ある意味”まっとう”すぎる、”恐ろしい”本

 

いやはや、恐ろしい本を読んでしまった。

「支配的なグループに属する人びとが、従属的なグループの人びとの家庭への立ち入りを許され、プライベートないとなみを観察し、自分たちが見たことを記録し、そして、自分たちの観察を他のミドルクラスの援助者のネットワークと共有した。これまでに見てきた事例と同じく、お定まりの主体/客体の二分法が成立し、ソーシャルワーカーはまったくそれに安んじることができる。支配的なグループのメンバーは能動的であり、従属的なグループのメンバーは受動的である。一方が見、他方は見られる。一方が書き、他方は叙述の対象になる。一方が知識と指示を調達し、他方は感謝しながら知識を吸収し、指示に従う。」(レスリー・マーゴリン著「ソーシャルワークの社会的構築-優しさの名のもとに」明石書店p398)

何が恐ろしいって、マーゴリン氏の言っていることは、残念ながら!?的はずれではない。というか、ソーシャルワーカーが「優しさの名のもとに」行ってきた、権力支配の問題を、実に赤裸々にしてくれているのである。

ソーシャルワーカーの問題を追いかけながら、不勉強にもこの本は「積ん読」状態だったのだが、今週少し余裕が出来てやっと読み始め、一気に読んでしまった。そして、最近読んだ本で一番赤線を引き、一番ドッグイヤーのページが多くなってしまった。自身も17年間ソーシャルワーカーをしていた著者が、リッチモンドの時代から現代までの山ほどの文献を系譜学的に分析し、技法やスタンスの変化の背後に、ずっと変わらないソーシャルワーカーの自己正当化と、クライエントを「誘惑しながら同時に拷問しなければならない」という「二つの矛盾する命令に同時に従わなければならない」(同上p407)という固有の問題性をあぶり出しているのである。「ソーシャルワーカーもまた犠牲者である」(同上p407)という視点を持ちながらも、これでもか、と年代を超えたソーシャルワーカーの根本的問題を次々と突きつけてくる著者の文体は、読み進めるうちに恐ろしいほどの迫力である。いくつか、キメぜりふをご紹介しよう。

「ソーシャルワーカーの陶酔によって、平等ではなく権力が作動しているという事実が覆い隠されている」(同上p384)

筆者はこの本の中で、「困っている人を助けたい」というワーカーの気持ちを否定しているのではない。そうではなくて、そのような気持ちを持って働いているワーカーの「陶酔」が、即「平等」へと繋がっていない現実をしめしている。実際には、対等な友人として付き合うのではなく、当事者からは、措置権限やサービス支給決定権、退院支援の権限・・・を持つ「権力」者としてワーカーが映っている、という「権力」の「作動」の「事実が覆い隠されている」という問題を指摘している。善意で行っていることも、こちらとしては平等で対等に接しているつもりでも、被援助者からは構造的に「権力者」と映っている、というリアリティをあぶり出しているのである。さらには、こんな言及もしている。

「貧しい人の否定的な特色について積極的なソーシャルワークの言説は、既存の社会秩序を正当化した。そして、それは、ある人たちをクライエントにし、別の人たちをその審判者にすることに貢献している社会的な資源と機会の不平等な分配から注意を逸らすことを通じて達成されたのである。」(同上p239)

ソーシャルワーカーが社会問題の「解決」のために積極的に支援していると本人も信じて疑わないとしても、実は自らが行うその手法やアプローチが、「既存の社会秩序を正当化」し、その秩序の序列の内部に「クライエント」と「審判者」を序列化することに、図らずも貢献してしまっている。つまり、「社会的な資源と機会の不平等な分配」という社会問題から「注意を逸ら」して、問題をクライエント個人の問題に内面化、矮小化している、という点に、権力側に構造的に立ちうるソーシャルワーカーの根本的問題が潜んでいる、とマーゴリン氏は指摘するのである。この重大な指摘を書き写しながら、私はあるフレーズを思い出していた。

「日本では、『お伺いをたてる』という卑屈な役割関係を踏まなければ生きていきにくい医療との関係を呪う人もいれば、逆にその支配力に依存し保護される事を求め続ける人もいる」(山本深雪「『心の病』とノーマライゼーション」ノーマライゼーション研究1993年年報, p103

精神医療のユーザー側から、その構造的問題を指摘し続ける山本氏のこの発言は、ソーシャルワーカーとの間だって同じである。まさに、相手が権力を持つが故に、「卑屈な役割関係を踏まなければ生きていきにくい」のである。いくら医師やワーカー個人が善人であっても、「お伺いをたてる」という構造的非対称の下側から眺めた時、そこには「卑屈な役割関係」という権力関係があるのである。先ほどの話しを繰り返すと、この構造的非対称性という社会問題から「注意を逸ら」して、問題をクライエント個人の問題に内面化することは、まさに「社会秩序」の強化につながるのである。援助者が被援助者と「友人」、ないし「平等」であろうとするならば、既存の構造化された社会秩序が抱える「社会的な資源と機会の不平等な分配」こそ前景化して、自らの「権力」も含めて再吟味しなければならないのだ。

支援者の権力支配の問題は、そういう意味では大変恐ろしい。この権力問題に無自覚でかつ当事者に権力的支配を及ぼしているワーカーも確かにいる。一方、この問題に自覚的で、「自分が抱え込んだ矛盾を首尾よく永続的に抑圧する能力がない」(同上p407)がゆえに「バーンアウト」するワーカーもいる。さらには、この二つのアプローチを取らず、権力に対して自覚的になりながら、「社会的な資源と機会の不平等な分配」を前景化し、地域でのオルタナティブと新たな社会資源の構築を実体的に作り上げているワーカーもいる。僕も京都で117人のワーカーにインタビュー調査をしていて、この三者が年齢や性別、経験年数を超えて混在していることを実感している。今、考えはじめている支援者論を突き詰める際も、この権力支配の問題は、中心点に据えなければならない、そう感じている。

ちなみに、このマーゴリン氏の邦訳のタイトルにもなっている「社会的構築」に関連して、訳者の一人で日本における社会構築主義の第一人者でもある中河伸俊氏の作品に関する書評論文に、興味深い一文があったので、最後にこれも引用しておこう。

「『正義と悪の二分法』による道徳的な研究・評論・報道を感情的に後押しし自己正当化しているものこそ「社会問題は解決しなければならない」というエートスである。この自明性に覆われた感情的前提が、研究する者の自己言及性を低くし、言説の社会学的洗練度を低めていると考えられそうだ。これをいったんペンディングして、別の『社会問題の言語ゲーム』に参加すること。構築主義の共通主張はこのあたりにあるようだ。」(野村一夫著「紹介と書評 中河伸俊『社会問題の社会学――構築主義アプローチの新展開』」大原社会問題研究所雑誌第497号)

「正義と悪の二分法」とは、ここでも何度も書いている“I am right, you are wrong.”の二分法だ。その二分法について、「この自明性に覆われた感情的前提が、研究する者の自己言及性を低くし、言説の社会学的洗練度を低めている」と野村氏は指摘している。構築主義は「これをいったんペンディングして、別の『社会問題の言語ゲーム』に参加すること」という「共通主張」を持つ。「感情的前提」によって「自己言及制」や「言説の社会学的洗練度」が低下することは、指摘したい問題点を前景化するどころか、逆に肯定する論理にすり代わりかねない。マーゴリン氏も、ソーシャルワークに内在する、またバーンアウトが起こりうる矛盾をあぶり出したいからこそ、ソーシャルワークは善意に基づく、という「自明性に覆われた感情的前提」を「ペンディング」にして、議論を構築し直したのだ。こういう仕事に、見習うべき点は大変多いと感じた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。