しゃべり続けて8時間

 

昨晩、家に帰ってみたら、喉がガンガンに腫れていた。そして今日は一日寝てすごしていた。

昨日は山梨の作業療法士の皆さんへの講演会だったのだが、始まる前から、何だか少し喉の調子が変だった。龍角散のど飴をなめながら、これ以上ひどくならないように、と思いながら現場入り。本来一番喉を保護するためには、しゃべらないのが一番だが、講演者がしゃべらず帰るわけにもいかない。しかも、講演会が始まると、多くの皆さんがすごく真剣な眼差しで聞いてくださっている。こういう本気の眼差しに出会うと、俄然ボルテージが上がるのがタケバタの悪い癖。気がついたら超早口で、予定時間を20分オーバーしてしゃべりまくっていた。

で、この時点でも相当喉に違和感があったのだが、さらに追い打ちだったのが、懇親会。何故って、この懇親会がすごくオモロかったのである。最初はおきまりの真ん中に座らされて照れていたのだが、「懇親会などの席で積極的に色んな人とつながり、視野や世界を拡げることが大切」と講演中に焚きつけたら、「先生のおかげで飲み会に飛び入り参加の人も出てきました」とのこと。こりゃあ、火をつけてしまった手前、中途半端では済まされない。こうなったら、トコトン色んな人の話を聞いてみよう、と、喉の事は頭の隅に追いやって、議論モードに切り替える。「OTっていったい何?」「ソーシャルワーカーと何が違うの?」「専門性ってなんなの?」「仕事をされていて困っている点は?」などと、勝手に懇親会を座談会的場に変えてしまい、若手のOTの皆さんにどんどんぶつけていく。講演の際、OTの仕事って楽しいですか、と聞いたら、ほぼ全員が手を上げてくださっていただけあって、その仕事にかける皆さんの想いや情熱は大きい。出てくる話に頷きながら、僕も色々勉強になった。

その際、元気な関西人OTが僕に議論をふっかけてくる。「じゃあ、タケバタさんからみて、OTとソーシャルワーカーの違いは何?」 聞かれてみて、ふと口をついて出たのは、次の通り。「ソーシャルワーカーが人と人、人と機関などを『つなぐ』人だとすると、OTって、様々な可能性を『ひきだす』人なんじゃないのかな」 職場は違えど、皆さんこの「引き出す」ことに誇りをもって、対象者にも接しておられる。ただ、日々の業務の忙しさもあって、患者さんの「引き出す」ことに必死になっても、自身の「引き出し」を拡げる機会が限定されている、ということも、今回皆さんとお話ししていて、よくわかった。また、それはOTの皆さん自身が実感していて、引き出しを拡げるチャンスがほしい、と願っておられることもよくわかった。そういう中で、おせっかいタケバタは、あれやこれやと、助言のような言いたい放題をいっていた。だが、志ある方々の集まりでは、私の暴言も暖かく受け止めて頂いたようで、5時半から10時くらいまで、4時間半、ノンストップでしゃべり続けた。僕自身、いろんなエネルギーを頂けたような気がしている。

で、これから遠くのご実家まで帰省されるWさんに我が家まで送って頂いて、帰ってきたのが10時半過ぎ。気がつけば、喉はがらがらで、メチャクチャ痛い。とにかく何もする気力もなく、テレビをぼんやり見ていたら、NHK教育の土曜フォーラムに釘付けに。飯田市と青森市での中心部活性化の為の取り組みを取り上げたこの番組、実際にその地域を動かしている中心人物の語りを聞きながら、街とトコトン付き合う、という姿勢がすごく面白かった。ちなみに「現場とトコトン付き合う」というのは、「現場主義の知的生産法」「現場主義の人材育成法」(ともにちくま新書)などを書いている一橋大学の関満博氏の名言。僕も山梨に来て一年半が立ち、色んな現場で「お顔が見える関係」が少しずつ出てきた。その中で、昨日のOTの皆さんだけでなく、志ある現場の皆さんに、結構出会い始めている。その中で、どんな形で僕自身が「トコトン付き合」えるのだろうか、そんなことを考えながら、ガラガラ喉で、その日の飲み会を思い出しながら、テレビを眺めていたのであった。

様々な「途上」

 

昨日買ったノートパソコンで初投稿してみている。

ようやくここまでこぎ着けたが、昨日からネットワーク関連の接続で右往左往し、今朝はコールセンターのお世話になった。ひとつひとつの問題を丹念に尋ね、目の前にはないはずの問題を、ユーザーとのやりとりの中から見事に紐解いていくコールセンターのプロはすごい。言葉はばか丁寧だが要領を得ない担当者もいる一方、今日対応してくれたバッファローの担当者は、クールかつ適切に紐解いてくれ、40分くらいかかったが、こんがらがった糸をほどいてみせ、無事に問題を解決してくださった。ありがたい限り。

このコールセンター担当者の力量如何で変わる、というのは、ソーシャルワーカーだって同じことがいえる。このワーカーの「力量」問題は、性格問題であり簡単に変えられない問題なのか、あるいは現任者教育に基づいてある程度可変的(スキルアップ可能)なものなのか、は議論の分かれるところなのだが、僕自身は後者に期待をかけ、今年から始まった科研調査もこのテーマで追いかけるつもりでいる。ただこの問題はまだ勉強不足なので、もう少しストックができたら、少しここでも考察したい。

さて、勉強不足、といえば、大先輩のとみたさんから、前回のブログにコメントをいただいた。とみたさんの含蓄深いコメントは直接お読み頂くとして、ひとことでいえば、「bataくん,勉強不足ですね」という先輩のご指摘は、本当にありがたい限り。その昔、母親に小言を言われるたびに、「うるさいなぁ」と反論していた僕に、ある日母が次のように語ったことを思い出す。「ひろし、大人になったらこうやって叱ってくれる人はいなくなるのだから、叱ってもらえるうちが花や、と思ってありがたく受け取らないと」。これはまさにその通りで、大人になると、しかも大学の教員なんていう「肩書き」がついてしまうと、なかなか指摘やコメントを受ける機会が減ってしまう。このスルメブログのコメントも、最近はバイアグラだのドラッグだのの海外からの攻撃コメントばかりで、いつも駆除に追われて、もうコメント欄を閉鎖しようかな、と思いかけていたので、先輩からのコメントはひたすらうれしい。しかもその内容が、僕の勉強不足を、叱るわけではなく、やんわりと諭してくださるのだから、なんともありがたい限りだ。11日からの海外出張の際にも、先輩に指摘された問題に関連して、何冊か鞄に入れていこう、と思う。

そう、あと10日で出張なのである。
8月の末になって、思い出したが、すっかり迫っている。
今回は先に書いた科研の調査で、オランダとスウェーデンの知的障害当事者のセルフ・アドボカシーグループに取材に出かけてくる。スウェーデンでは二年前にお世話になったグルンデン(このことは一部まとめている)という当事者会に、オランダではLFBという当事者会にお世話になる。どちらも昨年日本に来られ、セルフ・アドボカシーについて大変示唆に富む話をされていた。今、この二つのグループが中心になって、コーチングのアイデアを用いながら、当事者や支援者の価値の変容や新しい支援のあり方についての実践が積み重ねられている。支援者の価値の変容につながる現任者教育が今回の研究の柱なので、是非ともその考えをじっくり学びたい、と思い、オランダとスウェーデンに一週間づつ、滞在する予定。先に先輩に指摘された問題も、このセルフ・アドボカシーの問題も、まさに勉強の途上、であるので、何とか必死になってくらいつきたいな、というのが、情けないけど実態である。

で、勉強の途上、といえば、今日は山梨の作業療法士の皆さんの前で、これから講演することになっている。タイトルは「誰のための、何の『自立』?」という恐ろしいテーマ。これも勉強の途上なのだけれど、じっくりしつこく追いかけていきたいテーマなので、敢えてこのテーマで少しお話しさせて頂くことにした。その関連で、これも勉強の途上である作業療法関連の文献を読み返す。その中で、来週からの出張にも関連する、とある文章に出会う。

「スウェーデン独特の平等精神はあらゆるところに浸透している。平等への考え方や、社会システムが根本的に違うのだ。男女の性別差別がない平等ということだけではなく、誰にも依存しないで、すべての人が自立した上での平等なのである。それは、幼いころからの家庭教育、母親も父親も共働きで、家庭内のことは共同で行っていくという歴史的な環境が作り上げたものだろう。
 手の空いている者が掃除をし、料理をし、子どもに本を読んで寝かしつける。学校では、家庭科や木工技術も男女の差別がなく、みんなが裁縫をし、料理をし、大工仕事をしている。ささいなことまでその意識が浸透しているスウェーデンでは、互いに貸し借りのない、依存しない自立を基本として、互いの位置を同等化しているといえる。だからこそ、議論する場合も上から下へと一方的な縦の関係ではなく、相互信頼の下に白熱した議論が繰り広げられる。それをもっとも象徴するのが、互いの名前を呼ぶときに、スウェーデンでは子どもから老人までファミリーネームでなくファーストネームを呼び合うことだろう。まだ若い女医のカーリンも、脳神経外科の偉い医者も、みんなファーストネームで呼ばれて親しまれている。」
(河本佳子著「スウェーデンの作業療法士」新評論、75-76

スウェーデン在住の著者が日本で講演会をする、と聞き、樟葉のある病院の会議室(ローカルだなぁ)まで足を運んだのは、確か4年ほど前の院生時代のこと。スウェーデンで暮らした際は読むことがなかったのだが、今こうして講演前の「にわか勉強」で読み直して、目から鱗、の箇所がなんと多いことか。実際に現地に住んでみて感じた、でも日本語で表現しにくい、しかし根本的な価値観の違いのようなものを、スウェーデンに住んで長い著者がスパッと書いている。長く引用したのは、その部分をお伝えしたくって、長めの引用だったのだ。

先生と呼ばないでファーストネームで呼び合う関係、その背景にある、「互いに貸し借りのない、依存しない自立を基本として、互いの位置を同等化している」という「スウェーデン独特の平等精神」。これは支援という局面でも根深い差異を、日本とスウェーデンの間に与えているような気がしてならない。両国間で福祉はどっちが上、とかいう議論でない。ノーマライゼーションにしても、セルフ・アドボカシーにしても、作業療法にしても、その概念の背景に、この「同等化」や「平等精神」があって、そこから組み立てられたツールとして用いられるような気がしてならない。つまり、これらの考えは、モデルではなく、その背景にある哲学や人間観とセットになっているような気がしている。その一方、日本でノーマライゼーションやアドボカシーなどを語る際、肝心な人間観や哲学とは切り離された、ツールである技法として輸入されているような気がしてならない。それゆえに、日本の文化なり社会と切り離されたところで、これらのツールが「浮いている」ような気がしているのだ。

だからといって、スウェーデンの人間観や価値観万歳、といっているのではない。河本さんの指摘を借りれば、日本では「互いに貸し借り」をするなかで、「依存」しあう「自立を基本として、互いの位置を」差別化しているのかもしれない。でもそれが果たして悪いのか、といわれると、わからない。以前にも書いたが、日本では下からのノーマライゼーションというのが、現場で息づいている。それを支えているのが、「おたがいさん」という依存関係、のような気もしている。それは、山梨に暮らし始めて、すごく感じている。これを全否定するのではなく、日本らしさとして前提にしながら、一方で今なお起きている障害者への権利剥奪の現状と対抗する哲学なり人間観なり、それに基づいた政策をどう練り上げていけばいいのか。今度の国連総会で批准される予定の障害者権利条約にそって、国内法レベルの改正が議論される際、日本人になじみにくい「権利」だったり「差別禁止」という法理論をどう組み立てていくべきか。法学部に所属しながらその辺の勉強も「途上」だったりするタケバタにとって、まさに課題は山積である。ただ、今度の出張では、その辺を意識して、表面で見える動きの背後まで追いかけられたら、と思っている。

と書いていたら、あらもう12時。13時半には現地入りしなければならないので、今日も「途上」で終わってしまった。