バランス感覚と体内センサー

 

久しぶりにスピード違反に引っかかってしまった。

ところは御坂峠。そういえば、昨日から春の交通安全運動期間がスタートしたことには、気づいていた。注意しなきゃあね、と言い聞かせていた。また、捕まる直前、対向車線で白バイをみた。無線でなにやら話していた。こっちをジロリとみていた。僕は速度超過だった。その時点で、「あ、やばい」と減速すれば、きっと何事もなかったはずだ。だが、僕自身、バックミラーやスピードガンを注意していたものの、多分注意が散漫だったのだろう。気がつけば、黄色いジャンパーを着た警察官の赤い「止まれ」の標識が見えた。22キロオーバー。ゴールド免許の効能は、取って1ヶ月で、消えた。

もちろん自覚はあったので、すんません、という事態である。でも何より腹が立ったのは、事前に様々な警告的現象を頭の中にインプットしていたのに、それを現実問題として認識せず、スルーして無視していた、という事態である。罰金を払う、点数が2点減る、そういうことは自分が起こしてしまった結果責任だからしかたない。それよりも、自分がそういう徴候があったにもかかわらず、意識していたのにもかかわらず、行動を改めなかった、このセンサー不能の事態にこそ、ごっつうショックを受けたのである。ここしばらく、忙しすぎたから、センサーがバカになっていたのだろう。不幸中の幸いは、事故ではなく、違反で済んだこと。ほんとうに、気をつけねば。

帰国して一週間が経ったが、この一週間は死ぬほど忙しかった。土曜は辞令交付式に様々な会議で朝から晩まで缶詰状態。日曜日は一日寝ていたけれど、月曜日は午前中スノータイヤからノーマルタイヤに履き替え、昼からは研究室に本棚が4本と机1個が届いたので、4年生の学生さんに手伝ってもらって、の大片づけ大会。火曜日は一日かけてタイ、ラオス、ミャンマーでお世話になった方々へのサンキューレターを書いていたら終わってしまい、水曜日は入学式。昨日の木曜日は新入生ガイダンスとイベント続きで、両日とも午後はグッタリ疲れ果てながら、最低限の〆切に追われる始末。そんなこんなで、ここ1週間、まともにブログを書くまもなく、過ぎていった。こういうバタバタの時期が重なったからこそ、様々な徴候が体感されなかったのだ。いやはや。気をつけなければ。

帰国後からずっと、「権利」について考えている。前回のブログで、rights-basedということについて触れたけれど、これを「権利ベース」あるいは「人権ベース」と置き換えた時、どうしてこんなに違和感が自分の中でわき上がるのだろう。あるいは、アドボカシーを「権利擁護」と訳した時の不全感は何なのだろう・・・。ここのところ、ずっとそういうことを考えている。本来なら、障害者はもちろん、市民全般に「権利」概念は大切なはずだ。特に、日本のような国では、こういう「権利」のawarenessはすごく大切だと思う。でも、一方で、「権利」や「人権」ということは、手あかが付きすぎた言葉のようで、日常用語として使いにくいような気もしている。両方とも明治に輸入された言葉なのだが、今だに輸入時の摩擦、というか、日本的文脈に即した転移が出来ていないような気がしている。

来週から授業も始まり、いよいよ研究モードから教育モードへの頭の切り替えが求められる時期になってきた。でも、3月後半の旅を通じて得られた「研究の芽」は、常に頭の片隅で「培養」しながら、文献をコツコツ読みながら、気づきから新芽が息吹くように、少しずつ考えていきたい。でもその際、こういうバランス感覚を失っていては、根付かせるところか、返って既存の何かも枯らせてしまうかもしれない。だから、なおのこと、バランス感覚と体内センサーを大切にせねば、そんなことを簡易取り調べ室で書類に捺印しながら、考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。