味のある虚脱感

 

スキポール空港近くのホテルで、軽い虚脱感のようなものにおそわれている。

とにかく、激しい5日間だった。
前回も書いたように、オランダに到着した月曜日の夕方から、刺激的な現地での活動が始まった。今回は、何かをシステマチックに学ぶ、ということを、知的障害者の当事者活動(セルフ・アドボカシー)を支援する人々の取り組みを出来る限り追いかけながら、その背景にあるアイデアや哲学のようなものを感じ取りたい、と願っていたので、徹底的に皆さんの活動に加わっていった。

僕がごやっかいになったLFBという当事者活動グループは、明日からスウェーデンでお世話になるグルンデン同様、当事者活動グループとしては大きな力を持つグループである。彼ら彼女らの活動を、単純に横文字から縦文字に翻訳したり、輸入したりしようと思っても、どだい無理な話。それより、なぜ、どのように、どんな背景で、そういう活動を続けているのか、ということを、心から感じてみたい、と思っていた。そして、この5日間で繰り返し彼らと話し合ったのが、「プロセス」について、であった。

LFBの皆さんは、システムや組織、結果、という言葉を嫌う。そしてそれよりも「プロセス(=過程)」というものを大変大事にする。その背景について、いろんな人に尋ねてみたら、LFBの関係者の一致した意見は、システムや組織を重視していたら、結局のところ本質が見えなくなる、との答えが返ってきた。そう、それこそ、僕が何となくこの間感じていた疑問と一致する。これは、日本でも全く同じだからだ。

僕は2003年秋から2004年春までスウェーデンのイエテボリに暮らしていた。今回3年ぶりにイエテボリの地を踏むのだが、現地で暮らしていた当時から、ずっとそのことは感じていた。つまり、スウェーデンのシステムなり組織なりをそのまま輸入することなんて、絶対できっこない、と。スウェーデンで色々調べて、いろんな人に話を聞いて、スウェーデンについて書かれている本もいっぱい読んでみた。スウェーデンを訪れるのも、当時で既に5回目。何度か調査に訪れ、日本にはない様々な取り組みを色々調べていた。そうやって何度も訪れる中で漠然と感じていて、半年住んでみて確信に変わりつつあったこと、それが、先にも書いた「単なる輸入はまったく意味をなさない」ということであった。

スウェーデンやデンマークなど、北欧の取り組みで、いいなぁ、と思うものはいっぱいあった。日本が参考に出来そうだなぁ、という取り組み、こうなったらいいなか、というシステム、いっぱいあった。その昔は、それを何とか紹介しよう、と微力ながら一生懸命になった時期もあった。しかし、日本で北欧の話をして、必ず返ってくるのは、「でも北欧は税金が高いでしょ」「北欧は北欧だから」「日本のシステムではそれは無理・・・」といったネガティブな意見。なぜ、いい取り組みをそのまま実現しなくても、そこから学んだり、という発想にならないのだろう、と不思議に感じていた。その中で、少しずつ気づき始めたのが、先述の「単なる輸入はまったく意味をなさない」という事実。そこから、システムや組織を単に「輸入」するのではなく、そのシステムや組織、結果がどのような「プロセス(=過程)」を経て、今のような形になったのか、について明らかにしていくなかで、日本でも使えるヒントが見つかるのでは、と思うようになってきたのだ。

これはスウェーデン帰国後、予感から確信に変わっていった。2004年秋からの自立支援法を巡る大騒動。この間、この問題について最初からずっと追いかけていく中で、出された資料なり制度案なり法律なり、というアウトプットやシステムを読んでいても、何も見えてこない、と思いはじめた。本格始動するまで1ヶ月をきった現在でも、退院支援施設の問題や重度包括支援の問題に限らず、自立支援法には先が読めない不透明な部分が多い。出されてくる資料も、そのたびに色々変わっていく。毎月のように出される何百枚の資料を、単に追いかけていたって、何だか徒労感ばかりで、そこから展望なりヴィジョンは見えてこない。こうやって資料を「結果」として後追いしていても、厚労省自身が右往左往している中で、さっぱり物事はクリアにならない。自立支援法オタクになったところで、それは実にむなしい限りだ。では、それに変わって何が必要なのだろう・・・そんな思いの中で、現状がむなしいのなら、それ以外のものを探す「プロセス」こそ、大切なのではないか、と感じ始めていたのだ。

日本を出る直前まで、そしてオランダにいる間も、そうやって現在進行形のいくつかの「プロセス」に関わり続けていた僕にとって、オランダで体感した「プロセス」は日本で取り組んできたことを改めて別の角度から整理し直すことにつながっていた。こういうプロセスがあり得るのか、とか、僕のこのプロセスのあそこの部分はよくなかった、とか。5日間、全く日本的なものからスコーンと離れて、青空の下、ハードスケジュールと、時にはお昼の、時には夜までカフェでビール片手にLFBの皆さんと議論を続けながら、笑いながら、少しずつその過程を楽しむ中で、雪だるまのように、徐々に自分の直感が思いや意見のようなものに変わり続けてきた。それを、現地でぶつけながら、ちょっとずつその雪だるまを大きくしていく中で、5日間、みっちりオランダでのプロセスを感じ取っていったのである。それが、支援者のロールにアムステルダムの空港近くのホテルに送ってもらう車の中でも続き、その中ですごく大切な話も展開され、雪だるまが十分に大きくなったところで、「じゃあね」とハグをして、お別れしたのである。なので、虚脱感も一塩、なのだ。

でも、この虚脱感は、決して悪いものではない。むしろ、充実感のある虚脱感、とでも言おうか。出張中は出来る限り日本の現状から自由になっていたい、と思っているが、日本からはどんどんこの間の退院支援施設についての取り組みの報告など、いろんな結果が送られてくる。その結果をちゃんとふまえながら、も、僕はやはり、そうではない可能性に向けて、プロセスをとぼとぼ踏み続けたい、と感じている。今晩は、ホテル近くで久々にジャンクフードかチャイニーズでも食べ、適度に喉も潤し、じっくり風呂にもつかって、明日からの英気を養おう。そして、明日から始まるスウェーデンのプロセスを楽しもう、と思っている。どうころんだって、24日からは、日本で様々なプロセスに何らかの形で関わるのだ。今は、少し、この虚脱感、というか、様々なものから自由になっているこの状態を楽しんでみたい。そう感じているオランダの夕べであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。