正円から楕円へ

 

まる12時間近くかけて、実家に何とかたどり着く。

そして今日、年の瀬の31日。じっくり寝たので、まだ少しだけ体の疲れが残っているようだが、おおむね復帰してきたようだ。掘り炬燵にみかん、それから昼のビールまでついて、読書にふけるのだから、これは一種の極楽である。

で、極楽のお供には、編集工学の達人である松岡氏が帝塚山学院大学の教授時代に行った講義を編集して作った一冊。副題に「セイゴオ先生の人間文化講義」とある。年の瀬には仕事から離れて頭の中を整理する意味でも、こういう本はよい。とはいえ、今の自分に一番ピンときたフレーズは、やっぱり自分の仕事に関係している部分であった。

「日本人は素材で和風と洋風を区別したり、様式で和と洋を分けて感じることをしているということです。これを私は、素材による『コード編集』と、様式による『モード編集』があるというふうにみています。このことがさまざまな『和』というものをつくっているんですね。
(中略)
 古代から中世まではもっぱら中国とか朝鮮のコードを輸入しました。その後は南蛮文化をどんどん取り入れて、明治以降はヨーロッパ文化、最近はもっぱらアメリカの文化や技術ばかり気にするようになった。このように時代によって変化してきましたが、基本的には素材としての『コード』を輸入して、それをもとに日本なりの様式としての『モード』を生み出す独特の編集力を発揮してきたといってもいいのです。
 これを私は『外来コードを内生モードにする日本』という風に説明しています。」
(松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」春秋社 p202

「外来コードを内生モードにする」ということは、文化や技術だけに限らず、法制度にも大きく及んでいる。僕自身がスウェーデンやアメリカに出張しているのも、「素材としての『コード』を輸入して、それをもとに日本なりの様式としての『モード』を生み出す」ための「素材探し」をしているところが少なくない。そうして我が国では、これまでに様々な国の、多種多様なコードが輸入され、「独特の編集力を発揮」した上で、日本なりの「モード」として定着していった。

で、しつこくこのブログでもテーマにしていることだが、障害者の入所施設や精神病院だって、もともと日本固有のモードではなく、ヨーロッパのコロニー思想なり精神医療の思想をコードとして輸入し、日本なりのモードにしていったのだ。その後最近になって、施設解体や地域自立生活支援という欧米での新たなコードに着目した人々が、新たなモードにしようとしている。僕が海外に行っているのも、その末席の一人として、なのかもしれない。だが、ご案内の通り、旧体系のモードの持つ力はかなり大きく、そう簡単に新たなモードに移行する気配はない。その結果、諸外国とは異なり、未だに地域から隔離された障害者が何十万人と存在する、という独特のモードを作り上げてしまったのである。

で、ここから考えるのが、この新たなコードの輸入だけで事足れり、とはならない日本の実情についてである。旧来のモードには明らかに問題がある。だが、新たなモードにすんなり移ることはない。そういう時、新たなモードの語り手が、“You are wrong!”というモードで旧体系を否定してはいないか、その点が気になるのである。そうではなくて、旧体系のコードからモードに至る変遷や「独特の編集力」を綿密に分析した上で、新たなコードに基づいた「再編集」をどう説得力をもって果たせるか、そのあたりの編集力が問われているのではないか、そんなことを感じているのである。

で、その「再編集」に関連して、松岡氏の円と楕円の比較は、大変示唆に富んでいる。

「ルネサンスの世界観では宇宙はたった一つなんです。神秘主義思想の影響もあって、マクロコスモスとミクロコスモスというものがあるということは考えられていましたが、それらは神を中心にして完全に調和しているもの、秩序をもったものとして考えられていたんです。
 ところがバロックでは、そのような唯一型の宇宙観が崩れはじめ、マクロコスモスとミクロコスモスとが二つながらに対比してくるんです。かつ、二つの世界は必ずしも完全に対照しあっていない。それぞれが動的で、それぞれが焦点をもちはじめます。
 一つの宇宙(世界)というのは具体的に正円の世界です。コンパスを使えばわかるように、円は中心が一つしかない。そうですね。一方、バロックでは円ではなく楕円になる。楕円というのは焦点が二つあるわけです。」(同上、p304

コロニー思想でも、脱施設思想でも、その思想を中心にして「完全に調和しているもの」と、考えると、それは「一つの宇宙」であり、「正円」である。しかも、お互いが反目しあっていると感じている限り、両方の円が混じり合うことはない。だが、その起源を辿ると、実はどちらも支援という軸で、本当のところはつながっているのである。もちろん、専門家主導か、当事者主導か、集団管理的一括処遇か、個別支援か、という隔たりは、本当に大きな差として現れている。そして、僕自身は、もちろん後者の方がいいと思っている。

ただ、この後者の脱施設なり当事者主導なり個別支援というコードを、本当に日本の中での新たなモードに組み替える際には、これまでのモードや、それを構成するコードの分析を本当にきちんとした上で、使える部分は新たなコードと融合してモードの中に組み入れる、という楕円の思想が求められているのではないか、そんなことを感じているのである。

「私は正しい、あなたは間違っている」と言う正円の世界で閉じている限り、完結した世界観で、実に気持ちよい。でも、本当のところ、それでは動的な文化の組み替えなり、あらなた文化の創造にはままならないはずである。大切なのは、「間違っている」とされる旧モードの側の「退路」の確保であり、新たなモードと一緒にやっていける、という意味での動的な楕円的コード進行の確立ではないか。旧来のコードのおかしい部分はどこで、どういう風に組み替えていくことが、旧来のモードを信ずる人の核心に触れながら、移行を促すモードになりうるか。こういうことを、旧モードのコード分析と、新たなモードとの楕円の可能性に関する分析、という論理の構築の中から考えていく必要があるのではないか。そんなことを感じている。

年の終わりに、来年の宿題まで見つけてしまった。ということは、やっぱり来年はそろそろ本気で勉強しないとまずい時期なのか。いやはや、とんでもないことに気づいてしまった。さてはて、今から温泉につかって、一年の垢を落としつつ、来年のお勉強戦略でも考えてみるとしますか。

ではみなさん、よいお年を。

明日から帰省

 

というスケジュールなので、強制的に今日が煤払い最終日。

昨日は車と研究室とお風呂場で力尽きたので、今日はあらかた残っている。しかもパートナーは今日まで仕事なので、朝から根を詰めて頑張ってみた。台所と格闘すること4時間弱。まあよくもこんなに汚れているのですね。とういか、普段ゆっくり掃除する間が無いので、年に一度はちゃんと徹底的に磨かねば。あんまり根を詰めすぎたので、少し頭が痛くなったが、昼食を挟んで窓ふきと床ぶき、冷蔵庫磨きも終わった段階で打ち止め。身も心も、ほどよい疲れである。

冷蔵庫のあり合わせをニンニク醤油と生姜で炒めて、エネルギー充電も完了。で、その後年賀状との格闘も終え、今年の業務はほぼ終了。明日は朝3時起き、で長距離ドライブ。ネットを見ていると、関ヶ原付近の雪が心配だが、こればっかりは現地に近づかないとわからない。なので、とにかく寝て、起きてから考えよう。

プラットフォーム作り

 

昨日からすす払いな日々がスタート。まずは研究室からはじめる。
学生さんにアルバイトに来てもらって、とっとこ資料を整理・廃棄していく。とにかく紙だらけ。ゼミ生も「ほこりっぽい」という事で、窓を開けながらのお掃除。今日はまるで春のような陽気だったので、窓を開けていても、気持ちがいい暖かさ。机にうずたかく積まれている書類をサクサク「収納」「整理」「廃棄」の3種類に分け、処理していく。貴重な資料も、読まれなければただのゴミ。なので、とにかく即決で整理を進めていく。結果4時間ほどで、テーブルや机の上にぐっちゃに積まれていた資料のほとんどを整理する。後は、今日の午後、4年生を集めてゼミをした後、掃除機をかけて拭き掃除をしたら、研究室のお掃除はオシマイ。今朝からは、家のすす払いもはじめた。午前中はお風呂と格闘。

授業は先週で終わっていたのだが、月火と大阪出張だったので、すす払いがままならなかった。その代わり、ではないが、新大阪駅の本屋に立ち寄り、おもろそうな本をいくつか仕入れる。移動中に本を6,7冊買うと、結構荷物が重くて大変なのだが、やはり立ち読みして中身を選ぶので、アマゾンでは出会えないおもろい本が多い。

移動中に真っ先に読み終えたのが、「人はなぜ太るのか-肥満を科学する」(岡田正彦著、岩波新書)。疫学的データに基づき、実にまっとうな議論をしてくださるので、大変わかりやすく、説得力がある。肥満と死亡率の相関を示すデータからは、BMI24程度がいいらしい。現在170センチで80キロから82キロのあたりをうろつくタケバタのBMIは28。170センチでBMI24だと70キロなので、10キロ(1割強)の減量が求められている。健康診断の結果も良くないし、これは本気で絞らねば。昨日は大学のすす払いで忙しく、ジムに行けなかったのだが、今日明日と「ジム納め」もして、こつこつ動いておこう。

で、大阪から帰りの「しなの」車中で読んでいたのが、出れば即買いする著者の一人である池田晶子氏の最新作。毎日中学生新聞に連載していた(廃刊になった、とは知らなかった!)、ご本人曰く「柔らかく、読みやすい」エッセーだが、中身の鋭さは、いつも通りである。

「自分が正しいと思っていることを、正しくないと他人に言われて腹が立つのは、それが、ただ自分で正しいと思っているだけのことだからだ。ただ自分で正しいと思っているだけで、本当に正しいことではないからだ。もしそれが本当に正しいことだとしたら、正しくないと言われて、どうして腹が立つのだろう。だって、それが本当に正しいことなら、他人にどう言われてもそれは正しいはずだからだ。だから、本当に正しいことと自分の感情とは、関係ないということだ。」(池田晶子「14歳の君へ」毎日新聞社p49)

相変わらず、簡単な日本語で、深遠な内容をズバッと書く池田さんである。いや、彼女の言い方でするならば、池田某という媒体を通じて出てくる「正しい言葉」である。「本当に正しいこと」と、「自分が正しいと思っていること」との違いを、見事に指し示している。このブログで何度も書いているが、他責的文法で“You are wrong!”と書いたり言ったりする裏側には、必ず“I am right.”という暗示がある。そして、他責的な言明をするとき、その大半が、「ただ自分で正しいと思っているだけで、本当に正しいことではない」場合が多い。だから、声高に相手の非をののしって、腹を立てるのである。「他人にどう言われてもそれは正しい」わけではないから、つまりは無意識に自分の言説の正しさの根拠がないことを知っているから、かんに障る、のである。そこから、池田某を通じて出てくる「正しい言葉」は次のようにも続ける。

「自分が思っているだけのものを『意見』と呼ぶとすると、君が持たなければならないのは『意見』ではなくて『考え』だ。『自分が思っているだけの自分の意見』ではなくて、『誰にとっても正しい本当の考え』だ。『考え』は、ただ自分が思っていることとは違う。自分が思っていることは本当に正しいか、誰にとっても正しいか、これを自分で考えてゆく、このことによってしか知られない。『思う』ことと『考える』ことは、全然違うことなんだ。君は、ただ自分が思っているだけのことを意見として言う前に、それが誰にとっても正しいかを、必ず考えなければならないんだ。」(同上、p49-50)

こう言われて、はたと気づく。僕が話すこと、書くことは、「意見」と「考え」のどちらが多いだろう。残念ながら、これまでは明らかに「意見」の方が多かった。論文などを書いていても、『誰にとっても正しい本当の考え』を論証し続けているつもりで、でもよくよく考えてみたら、『自分が思っているだけの自分の意見』しか書けていない場合が多かったのではないか。

たとえば入所施設や精神病院に対する「脱施設」論。僕自身は、入所施設の構造的問題について、論文でもたびたび取り上げ、書いてきた。それがどう構造的に問題か、について、論証し、「考え」たつもりだった。でもその一方で、未だに入所施設や精神病院は無くなる気配はない。欧米では脱施設が進んだ、と言っても、日本では施設を残す政策は、自立支援法になっても温存されている。こんなに入所施設型一括管理処遇は問題だ、と言っても、全然政策にまで届かない。入所施設や精神病院の改革につながらない。なんでだろう、と思っていたが、池田さんの言葉を借りるなら、僕の論調は、『誰にとっても正しい本当の考え』を論証し続けているつもりで、でもよくよく考えてみたら、『自分が思っているだけの自分の意見』しかかけていない場合そのものだったような気がするのだ。

この点に関しては、最近お気に入りの方法論についての一冊でも、同じような指摘がなされている。

「現実に起きている現象は、人間の心理というような要因も論理の一こまとして考えると、きちんと理由があって起きている。多くの要因が論理的に絡み合って、起こるべくして起きているのである。その現象が既存の理論では説明できないのなら、現実が間違っているのではなく、理論が不十分なのである。だから、そうした論理的な現実を詳細に追っていけば、論理的に意味のある仮説が生み出せる可能性は高い。」(伊丹敬之著「創造的論文の書き方」有斐閣 p152)

僕が入所施設や精神病院の問題を論じるとき、「現実が間違っている」という「意見」を書くことが多かった。でも、それは伊丹氏が言うように、「理論が不十分なのである」。自分の中で「考え」が練りきれないまま、「意見」という形で突っ走ってしまうので、世間から受け入れられないような気がする。

その際肝心なのは、声高に「意見」主張をするより、むしろ「論理的に意味のある仮説」を導き出すために、「論理的な現実を詳細に追ってい」くことなのだ。その中で、感情的な自分の意見を徹底的に疑い、排除し、「本当に正しいこと」(=考え)を少しずつ醸成させていく事なのだ。そして、意見を異にする相手側とも共通のプラットフォームとなりうる「理論」を少しずつ精緻にこしらえていくこと。これが、迂遠なようでも、日本の「脱施設」論に一番求められているような気がする。

コーチに教えられたこと

 

ようやく冬休みがくる。この秋以来、土日が出張、ということが多かったので、どっと疲れが出る。

で、週末はまず一日ゆっくり寝て「臨戦態勢モード」を解除する。何にもしてないと、「何かしなくちゃ・・・」と脅迫観念的になっていたので、「とにかく休みなのだから・・・」と何度も言い聞かせる。「臨戦態勢モード」だと、仕事はちゃっちゃと片づく代わりに、ストレスといらいらが蓄積されていくようだ。で、ストレスは体重、いらいらは余計な一言、という一番嫌な形でのリバウンドでどちらも返ってくるので、こういう「モード」は期間限定にして、とにかくふつうの暮らしに戻らねばならない。

で、ふつうの休日を楽しむべく、白樺湖を超えたところにある、エコーバレースキー場に出かける。

標高は1500mもあるので、雪は降っていなくても、さすがに寒い。降雪機の雪がパウダースノーになっている。これはよい。昨年からスキーを始めたのだが、ボーゲンでもおぼつかないので、思い切ってレッスンを受けてみる。これがすごくよかった。

何が良かったって、休日の午前なのに参加者は僕一人、つまりはマンツーマンのレッスンだったのだ。普通こういうプライベートレッスンは1時間6000円とか取られるのが相場なのに、僕は2時間3000円しか払っていない。何というラッキー。そして、教えてくださった初老のコーチが実によかった。ここ最近、福祉組織の変容や支援者教育のことを研究しながらコーチング論などもかじっているタケバタにとって、実に多くのことをこのTコーチから学べた。

最初、中級コースでいろいろ言われながら格闘するのだが、正直言われた事が頭で理解できても、身体で表現出来ない。もともとスポーツ音痴のタケバタなので、飲み込みは悪い。さらに、中級コースは角度も柔くなく、怖いし気が焦るし、うまくできないし・・・で全身から汗は噴き出るし、頭はパニックだし、全然さっぱりうまくいかない。その状態をみたTコーチは、とにかく下に滑ったあと、あっさり方針転換。「じゃあ、初級コースへ行きましょう」

そう、中級コースを見栄はってすべるより、一番出来ない一番下の下まで行って、そこから基礎からたたき込むことが大切。これは、予備校講師時代の鉄則だった。それを、受ける側で実感したのだ。しかもこのコーチ、タケバタが言語的説明で一杯いっぱいになるタイプと悟るや否や、二度目以後では戦略を変える。なだらかなコースで安心したタケバタに、何度も「リラックスして」と伝えながら、感覚的にわかりやすい言葉を巧みに用いてアドバイスしていく。

「とにかくリラックスして、変におしりを出してかがんだりせず、膝小僧を前にぐっと押し出す感じで」「ストックで身体のバランスが保てるよう、前に突きだして楽に持っていたらいい。時にはぶらんぶらんさせながら。」「身体は前を向きながら、ちょこっと顔だけ右を向くと、自然に右に曲がる」「足底を気にして、斜面を板でなでるように」「左に曲がりたければ、右の膝を突き出してすっと持って行けばいい」

こういった言葉を聞くなかで、僕自身考えるのをやめてリラックスして、こちらを見ながら(つまり後ろ向きで)滑るコーチを追いかけながら滑っていくと、あら不思議、我流だった時とは全然違う、楽なスキーが出来るのだ。そして、身体が楽なので、滑るのがついつい楽しくなる。すると、ずんずん滑れてくる。一石三鳥、とでも言おうか。こういう上手なコーチに身をまかせると、どんどん恐怖心が薄れ、あっという間の2時間がたった最後、中級コースでもう二本、最終仕上げ。一回目の苦戦が嘘のように、斜面でもわりとリラックスして滑れる。こういうコツがあるんだ、と身体が納得した二時間だった。

そのTコーチと一緒にリフトに乗っているとき、コーチングについていろいろ伺ったのも、実に面白かった。

「コーチにもうまい下手があります。滑るのは上手でも、伝えるのが下手な人がいる。また、形ばっかりを教え込もうとして、その人がどこでつまずいているのか、にお構いなしの人がいる。」「私の場合は、相手を見ながら、2時間の中での教えるデザインを変える。この人なら、このくらいまで到達出来るだろう、と。この予想は、相手が極端に体力がなかったり、恐怖心がとれない場合を除けば、だいたい当たる。」「私自身は、数回しかレッスンを受けていない。でも、言われたことを自分の頭で反芻していく中で、自然と自分自身や他人に伝える際にも、応用することが出来るようになった。」

福祉の現場では「本人中心の支援計画(Person Centered Individual Program Plan)」なるものの重要性が謳われて久しい。ケアマネジメントも、本当はこういうPerson Centeredであるべきだったのだが、どうも日本の現場ではズレているようだ。実際に、「本人中心」というからには、この僕が習ったコーチのように、相手の実情に合わせて臨機応変にプログラムを変える力量と、相手の求める形でサービスが提供できるような引き出しの多さ、その為の現状分析や反芻能力の高さ、などの複合的な力が求められるのだなぁ、と滑り終えた後、白樺湖畔の日帰り温泉につかりながら考えていた。

いかんいかん、まだ臨戦態勢モードから抜けていないようだ。
今年も鳥一でかった鳥の丸焼きをお供に、さて、今からシャンパンに合う料理でも作りながら、頭を切り換えるとするか。

ダイエットと民主主義

 

ようやく筋肉痛が治る。

月曜夕方にテニスをしたのだが、火曜から水曜にかけて、本当に階段の上り下りがつらかった。で、ようやくその痛みが治ってきた頃に、さらに追い打ちをかけるようなお知らせが、木曜日に届く。健康診断の結果である。眼はいい、血圧もまあよい、そして見ていくうちに、肝臓系などの数値が「要再検査」。やはり、飲み過ぎがたたっているのか・・・と急に落ち込む。ただ、その結果は今、実はよくわからない。というのも、研究室に持ち帰ったはず、の結果が書かれた紙の入った封筒が、どこをどう探しても、見あたらないのだ。30分以上研究室を探しまくったが、出てこない。うーん、フロイト先生の言うところの、無意識的な意図による失錯行為、なのだろうか。

で、この無意識的な意図による物忘れなどの失錯行為、といえば、その日に調べ物をしていたら、こんな風に述べている文章に出会った。

「もしかすると、ジェンダーフリーに反対する人は、『男らしさや女らしさは生まれついてのものだ』という信念を実験で検証すること自体が嫌なのかもしれない。試すというのは、仮定の上にせよ、その信念が間違えている可能性を視野にいれることだからだ。
 私も保守的な人間なので、そういう気持ちはわからないでもない。だが、自分は絶対的に正しいとするのは、民主主義ではやってはいけない反則である。フェミニズムに反対する人も、賛成する人も、お互い間違うかもしれない人間として、いっしょにやっていく。それが民主主義の大原則であり、あえていえば『日本人らしい和の心』でもあるのではないか。
 そういう原則や心を見失うとき、私たちは男らしさや女らしさよりも、もっと大事なものをなくす。私にはそう思えてならない。」(佐藤俊樹「『ジェンダーフリー』叩き」山梨日日新聞20061213日)

自らの「信念が間違えている可能性を視野にいれる」ということは、大変つらいことだ。前回のブログ同様卑近な例でいけば、木曜日に届いた検査結果によると、僕がこれまで毎日のようにパートナーと晩酌していたことや、ジムにお金を払っているけど忙しさを理由に週1回程度しかいけてない、そのような事実を「良し」とするその信念自体が「間違えている可能性」が高い!という指摘なのである。人間何が嫌って、自分の生活習慣を変えることが一番嫌だから、わざわざその手の病気に「生活習慣病」と名付けられたくらいだ。当然、この自身の「信念」を変えるのは本当にかなわない。特に、もともと体を動かすのが好きでもない、お酒や食べ物を我慢するのも好きではない、という人が、わざわざその「好きではない」ことに取り組まねばならない、という現実を突きつけられても、なかなか認めたくないのだ。そう、頭では「そろそろ酒も控えんとなぁ」「やっぱり週に二日はプールにいかんと」と認めなければならないのはわかっているのだけれど、やっぱり嫌だ、という無意識が先走る時、検査結果をなくす、探し出せない、という失錯行為といて、無意識的意図のコントロール化におかれてしまうのである。

この無意識的意図のコントロール化に身を置くこと、つまりは「信念が間違えている可能性を視野にいれる」への拒否状態、について、よく引用する内田先生も次のように書いている。

「私は人間が利己的な欲望に駆動されることを決して悪いことだとは思わない。しかし、自分が利己的な欲望に駆動されて行動していることに気づかないことは非常に有害なことだと思う。中国が嫌いな人が中国の国家的破綻を願うのは自然なことである。たいせつなのは、そのときに自分が中国を論じるのは『アジアの国際状勢について適切な見通しを持ちたいから』ではなく、『中国が嫌いだから』(そして『どうして自分が中国を嫌いなのか、その理由を自分は言うことができない』)という自身の原点にある『欲望』と『無知』のことは心にとどめていた方がいいと思う。」(内田樹ブログ2006年1月11より)

この引用の語句の「中国」を「ジェンダーフリー」に、「アジアの国際状勢」を「日本人の情操教育」とでも書き換えてみたら、あら不思議、佐藤氏と内田氏は、テーマは違うけど、結構近似している枠組みでものを眺めていることがわかる。そして、佐藤氏の言う「信念が間違えている可能性を視野にいれること」が出来る人の事を、内田氏はその日のブログで、「欲望を勘定に入れる習慣をもった人間」とも言っている。自身の無意識化の意図(=欲望)を、完璧にコントロールするのは難しい。フロイト先生が言っていたのは、どんな人間であれ、そうやってコントロールしようとしても、するりと抜けて出てくるのが、失錯行為と呼ばれる産物であった。それは、どういう「信念」を持った人でも、共通である。でも、その失錯行為の背景にある「欲望」がある、ということについて、「勘定に入れる習慣を持った人間」か否か、には大きな違いがある。両氏はそう教えてくれている。

確かに、「『欲望』と『無知』」を心にとどめておけない場合、人間は論理的な推察が出来にくくなる。自身の健康診断の検査結果を見て「なんで俺に限って」「一生懸命働いているのに」と言い訳をはじめるのは、まさに他責的であり、「欲望」の温存と、その状態に関する「無知」そのものである。そして、そういう自分の「欲望を勘定に入れる習慣」を度外視することは、「自分は絶対的に正しいとする」ことそのものであり、「民主主義ではやってはいけない反則である」のだ。そうか、僕自身が生活習慣を変えようとせずに、ダイエットをしないことにいろいろ小理屈をつけるのは、民主主義の根幹を揺るがすことにつながっているのか。あな、恐ろしや。

ダイエットと自己変革

 

「遅発性筋肉痛」になってしまった。

と書くと、何となく格好良さげだが、何のことはない。昨日、久しぶりにコッテリとテニスのストロークをしたものだから、今日内股がいてて、で、階段の上り下りが辛いのだ。単なる運動不足の結果である。ああ、情けない。

テニス部の顧問の先生が音頭を取られ、学内の教職員有志で、立派な強化選手用のコートを使わせて頂く。国際試合も可能な立派なコートは、私のようなヨチヨチプレーヤーには何とも勿体ない。でも、すごく打っていて、気持ちの良いコートだ。あとは、この筋肉痛さえ何とかなれば・・・。これから毎週開催のようなので、テニスとプールで、何とか冬の間に少しは痩せれるかしら・・・。

そういえば昨日は冬空にもかかわらず、他の人の倍以上のドップリとした汗をかく。帰ってパートナーに報告すると一言、「太りすぎやからやで」とのこと。何だか寂しい限りだ。そう言えば、先週末出張で上京した折、大学時代の友人に10年ぶりに再会した。その友人曰く、「全然変わってないけど、お腹がねぇ・・・」。このように、ここ最近釘を刺されまくっているので、ええかげん「口だけでなく行動」が求められているのだ、と深く反省。でもこの問題、反省だけでなく、反省を通じて変わらなければ、その昔の広告じゃないけど、「反省だけならサルでもできる」からねぇ・・・。

で、反省や内省を行為へと変えていく、ということについて、最近調べる中で興味を持ったあるフレーズを引いてみる。

「行為の中で省察するとき、その人は実践の文脈における研究者となる。すでに確定した理論や技術のカテゴリーに頼るのではなく、独自の事例についての新たな理論を構成している。彼の探求は、その目的について、あらかじめ一致が見られる手段について考察するにとどまらない。彼は手段と目的を別々にしておくのではなく、問題状況に枠組みを与えるように目的と手段を相互作用的に規定する。彼は思考することと行動することを分けていない。行為へと後で変換していく決定の方法を推論しているのであり、彼の実験は行為の一種であり、行為の事項が探求へと組み入れられていく。このように『行為の中の省察』は、『技術的合理性』の二分法に縛られていないので、不確実な独自の状況においてさえも、進むことが出来る。」Schon, D.1983Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action (『専門家の知恵』佐藤・秋田訳、ゆるみ出版、引用は訳書p119-120

このReflective Practitionerとは、教育の分野や医療福祉といった「現場での知」が大切にされる分野で「使える理論」として、日本でも90年代以後、少しずつ導入され始めている。これを先のタケバタの事例でいけば、次のようになるだろうか。

「何だか最近ベルトを一つゆるめてしまった」「大学時代に買ったブランド物のスーツがとうとうパッツンパッツンになっている」という状況を「問題状況」として「枠組み」化するために、「口だけでなく本当にやせたい」という目的と、「でも仕事も忙しいので週に1度のテニスと後は週に1・2度のプールの時間を何とか確保しよう」という手段を「相互作用的に規定する」。「技術的合理性」からすると、食べる量を減らす、酒を飲まない、夜8時以後は食べない、などの解決策もあるが、それでは不規則な生活時間や押し寄せてくる急な仕事といった「不確実な独自の状況」を解決出来ないので、あくまでも「相互作用的」「規定」をそのつど捉え直しながら、目的を果たすための最前の手段を、そのつど再定義し直す。

ダイエット話になると実に馬鹿馬鹿しい例だが、障害者支援の現場でも、こういう「そのつどの再定義」はすごく大切になってくる。だが、従来の支援者の価値観・経験・知識に縛られている支援者ほど、「そのつどの再定義」を拒む人も少なくない。「俺はこうやってきた(乗り越えてきた)のだから」ということは、謙虚な自信に繋がればよいのだが、時として唯我独尊的なモードに変わってしまう。ダイエット話でいえば、「今まではこういう食事量やライフスタイルでも太らなかった」という言明は、現に変わっている体重を前に、何ら説明因子として機能しない。単純な分析だが、大阪にいた時代は「駅まで自転車で通っていた」「いろんな現場を掛け持ちしていたので、とにかくよく歩いた」という状況があったが、山梨に来てから「家の目の前の駐車場から大学の駐車場まで車で通勤」「平日は学内以外を歩くケースは少ない」という状況自体に変更があるのだ。すると、もし僕自身がReflective Practitioner(内省する実践家)ならば、与えられた今の問題状況を適切に枠組み化した上で、目的と手段の相互作用的規定が求められるのだ。単純にいえば、「昔の理屈で行くと、もっと太る。だから、痩せるためには、ちゃんと運動せねばまずい」とね。

でも、人間、この以前まで実践してきた論理を変更し、新たなミッションなり目的を内在化させること、そしてそのための手段を忠実に履行すること、これは、自己変革が求められている部分が大きければ大きいほど、超えねばならないと感じるハードルのバーも高くなる。特に、もともと運動が好きでない僕にとって、この「運動せねば」という新たミッションは、すごく超えづらい壁だ。わざわざブログにそんなつまらん分析を書いているのも、自分のハードルを外在化させて、プレッシャーをかけるのと、少しでもバーを下げよう、というささやかなる試みゆえである。

多分、現場で自己変革を拒み、昔のやり方に固執している支援者の中には、組織論の大家であるシャイン博士の言う「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」が大きい人も多いのかもしれない。自己変革や新たな学びへの不安は、その閾値(ハードルのバー)を下げる個人の側の努力と、それを暖かく見守る組織の後押しの両方が繋がるなかで可能になる。僕の場合も、自分が努力するだけでなく、テニスの同好会が出来た、とか、ジムに毎月会費を払ってしまっている、という外的要因が、「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」の閾値を下げてくれているのだ。なので、今科研の研究費を頂いてやっている支援者変革の研究でも、こういった「Learning Anxiety (新たなことを学ぶ不安)」を下げて組織変革に結びつけるために、組織側、個人側に求められている課題は何か、を追求していきたい、と考えている。

とうだうだ書いてきたが、えっ、何だって? 「能書きの暇があったら早くプールにでも行ったらどうだ?」ですって。だから言ったでしょ。今日は筋肉痛でいけないのです。とほほ。

方法論3冊

 

今週になって、朝、車の窓ガラスが凍り始めた。いよいよ本気の冬である。早速今日、スタッドレスタイヤに交換する。夏はめちゃくちゃ暑い甲府であるが、冬はとんでもなく寒い。2週間前からは石油ストーブも全開だし、暖冬とか何とか言われても、寒いことにはかわりない。

ここ最近、方法論の本をまとめて数冊読んでいる。いよいよ今年はじめて卒論学生を担当していて、来月末に向けて佳境に入ってきたので、彼ら彼女らへの指導のためが半分、でも半分は自分のためでもある。最近新たに買ったり読み直して面白かった方法論の書籍を三冊、挙げてみる。

「医療経済・政策学の視点と研究方法」(二木立著、勁草書房)
「社会福祉研究法」(岩田・小林・中谷・稲葉編、有斐閣)
「実践フィールドワーク入門」(佐藤郁哉著、有斐閣)

は先月出た新刊で、は読み直した本である。

医療政策について独自の視点で次々と切り込む著作を続けている二木氏の方法論がどっさり詰まったを読んでいると、彼がいかにストイックに勉強しているか、がわかる。一日8時間以上勉強している日が、年間を通じて100日ある、というのは、学内外の仕事をしながら、ということを考えると、とんでもない感じだ。一兵卒で、本来時間があるはずなのに、自分を振り返って、一日8時間、みっちり勉強できている日が月に何日あるだろう・・・。やはりある程度のストイックと、割り切りと、きちんとした時間マネジメントの気持ちがないと、こうはならないだろうな、と希望もショックも受けた本だった。

の有斐閣アルマシリーズは、なんだか良い本が多い。社会福祉の方法論の本について、今まで結構たくさん買ってきたが、日本語で書かれている本として、わかりやすくて、かつ深いポイントまで押さえられているのがこの本。実際に学会誌に掲載されたいくつかの論文を元に、どういうデザインを元に、データをどんな風に分析して、まとめていったのか、を実例を元に分析・説明している。こういうタイプの追体験可能な事例が出されていると、読み手にとっても勉強しやすい。ここ数年間で、質的調査に関する方法論の本が爆発的に増えているが、こういういい本が出たのは、実に喜ばしい。惜しむらくは、一番方法論で悩んでいた数年前の博論執筆時に出会えていたら・・・であるのだが。

で、は、おとといのゼミの最中に、急に思い出して、手にとってみた本。買った当時は、つまみ読みだったのだが、今回全編を通読してみる。実に味わい深い本だ。サブタイトルが「組織と経営について知るための」とあるように、一橋の商学部で教えている社会学者が、自身の学部・院生にも伝わりやすいように、と、経営学や組織論で出てくるフィールドワークの古典を元に、フィールドワークやインタビューなどの方法論についてわかりやすく解説している同書。組織論や経営学とフィールドワークの接点、というのは、僕自身が今まさに研究している部分とも重なり、ケースとして紹介する文献も、キーワード解説も、実に興味深い。今、方法論的に悩んでいたある研究の重要なヒントももらえたし、この本を通じて気になる本を何冊か早速アマゾンに注文した。こういう「バッチリ合う」本に合うと、実にうれしい限りだ。

方法論では、本当に苦労している分、その分野の本は乱読している。

来月くらいから、新たに現場調査もはじまるので、その前に、こういう形で方法論について再定義や反省をしておくことは、自分の中での整理としても、実によい。今週末も、来週末も出張だったり、と、なかなか落ち着いて「8時間の自習時間」をとれない分、いかに自分のあいている時間をうまく活用できるか、が問われている。某先生みたいに、酒は飲まないので朝まで勉強、というのとは対極的に食べること・飲むことが大好きな竹端にとって、結局真っ当に頭が働いている時間の集中度を増す、ということでしか、問題は解決できない。ま、マシーンにはなれないしね。

なので、明日の朝の「あずさ」でも勉強しよう、と鞄の中に書類を詰め込むタケバタ。でも、結局バーベル代わりにしかならなかったりして・・・。

求められる枠組み変換

 

大阪からの出張帰りの「ワイドビュー富士川」号の中で、再来週の授業で扱う予定のNGOに関する文献を読んでいて、心からうなずくフレーズに出会った。

「現在の発展途上国のように、好むと好まざるとに関わらず開発の言説が圧倒的な力を持つ社会においては、住民が社会的なプロセスに参加していくためには、開発の言説が『主体』と認めるようなある特殊な『主体』に自分自身を変えていかなければならない、そうしなければ参加できない、というような状況が生まれているのではないだろうか。その場合、参加を阻んでいるのは、援助する側が求めるような『主体』へと変わることを拒否している住民であろうか、それとも援助する側にとって都合のよい『主体』以外は認めようとしない私たちであろうか。」(定松栄一「開発援助か社会運動か」コモンズ、p249)

この定松氏の指摘は、発展途上国を障害者福祉、開発を自立、住民を障害者、と置き換えれば、障害者支援の文脈でも全く同じことが言える。

「現在の障害者福祉のように、好むと好まざるとに関わらず自立の言説が圧倒的な力を持つ社会においては、障害者が社会的なプロセスに参加していくためには、自立の言説が『主体』と認めるようなある特殊な『主体』に自分自身を変えていかなければならない、そうしなければ参加できない、というような状況が生まれているのではないだろうか。その場合、参加を阻んでいるのは、援助する側が求めるような『主体』へと変わることを拒否している障害者であろうか、それとも援助する側にとって都合のよい『主体』以外は認めようとしない私たちであろうか。」

「開発」や「自立」という言説、往々にしてこれらに絶対的な「善」という価値が付与されがちだ。だが、そもそもまずこの「開発」や「自立」という文言は、誰にとって、どのような意味での「開発」であり「自立」であるか、が問われなければならない。その意味で、厚生労働大臣の国会答弁は、いろいろなことを私たちに教えてくれる。

「自立というのは、身の回りのことをできるだけ人の手を借りないでやり遂げるということからスタートしているという姿を見てまいりまして、こういう格好で自立を進めていくんですよ、それで自立のレベルを上げていくんですよというようなことを見まして、自立というのは、本当に、まず身の回りのことを自分がやる、そして、その上に立って自分の意思でもっていろいろなことをやるようになっていく、そういうようなものがずっとスペクトルのように続いている話であるというふうに思いました。自立が、自分で所得を稼得するところまで完全にいくということしか自立じゃないというふうなことではない、一歩でも進むことを自立といって、それを支援していくことだというふうに、これは随分幅広く考えていった方が正しいのではないか。」
平成18年10月25日衆議院厚生委員会での柳沢厚生労働大臣の答弁

金融問題のスペシャリストであった柳沢氏も、残念ながら厚生労働行政には不勉強であられたのであろうか。尾辻元大臣の「自立とはタックスペイヤーになること」というのも強烈な自立観であったが、柳沢現大臣の「身の回りのことをできるだけ人の手を借りないでやり遂げるということからスタート」という発想も、すごい。尾辻元大臣は「経済的自立」、柳沢現大臣は「身辺的自立」を自立の第一歩と定義されておらるが、この定義をアプリオリなものとして、「ある特殊な『主体』に自分自身を変えていかなければならない、そうしなければ参加できない」と定義してしまうと、障害者の多くが、「参加できない」状況に構造的に追い込まれてしまう。なぜなら、障害のある人の少なからぬ数が、支援や援助が受けられない中では「経済的自立」や「身辺的自立」が不可能である場合が多いからだ。

「援助する側にとって都合のよい『主体』」を想起すれば、話はもう少し簡単になる。「経済的自立」や「身辺的自立」に向かって一生懸命頑張る「主体」を「都合のよい『主体』」と定義すると、「それ以外の自立があるのではないか」と全国大行動などをやっている障害者は、「援助する側が求めるような『主体』へと変わることを拒否している障害者」であり、やっかいな存在だ。

だが、障害者運動がずっと問い続けてきたのは、「人の助けを借りて15分かかって衣服を着、仕事にも出かけられる人間は、自分で衣服を着るのに2時間かかるため家にいるほかはない人間よりも自立している」という自立観(たとえば次のHPなど)であった。これは「自己決定・自己選択の自立」と言われるものである。「援助する側にとって都合のよい『主体』」であることがおかしいのではないか、と自分で考え、決める「主体」。こういう「都合のよい『主体』以外」の存在を認めない、ということは、ひいては援助側が、援助される側に対して支配的価値観が全面に出ているのではないか? 定松氏はきっとこう思っていたはずだし、障害者福祉の領域でも、まさに同じことが永遠の課題になっている。

国際協力分野では、参加型農村調査法(PRA:Participatory Rural Appraisal)が重視されている。これは、援助される側である「農民」が主体的にその地域問題の解決に向けて調査や行動を起こすのを支援する、というあり方である。自立支援法が「障害者」の主体的な「参加型」の地域問題解決法に至っているか? 残念ながらほど遠い現状にあるような気がする。障害者福祉のバックラッシュのような観がある現在、国際協力分野で言われている援助者主体から当事者主体への、needs basedからrights basedへのアプローチ転換は、まさに今、障害者福祉分野でも大切にされなければならない枠組み変換である。そんなことを考えながら、甲府に向かう夕暮れを過ごしていた。