誰にとっての「システム」?

 

ジムで汗をかきかき、エアロバイクで「ファットバーン」モードにしながら、こぎ続けること40分。最近、いよいよ皮下脂肪がレッドゾーンになってきたタケバタにとって、この種の修養は、必須項目になりつつある。この春は、ここ10年ほど体重の目安としてきた、大学2年生の春に買った「当時からピッタリの4つボタンブランドスーツ」が、いよいよ危機的なほど「ピッタリ」状態になった。これから夏にかけて、腹筋とジムはほんとうにみっちりやらねば、いよいよ破綻を迎えてしまう・・・。

そんな破綻回避の為にエアロバイクこぎながら、読んでいた新書にふと目がとまる。

「いろんなものが錯綜していて、それゆえにこそ不便な『世界』がある。だから、『これを整理してシステム化すれば便利になる』と思う。システム化すれば、方向性はどんどん『一つ』に近づいて行く。なぜかと言えば、それこそが『便利なあり方』だからです。誰にとって便利かと言えば、それはもちろん、『システムにとって』で、『システム化を実現させて行く人にとって』です。それが、『システムを利用する人』にとって便利かどうかは分かりません。それを『不便』と言えば、その人達はシステムから遠ざけられてしまう-それが『推進されるシステム化の究極の姿』で、『システム化』というものは、そういうい方向を目指すものだから、仕方がありません。」(橋本治「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」集英社新書p99-100

そう、システムとは、制度設計者にとって「便利」かつ「シンプル」であるが、その「システム利用者」にとって、本当に便利かどうか、役に立っているかどうか、守ってくれる存在かどうか、とは別問題だ。これは、このブログ上で何度も書いてきた、自立支援法をはじめとした日本の福祉改革でも同じことであろう。制度の一元化、わかりやすい制度構築を目指して、介護保険との将来的統合という「わかりやすさ」を錦の御旗に、厚労省は「改革」路線を突っ走っている。だが、それが「システム化を実現させて行く人にとって」のみの「便益」なのか、システムの「利用者」にとっても便益になりえているのか、この点をこそ、システム設計者の側が問う必要があるのだが、果たして本当に問うているのかどうか・・・。

さて、「システム化」の便益が、システム構築側のみであり、システムの利用者は往々にして蚊帳の外に置かれている事象は、なにも福祉の面だけではない。それは自分が関わる大学教育の現場でも同じである。

「制度はなく設備もないが、親密さと対話だけは横溢していた『ソクラテスの仲間』の段階から次第に制度化が進み、多くの俊秀が目指してやって来るようになったアカデメイアを経て、規模も大きくなり、設備とカリキュラムが整った反面、親密さと対話はすこしく犠牲とならざるを得なくなったであろうリュケイオンまで、絵に描いたような学問の制度化と教育の序列化」「いま叫ばれている大学教育の改革で、もっとも問題とされている一つは、戦後、こうした制度化と大規模化によって、対面的な教育や互いに仲間として学び合う面が失われたこと、とみなすことができます。」(船曳建夫「大学のエスノグラフィティ」有斐閣、p4)

船曳氏が言うように、制度化(=システム化)によって、「対面的な教育」「学び合う」という側面が大学から消えつつあることは、何も今最近の話ではなく、僕が大学生の頃から、既にその事態の真っ直中にあった。ただ、それが構造的に不可能か、というと、そうではない。「対面性」や仲間(=ピア)として「学び合う」というスキームは、それを意識化して授業プログラムの中に取り込んでいけば、ゼミや授業の中でも実現可能である。つまり、現在のシステム下にあっても、そのシステムを「何のため」という視点で捉え直していくことを忘れなければ、つまり「システムの利用者の便益」を意識した「システム構築」を目指していくことが出来れば、システム化の弊害は防げるかもしれない。

ここで論点をはっきりさせておきたい。何が問題か、というと、システム化自体が問題、というわけではない。そうではなくて、システム構築の際、システム構築者が、自身にとっての「わかりやすさ」「整理」「便利」は、システム利用者にとっての便益と同じだ、と何も疑うことなく信じてしまう。このことにこそ、実は大きな陥穽があるのだ。本当に自分が作ろうとしている「システム」が、システム利用者にとっての便益と一致しているのか、この点を問い続け、違うのであれば、システム利用者の方ではなく、自らの作ろうとするシステムそのものを改変していく、この姿勢がどこまであるか、が問われているのである。

ただ、こういう作業を伴ったシステム化は大変「面倒くさい」種類のものだろう。なぜって、システム設計者にとっての「わかりやすさ」や「整理」より、システム利用者の便益を重視することは、時として例外や付加的なものが一杯くっついた、複雑なものであり、わかりやすさの対極にあるから。それよりは、ある程度のところで、設計者の中で「妥協」して、こっちが大切なのだから、あっちはある程度は泣いてもらわないと仕方ない、という形で切り抜けたくなる。しかし、教育の話に戻ると、「泣いてもらう」相手と、本当に真剣な対話や学び合いの上で、システム利用者の合意を得た上で、妥協しているのか・・・。この点を曖昧にして、システムの整合性やわかりやすさのみをごり押しにすると、結果としてシステムの利用者の便益と相反する「わかりやすいシステム」が構築されてしまうのだ。

大学教育の現場で、自立支援法の現場で、どういう「わかりやすいシステム」が構築されようとしているのか? これを、現場に佇むタケバタとしては、しっかと見て、システム利用者の立場からのシステム改善への提言へとつなげていかねば・・・。そんなことを感じていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。