精神医療の「機能的合理化」

 

「機能集団は、基礎集団がかつて受け持っていた諸機能をつぎつぎに奪いとり、基礎集団の衰退と入れ替わって、発展してきた。基礎集団が機能縮小と構造的分解に向かってきたのは、機能集団のこのような発展によって、その存在意義が消滅してきたからである。したがって当然、家族機能集団は、機能的必要があってつくられたものであるから、目的の達成のために合理的であることが求められ、、そうでないものは淘汰されて消滅していく。すなわち、機能集団の変動の方向性は、機能的合理化である。分業化とヒエラルヒー化のすすんだ機能集団は、組織と呼ばれる。企業と官庁は、組織を代表している。」(富永健一「社会学講義」中公新書、p33)

家族・親族・氏族といった基礎集団と、機能集団の関係を論じたこの文章を読んでいて、ふと頭をよぎった。「そういえば、精神病院って機能集団だよなぁ。」と。

病気の発生過程で、精神障害の方々の少なからぬ数が、家族とのいざこざを経験している。また、いったん「精神病」とラベリングされた後は、家族・親族の恥になるから、と厄介払いされるケースも少なくない。つまり、「基礎集団が機能縮小」するのではなく、基礎集団から構造的排除を受けた人々の「社会的受け皿」として、精神病院は歴史的に機能してきた。そこでは、基礎集団の機能を引き継ぐために、「基礎集団がかつて受け持っていた諸機能」を引き継ぐことも要請された。院長を家父長になぞらえ、看護師を母親役、そして入居者同士が「兄弟」という形での病院・病棟運営がなされる所も少なくなかった。今でも、医師や看護スタッフの中で、このような気持ちを持っている人々も少なくない。そこで、「父親」が語源の「パターナリズム」が支配するのも、歴史的文脈に基づけば、ある種の必然性を帯びたことであった。

だが、「家族機能集団は、機能的必要があってつくられたものであるから、目的の達成のために合理的であることが求められ、、そうでないものは淘汰されて消滅していく」ものである。そこで、精神病院の「目的」に目を転じると、1960年代から70年代までの「目的」には「終の棲家」という部分が、大きな割合を占めていたはずだ。だが、80年代以後、患者・障害者の権利が大切にされるようになり、「完全参加と平等」が障害者政策でも謳われるようになる90年代以後、精神病院が「終の棲家」という発想は、どんどん後退していく。今年の医療制度改革で療養病床が介護施設への転換を迫られたことが象徴しているように、「病院」という形態で、「社会的入院」(=終の棲家)機能を担うことは、「淘汰され消滅していく」段階へと差し掛かってきたのだ。

すると、精神病院という「機能」に今何が求められているのか、が大きな争点になる。90年代後半から、精神医療の世界で「機能分化」の議論が盛んにされてきたのも、これまで精神病院に託されてきた多すぎる「機能」のなかで、「機能的必要」があるものと薄いもの、ないもの、あるいは時代的に要請されない「機能」を整理し、統廃合しよう、という動きである。

「機能集団の変動の方向性は、機能的合理化である」ならば、精神病院はあまりに「機能的合理化」の対極にあった。社会の要請、政府の無策、家族や市民の無理解・・・などの結果、社会から阻害されてきた精神障害者にとって、かつて精神病院は、治療共同体であり、リハビリの場であり、アジールであり、終の棲家であり、全てだった。だが、福祉施策がちょぼちょぼとはいえ、ようやく精神障害者の分野でも予算がつき始めて20年近く。そろそろ、グループホームや作業所、生活支援センターなど、地域で、精神病院が担っていた機能を、より「目的合理的」に果たす場所ができはじめている。そういう意味では、そろそろ精神病院にも「機能的合理化」が本気で求められる局面に入っている、と言えるのではないか。

ところで、ここまで使ってきた「精神病院」という用語は、政府の公式用語としても、「精神科病院」と変わることがきまった。ニュースでは次のように報じている。

「精神病院という名称は、治療施設ではなく収容施設のイメージが強く患者の自発的な受診を妨げており、実際にも病院や関係団体が神経科病院を使用しているなどとして、自民党の西島英利参院議員を中心に立法作業を進めた。」

精神科病院と名前を改めるなら、その内容を「収容施設」ではなく、「治療施設」と改める必要がある。その際大切なのは、今の精神病院が「治療施設」として担うべき以上の「機能」を持ち続けてはいないか、という検討だ。「機能的合理化」の進んでいない精神科病院では、「収容施設のイメージ」は払拭しきれない。今度の自立支援法の中では、精神病院の病棟を福祉施設に転換した「退院支援施設」という構想が出ているが、これに私が基本的に与しないのも、この「機能的合理化」の観点からだ。ちょっと改装して、看板を付け替えたところで、精神病院内部に「収容施設」が残っていれば、それはいつまで経っても、精神病院の「イメージ」を引きずったままである。本気で治療施設として「機能合理化」したいのであれば、「収容施設」的側面を、自分たちで守り続けるのではなく、都道府県や市町村や福祉側に託す、という英断をこそ、考えるべきだ。

「私たちはそう主張してきたけれど、自治体は全然動かない」「反対運動がある」という反論も聞こえてきそうだが、だからといって自分たちで「機能」を温存していたら、いつまでたっても機能分化は進まない。もっといえば、これまで病院経営者に「治療」だけでなく、福祉や住宅政策までも押しつけてきた行政こそ、襟を正さなければならない。自立支援法では、「居住サポート事業」などの、保証人のない人の住宅支援政策も市町村が出来ることになっている。また、公営住宅の障害者優先枠も、全国で増えている。そして、精神病院の中でも、お隣の長野県では、病床削減の過程で一気に88人を「操作的退院」させた病院すらある。

精神科病院は、今後もっと「治療」における専門性と質を高めてほしい。出来るなら、ACTのような形で、地域でのサテライト診療や訪問看護、などを充実させて「入院の最小化」の実践を日本でも展開してほしい。そのためにも、慢性期で、精神病院を「終の棲家」として利用している患者さんを、行政とも連携して、地域に住まいの場所を確保して、意図的・操作的に退院させていく、そういう「機能合理化」が「精神科病院」に求められているのではないか。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。