な考えを押しつけるのではなく、どんな考えをもとうとも同等に扱われる、という考え方である。これを福祉の世界のことばで言うのなら、「ノーマライゼーション」というのも、まさに「平等」「公正」に基づく考え方である。このことばについて、多くの人が(福祉関係者でさえ)誤解するのは、「ノーマライゼーションとは障害のある人をノーマルにすることだ」という画一論的理解。それはその思想が生まれた北欧の理念に照らすと全くの誤解だ。ノーマライゼーションが生まれた北欧では、障害のあるひとでも普通の人と「同等に扱われる」べきである、という平等の考えから、ノーマライゼーションという理念が成熟していったのだ。

でも、最近のマスコミ報道の方向性を見ていると、どうも世論は、というよりマスコミは、「平等」や「公正」よりも、「画一化」の方に重きを置いている、としか思えない。しかも、自分が画一的方向に妥協するのではなく、自分を含めた中心点に向かって他の人々を妥協させる、という方向で。特に事件報道が起こったときの「他人事」的報道と、それに基づく犯人捜し、にはうんざりする。

これは何か事件が起こったときに、「わかりやすい原因・犯人捜し」に終始するマスコミ報道をみていて、つくづく感じさせられる。ある事件の背景には、様々な要因が複雑に絡み合っていることが多いのに、その事件の背景のごく一部を、さも全体的特徴であるかのように警察発表をし、マスコミはそれを鵜呑みにする。「外国人」「精神障害者」「ホームレス」「リストラ」・・・なんでもいい。「○○だから」というネガティブなフレーミングにピッタリ来る原因ならば、多くの人が疑いもなしに、「○○だからしてしまうのも仕方ない」という烙印を押す。

ちょっと立ち止まって考えてみれば、そんなに簡単に理由を一元化出来るはずもない。「○○」とカテゴライズされる人にだって、いい人もいれば悪い人もいる。逆もまた真なり。もしも○○が原因の一部かもしれないが、○○だけが原因、なんてことはあり得ない。つまり、この烙印は、論理的一貫性や整合性に基づいたものではなく、偏見に基づく烙印なのだ。だが、忙しいマスコミは、それ以上の背景分析をする時間も手間も惜しみ、読者もそういうものを求めていないはずだ、と活字を大きくし、テロップをうち、情報量をどんどん少なくしていく。すると、ただでさえ説明する時間が少ない新聞・テレビの解説は、ますます短くなり、その中でより多くの読者に「わかりやすさ」を提供するため、ますます問題の背景は考察されず、原因は「画一的」で単純なものとなる。

そう、「○○だから」という画一的な正解は、「○○だから仕方ない」ということによって、責任を個人の範疇から出ることを防いでいるのだ。あいつは○○だからわるいことをした、でも私はそうじゃないから、私にはその責任はない、と。

しかも、その前提として、「自分は○○ではない」、という他人事的発想が大きく見え隠れしている。あんなに悪いことをする奴は、自分や自分の身内とは関係ない変な奴で、私には関係ない、と。問題を個人因子に起因させ、その人がどういう仕事上や人間関係でのトラブルを抱えていて、何がストレスとなっていて・・・などという環境因子的側面(社会システムの側)に目を向ける背景報道をすることなく、個人の問題に押さえ込む。本当は「○○」の背後に、あなたや私も関わる、この日本社会のひずみのような問題群があるかもしれないのに、そこには触れず、個々人の「○○」という問題に起因させる。一見わかりやすい理屈だが、それにのみ焦点を当てていては、そういった事件はなくなるどころか、どんどん増えていくだけだろう。だって、その「○○」の背後にある「ひずみ」はそのまま放置されているうちに、どんどん増幅していく可能性があるのだから。

じゃあどうすればいいのか? まず今日からでも私たちに出来ること。それは、一見「わかりやすい」と思える報道に、「ほんと?」と疑問符を付けてみることかもしれない。ホントに○○だけが理由? それ以外の要因はないの?と。

なぜそんな面倒くさいことをしなければならないのか。それは、一方で、日本が確実に画一的社会ではなくなりつつあるからだ。格差社会がリアリティを持って来るということは、一億総中流という画一化幻想の崩壊を意味する。僕らより少し上の世代からは、個々人の自由や権利を大切にしたい、どうせなら周りからじゃまされたくない、というライフスタイルに変わりつつある。これは画一的なやり方にノーと言っていることに等しい。つまり、日本社会全体が、画一的均質的な社会から良くも悪くも大きく転換しようとしている今にあって、マスコミ報道は今だ画一的な論理から抜け出せていないのだ。むしろ、画一化社会が崩壊していく現在にあって、その社会変動に不安を感じている世論の動きを敏感に察知して、反動的にますます画一的報道にのめり込んでいっているような気もする。

だが、何度も言うが、「○○」の背後にある「ひずみ」はそのまま放置されているうちに、どんどん増幅している。社会変動を突き動かすのも、ある種、この「ひずみ」のマグマが、放置できないほど溜まって来ているからだ、とさえ僕には思われる。そういう社会変動期にあって、いつまでも画一化幻想の枠組みの中に縛られていると、見るべきモノも見えなくなってしまうような気がする。明治維新以後、日本という国民国家の枠組みで画一的社会を目指してきたのだが、ある種その物語の終焉、というか、そのお話では「持たない」時代になってきた、ともいえるかもしれない。

私たちがもともと持っていた「平等」や「公正」という価値観が、画一的社会で醸成されてきた「ひずみ」によって曇らされているのであれば、今こそその曇りを払って、もう一度、「平等」や「公正」といった価値観を大切にする、そんなバランス感覚が今求められているような気がする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。