「てこ読書」をてこに

 

今日は死ぬほどクルクル働いていた。

成績評価ともう一つ別のレポート30人分の採点・講評が今週末締め切り。しかも、明後日から出張ということは、必然的に今日明日にしないとまずい。そんな事実に今朝気づいたもんだから、さあ大変。今日は何とかレポートの採点・講評を終わらせる。とはいえ、その間にも二年ゼミの報告書や会計に関する打ち合わせの学生も来るし、この二年ゼミをうちの大学が所有するコミュニティーFMで紹介してくださる30分番組の収録もあったり、卒論学生3人が代わる代わる来たり、と対応も結構忙しい。そして、レポートの採点だけなら楽なのだが、講評を相手に返す場合、どうエンカレッジドな文言を講評の中に入れていこうか、ということは結構頭を使う。

5時前に切り上げてテニスに行くつもりが、6時半頃までずれ込んで、ようやく終わる。その後、急いでテニスコートに向かう。そう、教職員テニスクラブに出かけたのだ。今日は何故か職員の方々がおらず、教員+αだけの少数精鋭。それでものっけから、こってりH先生にしごかれて、汗だくだく。ついでに、後半は球出しのコーチもどきの役割も引き受ける。1時間ちょっとしか時間がなかったが、それでも有意義でみっちりと動いた。おかげで今日お風呂後の定例体重計測は、再び79.6キロ。良い兆しが続く。

もともとお風呂読書をよくするタイプなのだが、今日のお風呂読書の友は、「レバレッジ・リーディング」(本田直之著、東洋経済新報社)。日本語に訳せば「てこ読書」。1冊の本には、多くの叡智が詰まっている。だから、てこの原理のように、一冊の読書から100倍以上の価値を見出せばよいし、仕事読みの本は思い切ってエッセンスのみを抽出してたくさん読めばいい、というビジネスコンサルタントによる分かりやすい主張の本。この著者、本をビジネスを生み出す道具、と割り切って、斜め読みの乱読を年間400冊以上するそうな。その方法論が面白い、と、昼食時にに眺めていたあるブログで読んで、テニスの後に夕食を買いに出かけたついでに購入。著者の主張を参考にして、この本自体を「てこ読書」。この本の主張に沿って、サクサク斜め読み、30分で読了。まあ半分くらいは知っていたり、自分もそうだよなぁ、と思っていることだったので読み流したが、でも半分は大変使える内容であった。

一番参考になったのが、「レバレッジメモ」。簡単に言えば、線を引いた箇所をちゃんとメモ書きして、それを分野ごとにストックして、ちゃんと読み直せば、それはパーソナルキャピタルになるよ、という部分。「え、そんなこともしてなかったの?」と碩学のM先生あたりに笑われそうな話だが、はい、すいません。読みっぱなしでメモを整理して使う、なんて、面倒くさくてつい、してなかったのです。このブログで一部メモ代わりにしているが、紹介しているのは、やはりごく一部にすぎない。線を引いたり気に入った箇所はもっとあるが、振り返らないので、つい忘れてしまう。それを、この著者は週に一度、ちゃんとメモ書きして整理しているのだ。ううん、アホな研究者(自分のこと)より、よほどストイックで研究者っぽい。

こういう部分のマメさ、あるいはストイックな習慣化が、後で大きなストックになっていく、と実感。だって、こないだ仕事で読み直していた本の中に、「こんな大切なことが書いてある」と思ったら、そこにバッチリ線を引いた後が。どう見ても僕の字の、僕の線で、僕のメモなのだが、すっかり覚えてない。そう、レバレッジメモを整理・ストックして、それを見直していたら、もう少し賢くなっていたのかもしれないよな。何だかせっかくの吸収機会なのに、超粗めのザルで大半落とすような読書になっていた、と風呂の中で大いに反省。若くもないし、頭も良くないんだから、こういうマメな努力をしないと、ブレイクスルー出来ないよな、と心を入れ替える。

そう、これが出来ただけでも、筆者の主張する一冊1500円の本が15万円分(100倍)の価値になるのだ。・・・そうまとめると、まるで下手な広告のような文章になってしまった。でも、以前から考えていたことを後押し・補強してくれるような著者の主張なので、改めて読み方の整理につながって、そういう意味では価値があった、とと心より思う。こりゃあ早速、週末からメモ魔になりそうだ。でも、その前にちゃんと明日、成績をつけなければ。てこを動かす前に、まずは目の前の仕事の整理・整頓、そしててこ入れ。そっちの方が先だよね。やっぱり。

経営手腕とバランス

 

少しおなかがヘッコミはじめた。

今日久しぶりにプールに行ったおり、自分の段腹を何気なく更衣室のロッカーで眺めてみて、そう思った。帰ってパートナーに見てもらっても、やっぱり少ししまってきた、という他者評価も受ける。体重は81.2キロと昨日と大差ないが、少しずつ贅肉が筋肉に移行し始め、やせるための環境が整いつつあるようだ。何という吉兆。明日は教職員テニスクラブなので、更に頑張る気がわいてくる。ようやく鼻声も直ってきたしね。

で、今日はおうちの仕事の一日。家事仕事だけでなく、ジムに行ったついでに中道の農産物直売所まで野菜を買いに出かける。新鮮なにんじんや青物をたんまり買い込む。最近きゅうりが高いので、ぬか漬けの材料がなすびばかりだった。たまには違うものがいい、という家人のリクエストもあり、ちょうどぬか漬けに最適な、小さめの土つきにんじんを一袋100円でゲット。その他、マリーゴールド?の花束やら、豆やらどっさり買い込む。野菜は盛大に食べているので、週に一度の大量買い出しは大変重要なルーチンワークなのだ。お昼は買いたてのネギとほうれん草を使ったおうどん、夜は菜っ葉と肉の炒め物、と大活躍したが、どちらも新鮮で、大地のエネルギーを満喫できる味であった。

そしておうちでは、締め切りが明日と迫った、二年生のゼミ論集への文章をサクサクと書く。運動によい食事にと気分がリラックスしていたので、2,3時間で8000字強のメッセージがスルスルっと出てきた。その一部をご紹介してみよう。

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 思い返せばこのゼミで、特に後期以後は、私は本当に脇役でした。各グループの代表やゼミ統括の担当者に個別のアドバイスをするものの、ひとたび私が枠組みを示せば、後は学生達で主体的に方法論を開発し、進行管理やまとめに至るまで自主的に作り上げてくれました。これは報告書作成だけでなく、啓発活動で多くの大学・専門学校・高校を訪問させて頂いた時も、彼ら彼女らの主体性はきらりと光っていました。
 ではゼミ担当教員の私の仕事は何か、それは「場のマネジメント」に尽きると思います。この概念の提唱者でもある伊丹は、「場のマネジメント」について3つの要素で説明してくれています(伊丹敬之著「場のマネジメント」NTT出版、p5)。
・経営とは、個人の行動を管理することではない。人々の協働を促すことである。
・適切な状況設定さえできれば、人々は協働を自然に始める。
・経営の役割は、その状況設定を行うこと。あとは任せて大丈夫。
 ゼミ経営でも全く同じです。19人もの大学生の「個人の行動を管理すること」は、とうてい私には不可能です。班構成や人員を何度も変えたり、時にはある班の活動にアドバイスすることがあったものの、あまり細かな口出しをすることを控えていました。その最大の理由は「協働を自然に始める」のを待ちたかったからなのです。そのために、様々な状況設定の最適化にむけた試行錯誤はしましたが、「あとは任せて大丈夫」と、彼女ら彼らのがんばりを信じていました。結果、ゼミ生全員が、この一年間で一皮も二皮もむけて成長する、そんな現場に立ち会うことが出来たのです。

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そういえば当ブログで紹介するのを忘れていたが、この二年ゼミの活動は、山梨日日新聞でも取り上げて頂いたので、よろしければそちらもご覧くださいませ。

意味ある活動を学生達にしてほしい、その願いを、実際に実践に移すためには、ゼミ経営者である私自身に「経営手腕」が問われる。伊丹氏が指摘するような、「適切な状況設定」をする手腕、そして「人々の協働を促す」手腕、それらがないと、ゼミは崩壊する。何度も危うい場面にさしかかりながら、何とか経営の初心者の私が最後まで乗り越えられたのは、ひとえに「タケバタという経営者は危ない」と思って自発的に「状況設定」に参画し、協働を主体的にすすめてくれたゼミ生達の行動のたまものである。それとも、「これはタケバタはあてにならんは」と思わせる(見切りをつけさせる)のも、ある種の「経営手腕」と言えるのだろうか!?

何はともあれ、こういう文章を書ける瞬間が来ると、一年間の大変さも吹っ飛ぶ。これだから、教育は面白い。あるブログでアメリカの大学で昇進しようと思ったら、「卓越した著作、ほどほどの管理運営、最低限の教育」が肝心、という記事を見たが、さにあらず。こんな楽しいことをしない人生は実に寂しいし、もともと私の給料の出所でもある学生達にあまりに失礼な発言だ。引用したブログの著者も書くように、結局は研究と管理運営と教育の三者のバランスが大切なのだ。そういう意味で、教育の経営だけでなく、研究と管理運営も含めた、自分自身のバランス良いマネジメント(経営)が大切であるし、そしてどれも楽しめることが、もっと大切なんだよなぁ。今改めてそう思う。

危機対応の分かれ目

 

それにしてもきつい一週間だった。

風邪を引いた月曜日は休んだが、火曜日は4コマ連続の定期試験監督。もうフラフラで、鼻声で、最悪のコンディションだったが、お仕事だからきちんとこなさなければならない。しかも、やっと試験監督が終わった、と思ったら、今度は水曜の研究プロジェクト用のデスクワーク。ある研究者の方にやって頂いた力作のレポートを読み込みながら、体裁面での手を入れていくだけなのだが、結構時間がかかる。テスト監督が終わったらすぐ帰ろうと思っていたが、結局研究室にどっぷり日が暮れるまで滞在する羽目に。とにかく何とかそれも終わって、這々の体で家に帰ったのだが、あいにくその日はパートナーも帰りが遅い。何か作らねば、でも景気づけないとやる気でないよなぁ、と缶ビールを空けているうちに、どうせなら、と、簡単なおうどんにプラスして、先週末に作れなかったひじきと豆の炊き合わせを作ってしまう。まあ、食い意地が張っている間は大丈夫、というのが、僕の風邪のバロメーターなので、よいことはよいのだが。

ちなみにこの日の体重はとうとう79.8キロまで落ちた。やっと70キロ代まで落ちてきた喜びをかみしめる。でも、いつもはここで手綱をゆるめる(というか、じゃあもういいや、と警戒意識を解除する)ために、結局この78,9キロあたりが、ここ数年の平均体重水域になっていた。今年中に70キロなんて無理かもしれないが、何とか75キロを目指してみたいと願っている。正月明けから今までの4キロ減は、暴飲暴食からの現状復帰、というごく真っ当な線だったので、これからが本当の正念場。食事の量や内容に気をつけるだけでなく、運動不足の解消、という当たり前だけれど着実な努力が必要な部分になる。意識的ダイエットに継続的に取り組んだことはこれまでなかったので、これからは未経験の領域。この勢いにのって、何とかモチベーションを保っていければ、と願っている。

そうそう、実はこのブログが、ダイエットには相当大きな影響を与えている。積極的情報開示という側面だけでなく、読んでくださっている方々から声をかけて頂くのが、ものすごく大きな励み(肯定的要因)の一つになっているのだ。お忙しいのにしばしば温かいコメントをくださるM先生だけでなく、昨日から今日にかけて大阪に出張に来ていたのだが、昨日久しぶりにお会いできた、大変お世話になっている先輩Nさんも、今日の仕事で一緒だった研究者仲間のお姉様も、「少しは痩せてきたんだって」と言ってくださるから、あら嬉しや。もともと人に言われてもやらない愚図なので、こういう他者評価による照り返しほど、自分のやる気を喚起するものはない。お三方とも、本当にありがとうございます。昨日はそのNさんと行った串カツ屋でも、ちゃんとカツの衣を外して食べておりました。さてはて、この小さな積み重ねはどこに僕を運んでくれるのやら。

風邪の方は、水曜日の東京での研究会も早めに抜けて寄り道せずに帰宅し、木曜の夜には大学近くの「ありやけ」で新鮮なアンコウと牡蠣をたっぷり買ってキムチ鍋をしたら、だいぶ快復に向かってきた。その代わり・・・恐れていた事態が勃発。そう、パートナーに移ってしまったようである。す、すんません。今日はお詫びに、ではないが、新大阪駅で551のシュウマイを買って帰ることにする。

で、新大阪駅でのお買い物、と言えば、コンコースの売店でぱっと目に入って買った一冊が「当たり」だった。一応帰りの電車でもお勉強しようと仕事関連の本を読んでいたのだが、さすがに今日は午前9時半から午後4時過ぎまで濃密な議論をしていたので、結構くたびれ果てている。名古屋へ向かう新幹線の中で横文字が良い睡眠薬になってしまったので、あきらめて名古屋からの「しなの」で何気なく読み始めていたら、こんな一節に出会った。

「人間は深刻な問題に直面すると、感情的に反応するように出来ている。周章狼狽してしまい、有効な対策を考える心の余裕もなくなる。
 だから、漫然と悩むことをやめ、現状でとり得るオプションを考えることに精神を集中することが決定的に大切である。問題をあれこれ蒸し返して悩むのではなく、ただ解決策を考えることのみに集中する。
 どんなに不快であっても、現実は現実として享受する。つぎに『不快な現実を変えるためのオプションは何か』を考える習慣を身につけることである。」(「プロ弁護士の思考術」矢部正秋著、PHP新書)

大変プラクティカルに考えるこの弁護士のクールな文体にいつしか引き込まれはじめた矢先、この「漫然と悩むことをやめ、現状でとり得るオプションを考えること」という部分で深く納得し、いろんなことを思い出していた。そうそう、まさに、それがないと苦境を脱出出来ないよなぁ、と。

そのとき思い出していたのは、20代の後半で我が身に降りかかった、ものすごく深刻な二つの危機の出来事である。諸々の事情で詳細は省くが、どちらもその後の人生に大きな影響を与える危機で、かつ発生時にはどちらも「こんなにひどい状況になったことはない」という深刻な状況であった。そのとき、第一の危機では見事に「感情的に反応」してしまったため、「周章狼狽」しきり、随分と多くの人々をその危機に巻き込み、ご迷惑も多方面にさんざんかけ、すれ違いが決定的な亀裂・決裂へと発展してしまった。そして、そのことは数年間ネガティブな尾を引き続け、生まれて初めて「胃が痛い」「心労で喉が通らない」という経験もした。

一方それから数年後、それとは全く種類も性質も異なるが、危機の度合いで言うと前者の危機と同じレベルの危機に遭遇する。そのときは、何だか不思議と冷静さを持つことが出来ていた。「問題をあれこれ蒸し返して悩む」ことよりも、「どんなに不快であっても、現実は現実として享受」しようとしていた。その上で、危機の内容を整理し、「不快な現実を変えるためのオプションは何か」を徹底的に考えていた。今でも、数年前の12月も暮れの頃、白々と夜が明けて行く中で、「ただ解決策を考えることのみに集中」していた情景をありありと思い出す。

もちろん人生の大先輩達に比べたら、僕の経験したこれらの危機は、質的にもレベル的にもごく初歩的なものかもしれない。だが、自分にとっては「人生最大の危機」だった。で、前者では結果的に失敗し、後者は難局を何とか乗り越えらた分かれ目は、今にして思うと、そのときに感情的反応に終始するか、徹底的に考えることに集中したのか、その違いだったんだ。長野の山間を疾走する「しなの」号からしんしんと降り積もる雪景色を眺めながら、ふと以前の二つの危機を総括していた。

ダイエットにしても、あるいは危機の乗り越え方にしても、そうやってreflectiveかつ意識的に対象となる問題について集中的に考え続けられるかどうか、が鍵になるようだ。

と、ここまで塩尻から甲府までの「スーパーあずさ」車中1時間で書いていたのだが、我が家に帰って体重を量ると、また81.4キロに逆戻り。出張中のカロリーオーバーと、風邪で一週間の運動不足がたたったようだ。ようやく鼻声も治ってきたので、こりゃあ明日はこってり泳がなきゃ。

ダイエットと枠組み

 

1週間のごぶさた、です。
これくらい期間が空いたのは久しぶり。何があったって? そう、読者の皆さんも大体お察しの通り、「仕事に追い込まれ」「風邪を引く」という王道を踏んでしまったのである。

この1週間、授業の最終週+ゼミの仕上げに向けての準備+来年度の準備に加え、土日は大学入試センター試験。入試委員の私は二日間、大学に12時間の缶詰状態。よくよく働いている日々が続いていた。で、木曜から怪しい風邪の兆候があったのだが、土日は監督業務もあったので咳も出来ないほど張りつめ、その糸が切れたら見事に風邪。今日は仕事をキャンセルできたので、一日寝込んでいた。なんせ、明日は定期試験の監督が4コマ!だしね。ああ、せっかくの月曜定例の教員テニスクラブには行けなかった。来週あたりから花粉症も気になるので、果たして初打ちはいつになることやら・・・。

そんなご無沙汰の一週間、納豆がスーパーに消え去ったり、「やらせ」発覚が新聞テレビで大きく報道されたり、と「豆」が注目される一週間だった。僕自身も、マイブームが「豆」。腹持ちが良く、食欲の抑制にもつながる「豆」は、いくつか読んだ栄養学や疫学からダイエットを考える本でも良いと言われていた。おからに豆入りミネストローネ、豆腐に納豆に豆サラダ、と豆づくしな日々が始まる。そういう意味では、「あるある」を見てスーパーへ納豆を買いに走る人を笑えない。事実、先週はいつも買う納豆がスーパーから払底していたので、生まれて初めて!?3パック140円の納豆を買う羽目になってしまった。倍の価格の納豆は、さすがに少し上品な味がしたような・・・。

今年からダイエットをスタートさせて、なんとか20日は続いている。やり始めて気づくのは、結局は意志の問題、ということ。お弁当の天ぷらの衣を外す、夜ご飯では肉の量を減らす、食べるスピードを遅らす、週に二回は何とかジムに通う・・・こういったことは、結局自分が「続けるんだ」と常に自覚的に意識したら、不可能な事ではない。それを「面倒くさい」「そこまでしなくとも」とためらうから、あるいは「どうせ何をやったって無理だから」とあきらめるから、続かない。この意志の問題と、裏表のような諦めの問題は、案外根深い問題のような気がする。

そういえば、昨日の晩、偽装逮捕の記事を読んでいて、気になる部分があった。

「県警は19日、男性宅からの電話の発信時刻と犯行時刻が近く犯行が物理的に不可能だとわかったことなどから、男性を無実と判断したと説明した。だが、実際には取り調べ中にアリバイが成立する可能性に気付きながらも「偽装だろう」と思い込み、裏付け捜査をしなかったという。
 また県警が男性宅を家宅捜索した際、現場で見つかった靴跡と同じサイズの靴を見つけられなかったのに、「捨てたに違いない」と疑問を持たなかったこともわかった。」

http://www.asahi.com/national/update/0121/TKY200701200320.html

○○に違いない」という思いこみ、自身の枠組みへの揺るぎない過信。この前提を信じ込んでしまうと、その前提に入らないデータは全て「不都合」「イレギュラー」と処理されてしまう。で、それらのデータの中に含まれている重要な、時には本質的な意味も、些細なゴミデータとして葬り去られてしまうのだ。自分自身が信じて疑いのない「枠組み」も、時には修正する必要がある、ということへの疑念のなさ。これがないと、様々な断片的データから示される危険信号をキャッチできない体質になってしまう。

「こいつが犯人に違いない」という枠組み、「黙っていたらバレない」という不二家の組織的隠蔽の枠組み、あるいは、あるある大辞典の「視聴率さえとれれば、多少無理しても仕方ない」という枠組み、これらの根底には、「○○に違いない」「○○だから仕方ない」という自分勝手な前提と、その枠組みから漏れて出てくる異変信号(アリバイを証明する証拠、賞味期限切れのシュークリーム、ねつ造した納豆効果)が出てきても、押し切れば何とかなる、と過信してしまい、結局自分で墓穴を掘ることにつながっているような気がする。

ダイエットだって、同じだと思う。僕は太る体質だから仕方ない、どうせやせる努力をしたって減らないに違いない、という枠組みの中から脱することが出来なければ、いつまでたっても、どういうダイエット法を試したって、その枠組みから抜けられないのだから、成功はしないのだ。逆に言えば、昨年12月に出された健康診断の結果のD判定とか、あるいは周りからの助言という異変信号を、枠組みへの疑問としてキャッチし、意志を持って、この枠組み自体から抜けるんだ、と強く気持ちを持つことが、食事や生活習慣、運動という面で、自分自身に変化をもたらすのである。

人間、自分が慣れ親しんできたやり方を変えるのは、実につらい。自己変革をあちこちで講演して廻っているが、自分自身の変革がこんなに身を切られるようなシンドサだとは、正直思ってもいなかった。でも、ここで昔の枠組みを言い訳にしていると、結局意志は続かない。悪循環のサークルから抜け出せない。他責的に「どうせ」なんて言わずに、自分事として「変わらなきゃ」とネガティブな事実をもまっすぐ引き受ける、枠組みを塗り替えるそういう変化が、今、いろんなところで求められているのだろうと思う。

こちらでは山梨県知事選挙で現職が破れたことが大ニュースだったが、全国的には宮崎のそのまんま東氏の当選が大きく報じられていた。どちらも、「変わらなきゃ」を求める有権者の願いが結びつている。当選された二人が、その有権者の思いをきちんと政策に活かして欲しいと思う一方、有権者自身が、他責的にならず、自身の枠組みの切り替えとして、この政治の問題に向き合っているか、が少し気になるところだ。「裏切られた」「信じていたのに」と過信をしてきた自身の枠組みへの反省がない中で、「この人ならば信じられると思う」という理屈は、納豆騒動に踊らされて文句を言う人々に何だか重なって見えてしまう。結局、他責的な枠組みに踊らされず、どんな情報でも自分の頭で考え直し、自分が納得いく解を、枠にとらわれずに探し、見つけた新たな枠組みが世間の流れと違っていても、今までのやり方と違ってしんどくても、意志を持って貫く、そういう当たり前な「自分の頭で考える」という結論が導き出されるような気がする。

ま、そうやって他人のことを批評する前に、まずは自分が変わらなきゃ。早く風邪を治して、プールに行こうっと。

マイナスの悪循環

 

週末、スキーに出かける。

実はある大切な会合に呼ばれていたけれど、それより前に友達夫妻と我が家の4人組で出かけることに決まっていた。で、最近政府がしきりに言う「ワークライフバランス」の考え方ではないけれど、きちんと仕事とプライベートのバランスを保つためには、土日のこういうイレギュラーな「仕事」ばかりを、休日の予定に優先させると大変な事になる。来月再来月と出張ばかりだし・・・なので!?一泊二日のツアーを楽しむ。関係者の方、すいません。

で、今回の行き先もやはりエコーバレー。で、以前このブログで書いたように、今回もTコーチにお世話になる。以前彼が言っていた「本当に一生滑れる技術を身につけたければ、やはり泊まりがけできて、2日連続でレッスンを受けた方がいい」という助言を信じてみたかったからだ。で、当然二日間ともレギュラーレッスンを申し込む。すると、なんと有り難いことに、今回も受講生は僕一人! つまり、Tコーチからのマンツーマンレッスンを、二日連続で受けられたのだ。しかも、破格の値段(普段のレッスン料)で! 何という有り難いことか! おかげで、色々真髄(滑れる皆さんにとってはごくごく基本)をご教示頂いた。

「スキーは足の裏で滑るべきである。決して上半身や肩だけで回ろうとしたりしてはいけない。」「足は操縦桿。足でしっかりコントロールできれば、止まれる。両足のどの部分に力を入れるか、に常に意識をするとよい。」「とにかくリラックス。肩の力を抜いて、周りの景色を楽しむつもりで。」「急斜面では、最初から早く滑ろうとするな。ボーゲンで、しっかりスピードコントロールして、横に滑るつもりで。」「ボーゲンは、基本的に体重移動。左足が谷の時、左に体重をかけ、右足をぐっと開いて、曲がりながら重心を左から真ん中に。そして、谷を正面にむいても怖がらない。ハの字型をしていれば、かならず急斜面でも止まる。その止まりそうな緩い速度で、その後ジワジワッと重心を右に移動していくと、横に滑れる。右に曲がるときはその逆。特に左に曲がる際、左足になかなか重心移動出来にくいので、右足が浮かず、動きにくい。」「スキーは重心移動とエッジが基本。」「パラレルの際、右に曲がるときは、右の小指に力を入れ、身体も向け、その後、左足の土踏まずに力をいれる。左に曲がるときは、左の小指から右足の土踏まず。つまり、右に曲がるときなら、右足でエッジをかけ、左足も内股でエッジをかけると、曲がっていく。右に曲がるときは、右側に重心移動。また、しゃがんで、ぐっと右前に向きながら前を向くと、すーっと滑っていける。」

実は、コーチに何度言われても、恐怖心はなかなか消え去らなかった。で、一端恐怖心が蔓延すると、なかなか身体が言うことをきかない。足の指まで、怖いものだから、ついぎゅっと握りしめてしまう。すると、足の入力機関系をまったく塞いでしまうことになるから、何が問題か、どう改善すればいいのか、というインターフェイスが全く見えてこない。つまり、ハンドルを離して運転しているようなものだ。そういう中で、恐怖心がどんどん増幅し、改善策も浮かばず、結果としてマッチポンプ的に問題を拡大させてしまっている・・・。リラックスできないと、マイナスの期待や想像をし、そこからマイナスのフィードバックとして身体の硬直化という反応を引き起こし、結果としてマイナスの出力(コントロール不能)が生じ、ますますリラックスできず・・・というマイナスの悪循環の回路を、Tコーチの指摘から学んだような気がした。

で、このマイナスのフィードバック、というのは、何もスキーに限ったことではない。最近とぼとぼ復活したテニスだって、力が入りすぎると、絶対にうまくいかない。スポーツに限らず、思考回路だって同じ。ネガティブな想像や予期に身を任せてしまうと、必ずマイナスのフィードバックが生じる。しかも、一人で悪循環に浸っているだけならまだしも、対人関係でも、このマイナスのフィードバックは恐ろしく作用する。相手にある枠組みをはめこんでしまって、マイナスの期待をすると、相手もこちらのマイナスの期待を感じ取り、結構な割合で、マイナスのフィードバックを返してくるのだ。その対応に、「やっぱりなってない」なんてこちらが反応すると、そのマイナス回路は悪循環モードにはまり・・・。このとき、他責的に「あいつはなんて奴だ・・・」と言っているけど、諸悪の根元は、結構自身のマイナスの入力に端を発する部分も多い。相手の反応は、あくまでもこちらの入力に素直に従っただけの、当然の結果としての出力にもかかわらず、ある意味「リクエスト通り」の結果に一番否定的反応を示すのは、、無意識にオーダーした当の本人だったりする。

スキーで、一番大切なのは、リラックスして、流れに身をまかせること。舵を切るとき以外は、とにかくその流れに乗ってツルツルと滑っていけば、うまく運ばれていく。自然相手でも、なかなか任せきれなくて、ついつい流れに抗した無茶をしてうまく滑れずにいたタケバタ。対人関係でも、まだコチコチになっている部分があるのではないか。コーチに教わった真髄を復習しながら、いつしか反省モードになっていた。

whatとwhy

 

正月に84キロという過去最高の体重について書いたところ、何人かの方からお声を頂いた。

そんなに太るって、ストレス太り?

いえ、単に不摂生です。

なので、今日もプールで泳ぐ。最近、毎日お風呂上がりに体重計に乗っているのだが、今日は81.6キロまで下がった。まあ、正月の不摂生から戻ってきた、という単純な理由なのだろうが。でも、これに弾みをつけて、何とか75キロくらいまでは落としたい。ほんとの目標は70キロだが、とにかく、まずは目指せ75キロ、である。

で、プールで今日も泳いでいたのだが、泳いでいる最中には、色々思い浮かぶ。今日は、この前、私のブログを読まれた某先生に言われたことが頭によぎる。「タケバタさんは言葉に反応するんだね」

どういうことですか?と訪ねると、その先生はこう解説して下った。「タケバタさんは、本を読んで、気になる言葉やフレーズをブログに書かれている。僕は、その書かれたフレーズを見て、どういう理論や背景から、そういうフレーズをその人は出してきたのか、が気になる。」 それを伺って、whatとwhyの違いを思い知らされたような気がした。タケバタは常にその言葉が何か、というwhatを気にしているが、ご自身の中である程度の体系的思考が出来ている方なら、単純なwhatの内奥にあるwhyに注目されているのだな、と。

誰だって、whatのレベル、つまり口だけなら何とでも言える。でも、そのアウトプットとして出てきた言葉の背景に、どういう思惑や、どういう相手の論理、あるいはその組織の論理なり、主義主張の論理があるのか、という背景分析としてのwhyを見据えておかないと、簡単に「言葉」に騙されたり、踊らされたりする可能性があるのだ。特に、「先生」と呼ばれる人は、豚もおだてりゃ、ではないけれど、甘い「言葉」に騙されやすい。相手のロジックや路線に乗りやすい、という構造的危うさがあることを、よーく肝に銘じておかなければならないと思う。

相手が自分と同じ前提だ、と思いこみ、その前提条件について無批判であると、いつしかwhatばかり気にするようになる。でも、違う出所から来た、違う考えの持ち主の集まりが、この人間世界だ。ならば、自分の当たり前の前提条件こそを疑う。そして、そこから、whyという思考をくせにして、何らかの問題を考え続ける。そういうスタンスが必要なのではないか、

プールでひいひい汗をかきながら、そんなことを考えていた。

他方から一方を知る

 

今日から仕事始め。

とあるテキストの原稿の締め切りが1月末なので、うんうん言いながら、アイデアツリーに放り込んであった書きかけのメモと格闘する。ほんとは5日から格闘しはじめたのだけれど、どうも正月気分が抜けきっていないのか、あるいは気乗りがしないのか、全く書き始めることが出来ない。なので、5日もせっせとプールで汗をかく。あせっかきの僕は、プールの中でもちゃんと汗をかいているようだ。休憩中に、額からぼとぼと零れてくるのがわかる。これでないと、ダイエットには直結しない。

昨日の6日は大学の新年会があり、今日明日の休みが実質的にこの原稿に取り組める一番いいチャンス、なので、今日は午後から本腰を入れてモードを切り替えていく。ようやっと夕方くらいになって頭がそのモードになってきた。これなら、明日も大丈夫だろう。詰まっていたのは、とある部分についての調べ物がちゃんと出来ていなかった点と、別の部分について構想を練り直す必要があったから。とにかく、仕切直しの整理が出来たので、明日中にエイヤッとある程度固めてしまいたい。

そうやって午後、ずっと机の前にいたので、食事前にのんびり風呂読書。甲府は雪空で、電気あんかをしていても手足が冷え切っていたので、単に暖まりたかっただけなのに、手にした読みかけの新書をぼんやり読んでいるうちに、目から鱗の箇所に出会う。自分の今にとって実に大切な部分なので、少し長くなるが、引用してみたい。

「社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった二つの発想の様式がある。
 一方は、喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすものである。一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。
(中略)
 前者は、関係の積極的な実質を創出する議題。
 後者は、関係の消極的な形式を設定する議題。
(中略)
 社会の理想的なあり方を構想する仕方の発想の二つの様式は、こんにち対立するもののように現れているが、たがいに相補するものとして考えておくことができる。一方は美しく歓びに充ちた関係のユートピアたちを多彩に構想し、他方はこのようなユートピアたちが、それを望まない人たちにまで強いられる抑圧に転化することを警戒し、予防するルールのシステムを設計する。両者の構想者たちの間には、ほとんど『体質的』とさえ感じられる反発が火花を散らすことがあるが、一方のない他方は空虚なものであり、他方のない一方は危険なものである。それは、このような社会の構想の課題の二重性が、人間にとっての他者の、原的な両義性に対応しているからである。」(見田宗介「社会学入門-人間と社会の未来」岩波新書、p172-174

見田氏の前著「現代社会の理論」(岩波新書)が発刊された96年当時、大学で社会学をかじりかけていた僕は、すごく心惹かれながら読んだ記憶がある。ただ、当時の青臭い僕には、バタイユの「至高性」に基づきながら「生の直接的な充溢と歓喜」について論じている最後の部分が、よくわかっていなかった。正直、甘美な議論で、リアリティがないのでは、とすら、不遜ながら考えていた。それから10年あまり。以前のわからなかった箇所の事などすっかり忘れて読み進める中で、「関係の消極的な形式を設定する議題」と対比される形で出てきた「関係の積極的な実質を創出する議題」という表現が、すとんと腑に落ちた。なるほど、僕の頭から抜け落ちていた視点だ、と。

僕は昔から、なんだか不思議な志向性を持っているようで、おこがましいかもしれないが、自分なりに「社会の理想的なあり方を構想」したいなあ、と考えてきた。それは義務感でやっている、というより、何となく趣味的に、というか、そういうことを考えるのに違和感がなかった。だが、いつの頃からだろう、僕が普段から考えることの中心は、「人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするもの」で占められていた。そして、「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」という部分は、少なくとも自分の研究の中で重きを置いて来なかった気がする。

それゆえに、「両者の構想者たちの間には、ほとんど『体質的』とさえ感じられる反発が火花を散ら」してきた、という見田氏の指摘は、ほんとに心から納得する。福祉分野で「関係の積極的な実質を創出する議題」に接する時、それを素直に喜ぶどころか、「他方のない一方は危険なものである」と批判的にそういう議題をとらえ、だから「関係の消極的な形式を設定する議題」の方が切実であり第一義的に大切だ、と声高に叫んでいるタケバタがいた。でも、見田氏が言うように、それらは対立的なものではなく、「たがいに相補するものとして」捉えるべきものなのである。この部分をちゃんとわかっていなかったが為に、結局片手落ちのアンバランスな思考回路になり、相補的議論に耳を傾けられない『体質』になってしまっていたのだ。

最近よく引用する伊丹敬之氏が「見えない構造」と指摘している、自身のものの見方に関するこの偏り(=『体質』)に関して、見田氏の指摘は、より広い布置から相対化すると共に、新たな地図を指し示してくれているような気がする。そして、新たに広げられたこの地図を眺めてみて、相補的なもう一方にも、見覚えがあることに、今更ながら気づかされる。これって、プライベートで大切にしていることじゃん、と。

結婚してから努めて大切にしていること、それは「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすもの」そのものである。特にスウェーデンで半年暮らした後、このことを切実に感じるようになりはじめた。日本人ほどギチギチに働かない人も少なくないが、他方家庭生活をすごく大切にしている光景をしばしば現地で垣間見た。ノーマライゼーション実現のため、法制度など「ルールを明確化」してきた部分に憧れ、その部分を勉強しにいったのだが、半年住んでみる中で、多くの人々が、プライベートの部分で「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し」ようとしている姿に遭遇した。そういう姿を妻と共に垣間見たあとだからこそ、日本に帰って定職についた後も、なるべく大切な人との「関係の積極的な実質を創出する」ための時間的余裕を作ろうとしている。それがあるから、生きている喜びなのだし、それがないと、仕事もうまくいかない、と考えるようになってきたのだ。

そう、プライベートな部分で「関係の積極的な実質を創出する議題」の大切さを身にしみて感じ始めていたのに、研究の部分では「関係の消極的な形式を設定する議題」にのみ没頭している、というのも、アンバランスといえばアンバランスだったのだ。

そういえば今、アミューズメントに関するとある研究プロジェクトで、権利擁護研究という「関係の消極的な形式を設定する議題」を研究させてもらっている。何でこの二つがつながっているのか、直感的な把握をうまく言語化出来ていなかったが、見田氏の言葉を使えば、アミューズメントという「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざす」論題を、その相補的な側面から捉え直す、そんな研究をしていた、そうも言えそうだ。自分の中でごっちゃになっていた部分を、「社会の構想の課題の二重性」という形ですっきり整理してもらったおかげで、今抱えている研究の方向性についても、示唆をもらってしまった。

なんだか二重にも三重にも、自分の歪みやひずみ、知らなかった部分を教えてもらえ、整体をしてもらったような清々しさを感じた。さて、明日も頑張って原稿に励んでおかないと、来週末、スキーに行けない。「喜びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求」ためにも、目の前の仕事からどんどん片づけなければならないのだ。明日も頑張ろうっと。

とほほな松の内

 

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。

正月の実家廻りから甲府に帰ってみたら、とほほな事が二つ起こる。

一つは、体重がついに!限界の84キロ!!に。
この年末から正月にかけて、丸3キロは太ったことになる。唖然もあぜん。挨拶回りの際、恩師に真顔で「その年でその太り具合はいかん!」と言われたのに・・・。というわけで、今日から猛烈ダイエット。昼はプールでこってり泳ぎ、夜は納豆でおなかをある程度ふくらませてから、粗食中心の晩ご飯。実家ツアーの最中は連日飲んでいたので、当然今日は禁酒。節制な日々のスタートである。

節制といえば、年始に立ち寄った京都の本屋で、気になっていた光文社古典新訳文庫シリーズを立ち読み。面白そう、と購入した中に、その昔挫折したカント先生の論文も。中山元氏のわかりやすい翻訳なので、出だしから、厳格なカント先生の言葉がグサッと突き刺さる。

「ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。」(カント「啓蒙とは何か」『永久平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫p10-11)

そうであります。私の「怠慢と臆病」ゆえに、「自分で食事を節制する」という理性を未だに働かせずにきたのであります。カント先生は「考えるという面倒な仕事」を「他人にひきうけ」させている、僕のような人間を「未成年の状態」にある人、と一刀両断しているのだ。すいません。

で、このカント先生のお言葉がグサグサ来たのは、これだけではない。「未成年の状態」がもたらした帰結として、昨日自宅に帰って年賀状のチェックをして居たとき、二つ目の「とほほ」に出会う。そう、とある学会誌からrejectのお知らせが舞い込んだのだ。二人の査読者の評価が別れ、第三査読でrejectという決定になった、とのこと。嫌な予感はしていたが、現実に目の前にお知らせが届くと、正月から「とほほ」である。

だが、C評価をしてくださった査読者のコメントを読んでいて、自分に足りなかった部分が実に的確に指摘されていて、声が出ない。そうなんです。今回、あらたなジャンルに挑戦したのだが、不勉強な部分をみっちりとした論証で固めることを怠り、「自分の理性を働かせる代わりに書物に頼」ってしまったのが、最大の敗因だった。厳しい評価者のコメントは、見事にその「理性を働かせ」ていない部分に注がれている。もうすいません、としか言いようがない。

落ち込んで、悔しくて、風呂の中で以前読んだ「創造的論文の書き方」を二度読みする。今回はrejectされたブツを念頭に置きながら読むと、まあなんてこの本もグサグサと突き刺さるのだろう。

「多くの場合誤りとして起きるのは、理論を無理矢理適用して違和感も何も感じず、歪んでいる実感もなく、『これで説明できました』と称する結論を出してしまうことです。そんな論文もしばしばある。」(伊丹敬之「創造的論文の書き方」有斐閣 p42

お恥ずかしい限りだが、この指摘は今の自分にそっくり当てはまる。用いた理論ときちんと真正面から格闘していないから、違和感や歪みを感じながらも、中途半端な生成物を出してしまい、rejectの憂き目にあうのだ。M先生に言われた、「雑学王からの脱出」が出来てないのも、ひとえにこの部分に由来する。そして、それを克服するためにも、「考えるという面倒な仕事」を自分で引き受けて、最後まで貫き通す必要があるのだ。

「人に読んでもらう論文というのは、ある意味でプロとして人に読ませる論文でなければいけない。そうすると、読み手の側に立って、この論文でどういう結論が出てくるのか、ということを最終的には伝えるのが目的である。どうしてその結論が出てくると言えるのか、ということを説得するプロセスが、論文だと。そのつもりで論文全体を書かなければいけない。
 したがって、その説得のプロセスに、舞台裏が一部役に立つというのであれば、舞台裏を意図的に見せることはあってもいい。しかし、舞台裏だけ見せて、表舞台がないというのは困る。舞台裏を見せることを許すと、しばしば表舞台がないレポートが論文として出てきてしまう。したがって、『プロは舞台裏は決して見せてはならない』ということを強調する必要が出てくる。」(同上、p69)

そう、今回rejectされたのは、「説得するプロセス」が不明確だった、という部分も大きかった。ぐちゃぐちゃ書いていたら、こんな結論が出てしまった、という「表舞台がないレポート」だったのだ。そういう意味では、プロの論文ではなかったのだ。本当に、穴があったら入りたい心境である。

で、今回なにゆえこのような「舞台裏」を書きつづったのか。
ひとえに、書いて追い込む、という手法である。というのも、このふたつの「とほほ」も、放っておけば「フェータルな傷」(@志賀直哉)に直結する。そこで、今年、真正面から向き合って、一皮も二皮もむけて、「未成年状態」から脱出する必要を切実に感じている。だからこそ、ネガティブな情報の開示と、改善に向けた所信表明をしておきたかったのだ。つまり、今年の抱負としては、「明確な体重減」と「プロの書き手への進化」という二つの「変容」を宣言をしたかったのである。

ちなみに、去年の所信表明演説としては、「教育と研究、社会活動にプライベートの4者のバランス」、「薄く浅く、よりは濃く深く」、「イズムに流されるのではなく」、「現場主義」、「・・・にもかかわらず、諦めないで」を標榜していた。1年後振り返ってみると、ずいぶんと漠然とした所信だったような気がするが、一応どれも及第点は取っていたような。今年は、この昨年のベーシックな所信を引き継ぎつつ、新たな、そして明確な二つの所信をどう貫徹するか。大きな曲がり角にさしかかっているような気がしている。とほほ。

*ちなみにあまりに「とほほ」ゆえ、タイトルを間違えたことに5日になって気づきました。あな、恥ずかしや。とほほ。