ダイエットと枠組み

 

1週間のごぶさた、です。
これくらい期間が空いたのは久しぶり。何があったって? そう、読者の皆さんも大体お察しの通り、「仕事に追い込まれ」「風邪を引く」という王道を踏んでしまったのである。

この1週間、授業の最終週+ゼミの仕上げに向けての準備+来年度の準備に加え、土日は大学入試センター試験。入試委員の私は二日間、大学に12時間の缶詰状態。よくよく働いている日々が続いていた。で、木曜から怪しい風邪の兆候があったのだが、土日は監督業務もあったので咳も出来ないほど張りつめ、その糸が切れたら見事に風邪。今日は仕事をキャンセルできたので、一日寝込んでいた。なんせ、明日は定期試験の監督が4コマ!だしね。ああ、せっかくの月曜定例の教員テニスクラブには行けなかった。来週あたりから花粉症も気になるので、果たして初打ちはいつになることやら・・・。

そんなご無沙汰の一週間、納豆がスーパーに消え去ったり、「やらせ」発覚が新聞テレビで大きく報道されたり、と「豆」が注目される一週間だった。僕自身も、マイブームが「豆」。腹持ちが良く、食欲の抑制にもつながる「豆」は、いくつか読んだ栄養学や疫学からダイエットを考える本でも良いと言われていた。おからに豆入りミネストローネ、豆腐に納豆に豆サラダ、と豆づくしな日々が始まる。そういう意味では、「あるある」を見てスーパーへ納豆を買いに走る人を笑えない。事実、先週はいつも買う納豆がスーパーから払底していたので、生まれて初めて!?3パック140円の納豆を買う羽目になってしまった。倍の価格の納豆は、さすがに少し上品な味がしたような・・・。

今年からダイエットをスタートさせて、なんとか20日は続いている。やり始めて気づくのは、結局は意志の問題、ということ。お弁当の天ぷらの衣を外す、夜ご飯では肉の量を減らす、食べるスピードを遅らす、週に二回は何とかジムに通う・・・こういったことは、結局自分が「続けるんだ」と常に自覚的に意識したら、不可能な事ではない。それを「面倒くさい」「そこまでしなくとも」とためらうから、あるいは「どうせ何をやったって無理だから」とあきらめるから、続かない。この意志の問題と、裏表のような諦めの問題は、案外根深い問題のような気がする。

そういえば、昨日の晩、偽装逮捕の記事を読んでいて、気になる部分があった。

「県警は19日、男性宅からの電話の発信時刻と犯行時刻が近く犯行が物理的に不可能だとわかったことなどから、男性を無実と判断したと説明した。だが、実際には取り調べ中にアリバイが成立する可能性に気付きながらも「偽装だろう」と思い込み、裏付け捜査をしなかったという。
 また県警が男性宅を家宅捜索した際、現場で見つかった靴跡と同じサイズの靴を見つけられなかったのに、「捨てたに違いない」と疑問を持たなかったこともわかった。」

http://www.asahi.com/national/update/0121/TKY200701200320.html

○○に違いない」という思いこみ、自身の枠組みへの揺るぎない過信。この前提を信じ込んでしまうと、その前提に入らないデータは全て「不都合」「イレギュラー」と処理されてしまう。で、それらのデータの中に含まれている重要な、時には本質的な意味も、些細なゴミデータとして葬り去られてしまうのだ。自分自身が信じて疑いのない「枠組み」も、時には修正する必要がある、ということへの疑念のなさ。これがないと、様々な断片的データから示される危険信号をキャッチできない体質になってしまう。

「こいつが犯人に違いない」という枠組み、「黙っていたらバレない」という不二家の組織的隠蔽の枠組み、あるいは、あるある大辞典の「視聴率さえとれれば、多少無理しても仕方ない」という枠組み、これらの根底には、「○○に違いない」「○○だから仕方ない」という自分勝手な前提と、その枠組みから漏れて出てくる異変信号(アリバイを証明する証拠、賞味期限切れのシュークリーム、ねつ造した納豆効果)が出てきても、押し切れば何とかなる、と過信してしまい、結局自分で墓穴を掘ることにつながっているような気がする。

ダイエットだって、同じだと思う。僕は太る体質だから仕方ない、どうせやせる努力をしたって減らないに違いない、という枠組みの中から脱することが出来なければ、いつまでたっても、どういうダイエット法を試したって、その枠組みから抜けられないのだから、成功はしないのだ。逆に言えば、昨年12月に出された健康診断の結果のD判定とか、あるいは周りからの助言という異変信号を、枠組みへの疑問としてキャッチし、意志を持って、この枠組み自体から抜けるんだ、と強く気持ちを持つことが、食事や生活習慣、運動という面で、自分自身に変化をもたらすのである。

人間、自分が慣れ親しんできたやり方を変えるのは、実につらい。自己変革をあちこちで講演して廻っているが、自分自身の変革がこんなに身を切られるようなシンドサだとは、正直思ってもいなかった。でも、ここで昔の枠組みを言い訳にしていると、結局意志は続かない。悪循環のサークルから抜け出せない。他責的に「どうせ」なんて言わずに、自分事として「変わらなきゃ」とネガティブな事実をもまっすぐ引き受ける、枠組みを塗り替えるそういう変化が、今、いろんなところで求められているのだろうと思う。

こちらでは山梨県知事選挙で現職が破れたことが大ニュースだったが、全国的には宮崎のそのまんま東氏の当選が大きく報じられていた。どちらも、「変わらなきゃ」を求める有権者の願いが結びつている。当選された二人が、その有権者の思いをきちんと政策に活かして欲しいと思う一方、有権者自身が、他責的にならず、自身の枠組みの切り替えとして、この政治の問題に向き合っているか、が少し気になるところだ。「裏切られた」「信じていたのに」と過信をしてきた自身の枠組みへの反省がない中で、「この人ならば信じられると思う」という理屈は、納豆騒動に踊らされて文句を言う人々に何だか重なって見えてしまう。結局、他責的な枠組みに踊らされず、どんな情報でも自分の頭で考え直し、自分が納得いく解を、枠にとらわれずに探し、見つけた新たな枠組みが世間の流れと違っていても、今までのやり方と違ってしんどくても、意志を持って貫く、そういう当たり前な「自分の頭で考える」という結論が導き出されるような気がする。

ま、そうやって他人のことを批評する前に、まずは自分が変わらなきゃ。早く風邪を治して、プールに行こうっと。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。