44+12

 

今朝、国道58号線沿いの食堂「みかげ」で朝食を食べていた。
ここ2ヶ月ほどの忙殺スケジュールの「ご褒美」ではないが、つかの間のリフレッシュである。豆腐チャンプールが、朝から妙にうまかった。

そう、溜まったマイレージで夫婦二人分の国内旅行が行ける事になっていたので(それほど仕事で貯めてしまっていた)、初沖縄してみたのである。しかも、決めたのが、3月頭、ということもあり、飛行機はほぼ一杯。ようやくとれたのが、木曜午後1時羽田発、土曜午前11時45分沖縄発、という往復便。ということは、沖縄滞在がたったの44時間、である。ちなみにタイトルの+12、とは甲府-沖縄の移動時間である。片道6時間かけて出かけて、丸二日も現地に滞在できず、帰ってくる。実にあわただしい旅だが、しかし、本当に出かけて良かった。

昨年のちょうど今頃は、タイ、ミャンマー、ラオスの三カ国を巡っていた。そのときのブログにも書いていたかもしれないけれど、僕はアジア旅が基本的に好きである。なんてったって、日本に比べて、のんびりしていて、温かくて楽天的で、かつ食べ物が美味しい。この3拍子が揃っているのでタイにいきたい、という思いは強かったのだが、今回沖縄に出かけてみて、灯台もと暗し。沖縄も、立派にこの三拍子が揃っている。海やリゾート、という固定観念が強かったが、そういった要素のない「下見旅」でも充分楽しめたのだ。

そう、今回の沖縄はあくまで「下見旅」。直前に旅行を決め、まだ海のシーズンに早いので、泳ぐことも出来ない。しかも、タダの航空券のため、時間指定もままならない。たった44時間しか滞在できないから、リゾートホテルに予約しても、落ち着かない。なので、ホテルは那覇市の繁華街近くの、ちとこましなビジネスホテル。レンタカーも12時間でガソリン代をいれても5000円強、と大変リーズナブルな旅だった。でも、美味しい刺身も食べ、泡盛もたくさん頂き、デューティーフリーにアウトレットまで出かけ、夏物のジャケットまで買ってしまった。と書くと、こないだのカリフォルニアでスーツの話同様なんだかブルジョアチックなので、念のために申し添えておくと、ここ数年、服は最近アウトレットでしか購入せず、かつスーツやジャケットなどの「大学教員としての」基本的アイテムの持ち合わせはほとんどない。あか抜けない院生ファッションしかワードローブにはないので、まあ、この辺のお買い物は「必要経費」の範疇なのである。

お買い物といえば、こういう内地でも買えるもの、だけではない。最高気温27度の夏気分の中、道ばたで売られる沖縄の野菜や果物もたっぷりと買い込み、国際通りで典型的な観光客歩きも満喫する。市場では、沖縄仕込みの味噌も1kg買ってしまう。もちろん、自宅用の泡盛に、研究室で学生と食べるサーターアンタギーまで。こうやって現地でバクバク食べていると、去年のタイから帰国後なんか、ものの見事に太っていた。でも、沖縄料理は油を使っている割にはあっさりしていて、帰って体重計に乗っても、78キロ台をキープ。なんとか体重も許容範囲だし、明日以後再びせっせとジムに通えば、体重はまた元通りになるだろう。ほんと、よい気候と美味しい食べ物で、南国的雰囲気にすっかり身も心もほぐれていた。

だが実は、木曜日の段階では、かなり危なかったのだ。朝から扁桃腺はちょっと腫れているし、寒気もする。葛根湯を飲んで、厚着をして、列車でも飛行機でも昏々と眠り続けていた。なので、この旅は本当に大丈夫なのだろうか、という不安が先行していたのだ。だが・・・現地についてみたら、思いの外、暖かい。しかも緑の多い那覇市内で、時の流れも、のんびり穏やか。奥様所望のDFSに出かけた後、国際通りや公設市場を覗いていると、バンコクの喧噪を思い出す。しかも、その晩入ったホテルの近所の居酒屋では、超絶品な刺身の盛り合わせに、魚のバター焼き。オリオンビールと泡盛でクラクラしかけた頃には、すっかり風邪も二ヶ月間の仕事の疲れも吹っ飛んでいた。

タイに行かなくても、充分に南国の良さは満喫できる。しかもたった丸二日でも、めちゃくちゃ楽しめた。次は、もう少し作戦を練って、是非とも石垣島などの離島にも寄りたい。もう少し時間も取りたい。あれも食べたい・・・などと、「また来たい」と思うくらいの、満喫であった。甲府に帰ってくると、月末の原稿の最終チェックの仕事やら、年度明けの仕事のあれこれやら、急に現実に引き戻される。でも、2月3月の多忙の後に、こういうギアチェンジのための「潤滑油」がさされたので、何とかまた走り出せそうだ。4月以後、大学の仕事だけでなく、とある公的な仕事に相当翻弄されそうなので、その前に、身も心もリフレッシュできたのは、本当に良かった。さて、明日から新年度。早く沖縄時間から、仕事モードに立ち上げないと・・・。

落とし穴にはまらないために

 

恥ずかしい話なのだが、今年になって初めて「出汁」を取り始めた。

きっかけはまたもやダイエット。今年初めに読んだある栄養ジャーナリストの本を読んでいたら、煮物には一切砂糖を使わない、ちゃんと出汁を取れって、料理酒で味付けをすれば充分よい味が出る、と書いてあったのだ。とはいえ竹端家は結構砂糖を使った煮炊きものが多い。母親に聞いたところ、母親の実家(島根)では砂糖はそんなに入れなかったが、京都で育った私の祖母は醤油と砂糖で甘辛く煮る、実に内陸的な(京都的な)炊き方をしていたらしい。なので、父親からのリクエストで、次第に味付けも甘辛くなっていったそうな。母の味を再現する事がまず第一だった僕も、当然甘辛く煮ていた。でも、確かにこの本の著者の言うように「砂糖は百害あって一利なし」かもしれない。それなら・・・と、近所のスーパーで「そば・うどんに最適の鰹節」がうってたので、試しに買ってみた。すると・・・。

意外と簡単に、かつめちゃくちゃ美味しかったのだ。まず、安い昆布を買っておいて、それは一切れ、水煮する。ぐらぐらきたら、鰹節か、あるいは諏訪の魚屋で買った煮干しを放り込む。どちらにせよ5分程度、グラグラする。で、昆布と鰹節ないし煮干しをすくって、だし汁のできあがり。味噌汁ならあとは具をいれて一煮立てしたあと味噌を入れる。今日みたいに魚の煮付けなら、ここで具材を放り込み(今日はブリのあらに笹がきゴボウ)、酒とみりんで味付けてグラグラ。最後に醤油を適量いれたらオシマイ。どちらもやってみてわかったのだが、某「だのもと」時代とは全然違う、素材本来のおいしさが見事に引き出されている。いかにこれまで人工甘味料と砂糖味、で誤魔化してきたのか、と深く反省。それと共に、本来の出汁の素材を引き出す力、うまみを構成する力、に改めて恐れ入る。ヘルシーで、ほんとに美味しい。

ということをブログに書けるくらいなので、まあ何とか元気です。ただ、出張が終わった後、今度は年度末が締め切りの原稿3本に追われているので、なかなかドタバタしております。木曜日は研究室のお片づけに、土曜の講演レジュメ作成、そして我が家の仕事場のお片づけをやっているうちに日が暮れる。あけて金曜日は、大阪の「お母様」と共同作業である原稿の、自分の担当部分をサクサク書き上げて、また「お母様」にメールでお送りする。原則として他人との共同作業は自分のペースが守れないので好きではないのだが、尊敬する「お母様」との仕事は別格。いつも共同作業から、様々な叡智を頂き、多くのことをインスパイアされる。きっと、「お母様」からしたら、いい加減な僕の仕事に合わせることの方が大変なのだろうけれど、それでもこちらの問いかけ、書き方にも誠実に答えてくださるので、ありがたい限り。金曜の夜中までみっちり書き上げて、メールで送信する頃には、既に丑三つ時だった。

で、土曜は朝から別の草稿をサクサク書いて、講演に出かける。講演が終わって、地元のスーパーできのこをたんまり買い込んで、キノコパーティー”。薬膳料理的に、久しぶりにたんまりキノコを使い、また一個25円だった手羽元を20個買い込んで、寸胴鍋で大量にキノコスープを作る。日曜の朝はうどんをいれてキノコ汁、昼はそこに味噌も加えて味噌煮込みうどん、と一度の手間で三度美味しい料理だった。で、今、このリンクをはる為に調べていてびっくり。2006年1月7日は81キロだったんだね。その後、20070104日のブログではついに84キロを記録し、そこからダイエット開始。先ほど入浴後に体重計で測ったら、77.2キロ。今日は朝から夕方4時頃までみっちり別の原稿と格闘して、その後ジムでプールサウナ、で汗をかいた後なのだが、それでもよう頑張っているよね。というか、去年の正月より3キロ太っていた今年の正月って一体・・・、である。これらを、食生活改善と運動、という根本的な正攻法で改善するのが、今年の戦略なのだ。だから、出汁作りと、ダイエットは、きわめて真っ当である。

で、そういえば最近このブログでは書評らしきものはあんまり書けていない。本当は紹介したい本が数冊あるのだが、きっちり腰を落ち着けて紹介する余裕がないのだ。今日もちと酔っぱらってしまっているし。そんな折、ぱらっと開けた、最近読んで深く納得の一冊に、今日のこの流れと合致する箇所を発見。

「言いたいことは、初心を忘れないことがいかに困難かということだけだ。それに、手段であった信用蓄積が、いつの間にか目的に変わってしまい、かつての夢や志が消え失せていく政治家がいたとしても、だれが笑ったり、批判したりできるだろう。現実に染まっていくのは、政治家だろうが、ジャーナリスト、教育者、ビジネスマン、官僚だろうが、同じなのだから。」(野田智義、金井壽宏「リーダーシップの旅」光文社新書、p145)

理想を実現したい、という初心を貫徹するためには、多くの他者の理解が必要だ。その際、理解を得る上では「信用蓄積」という手段が大きな効力を発揮するが、いつの間にかその手段が自己目的化すると、気が付いたら初心ではなく、信用蓄積のための行動、という本末転倒な「現実に染」まる事態に陥ってしまう。だがこれは、何も政治家だけでなく、彼らを批判するジャーナリストや、私のような教育者、あるいはビジネスマンや官僚と、職種を超えて共通の「落とし穴だ」と著者達は指摘している。

他者を巻き込むことですら、これほどの落とし穴があるのだ。それだけ、自己をきちんと律することが求められる。その前に、まずは他人を巻き込まない自分だけで完結する場面でも、きちんと初心貫徹、という理念の内面化と完遂が求められる。

僕自身、脇がすごくあまい人間だし、いつも逃げるための言い訳を考えている人間だ。去年の時点で、81キロという自分の体重にも「忙しいし」「まあ何とか許容範囲だし」なんていう、よく考えたら何の説得材料にもならない事に自家中毒状態になって、結局その「現実に染」まった結果が、今年年始の84キロ越えにつながったのだ、と思う。他人に協力を仰ぐ以前の問題として、自分だけで解決できうる問題でも、これだけ苦しいのだ。そういう意味で、ちょっと偏屈なくらい、このブログでもかき立てたし、半ば意地になってダイエット作戦にここ3ヶ月取り組んできたが、「夢や志が消え失せ」ないためにも、ある種のよいリハビリになったように思う。問題は、これでよしとせず、だからこの体重を維持(ないしはさらなる減少)をさせながら、さて次はどういう「夢や志」で頑張りますか、ということである。

ま、それをちゃんと考える前に、まずは年度末の原稿を綺麗さっぱりと終わらせることの方が先ですよね。締め切りは、遅らせるため、ではなく、守るために存在している、はず。あと数日で終わる年度末前に、ちゃんと雁首そろえて出しておかないと、気持ちよく「年が越せない」。さて、あと数日、気張って頑張るとしますか。

「死のロード」を振り返る

 

長かった出張モードもようやく今日の日帰り東京出張でおしまい、である。

2月3月はとにかくひどかった。この2ヶ月で、記憶に残っているだけでも、大阪出張が6回、東京出張が2回、長野出張が2回、カリフォルニア出張1回、である。その間手帳も消えてしまったので、記憶も曖昧だが、たぶんこんな感じだっただろう。あ、その間に二泊三日で妙高高原に滑りにもいったっけ。ということは、ほんと、半分以上家にいなかったことになる。まるで夏の高校野球が開催中の阪神タイガースの「死のロード」のような日々であった。

身体はちとしんどいが、それでも風邪を引かずになんとか乗り越えられたのは、ひとえにダイエット&運動モードに入っていたから、だと思う。昨日帰宅後にはかったら78.4キロだったが、体重の減少だけでなく、この1月からの3ヶ月で、体重の減少で身体が軽くなったと共に、幾分体力がついた。ばてにくくなったのだ。ああ、しんど、と思っても、そこからもう少しだけエネルギーが出るようになってきたのだ。

この間、カリフォルニアのホテルでは5回、大阪のホテルでは7回ジムに行き、神戸のホテルで1回泳いだ。何だか執念、というかとりつかれたようにジムに行っていたことになる。そういえば数年前、イギリスの著名な地域精神保健福祉の研究者兼精神科医の講演会に出かけた折のこと、講演の内容はほとんど忘れたのだが、彼が「私は日本滞在中も毎日プールで泳いでいます。自分のメンタルヘルスのためにも」と言っていたことだけが、妙に頭の片隅に残っていた。で、今回それを実践してみて、確かにその通り、と体感。出張中はただでさえ枕と食事と生活パターンが変わるので、リズムが狂う。あと、インタビューにしろ、講演にしろ、確実にたくさんの人に会う。そういう出入力が普段と違った意味で過剰になってくると、どこかでバランスを取り直す瞬間がないと、身が持たない。それが運動していると、汗をどばっとかくと共にすっとバランスまでも取り戻してくるのだ。身体の軸がしゃんと戻ってくる気分である。

でそうやって身体をジムモードにしていくと、身体から欲するシグナルも以前より聞き取れるようになってきたような気がする。現に今も身体が「運動せえへんの?」と問いかけてくれているのだ。「ごめんね。今日は10時半の特急で東京に行かなあかんので、明日の夕方まで待ってね。」 山梨のジムには引っ越し直後から入会していたのだが、以前は「仕事が忙しいand/orしんどいジムを先送り」という悪循環に陥っていた。でも、実は心身のバランスを保つためには、「仕事が忙しいand/orしんどいだからこそジムで気分転換」が必要だったのだ。言われてみたらごく当たり前のことなのだが、心から納得する、というのはなかなか難しいものである。

ここ最近、福祉専門職の「態度変容」ということが、研究の焦点に挙がっている。講演でもあれこれしゃべり、インタビュー調査もそういう内容で行った。4月からは、大規模に地域に入ってそのお手伝いをすることになりそうだ。その際、人に言う前に自分が変わっていないと、と思っていたので、ある種の「人体実験」を今回挙行したことになる。で、自分で試してよくわかったこと。それは、納得しないといくら他人からやいやい言われても変わらない、ということ。で、納得するためには、納得しない限りは後がないと言うところにまで追い込むのも一つの方法である、ということ。それから、後がないところで、いきなり高いハードルだけでなく、すぐに出来そうな低めのハードルも提示しておけば、重い腰を上げることも不可能ではない、ということ。これらの体験知を、ちゃんと仕事に活かせれば、それこそもうけもん、である。

ま、こういう「もうけもん」があったから、「死のロード」も最終的にはよかったことにしよう、と楽観的に結論づけて、そろそろ東京行きの準備を始めるとしよう。

送り出す側、受け止める側

 

この一週間も高速で過ぎ去っていった。

日曜日の大阪に行って、水曜日まで調査などであれこれこなす。当然お宿はホテル京阪京橋で、朝からせっせとジム通い。で、食前に運動するとお腹が空いて、朝ご飯をもりもり食べていたら、何だか逆に太ってきたのか?、昨日甲府のジムのプールではかったら、79キロ。ううん・・・。ようわからんけど、食事量が多すぎるのと、あとは火曜の夜にイタメシ屋でチーズやら肉類やら最近さけていたものをドカ食いし、ワインをたんと飲んだことが原因か? あるいは、多少脂肪が筋肉になったのか? 両方のような気がしている。実は明日からもまた出張なのだが、なんと明日だけは定宿が満室でとれず! しゃあないので、明日は新大阪で宿を取るのだが、明後日から定宿が確保できたので、朝10時には京橋に向かい、荷物だけ預けて、執念のようにジムに行ってから、午後の現場に向かう予定。こうなったら、ジムが趣味状態になってきたのか・・・。

そう、水曜の朝まで大阪にいて、土曜にはまた大阪に舞い戻るのだったら、実家にでも泊まっていた方が移動を考えると楽なのだが・・・昨日今日と大学教員としてはずせない用事が。そう、昨日は卒業式だったのだ。2年前に初めて担当した3年生のゼミ生を、これも初めて送り出す日であった。先日カリフォルニアで買ったスーツと、年末に八ヶ岳のアウトレット屋で買った質のよい白シャツもおろし、新鮮な気分で大学へ。ギリギリ間に合った、3人のゼミ生の卒論を綴じた卒論集にメッセージを書いていると、今の3年ゼミ生達が花束を持って現れる。彼ら彼女らが自発的に考えた企画で、僕はその寄せ書きにもメッセージを書き込む。で、体育館での式典を終え、研究室でゼミ生3人に一人ずつ、卒業証書を手渡す。せっかくなので、お一人ずつ、代読しながら証書を手渡していると、いろいろな思い出がこみ上げてくる。

それまで大学や専門学校で授業はしていたし、専門学校の卒論は担当したことがあるが、大学のゼミを担当したことはなかった。しかも僕自身、大学時代は社会学系であり、母校の社会学講座は「自由放任」をモットーとしていたので、ゼミ単位、という発想が全くなかった。教育系や心理系の人々が毎週ゼミという場で集まっているのは少しうらやましかったが、でも大学3年生の時は学外でのボランティアにのめり込んで大学に寄りつかなかったので、ゼミがないのはありがたかった。しかも卒論時期になると、ちゃっかり社会学の重鎮の指導教官の先生のご自宅に指導をして頂きによく乗り込んでいた。大学院でも修士時代は同期がもう一人いたが、博士課程では講座では何名か同期がいたが、一期生で指導教官に対しては僕一人だけだったので、指導教官と僕、という枠組みには慣れていたものの、ゼミという場、は全くイメージすることが出来ていなかった。なので、試行錯誤のよちよち歩きからゼミはスタートする。

個性的な三人のゼミ生と、僕。私立大学としては珍しいたった計四人のゼミだったので、ゼミも研究室で行い、毎回お茶とお菓子を出しながら、とにかく色々しゃべっていた。最初は新聞記事を読んでのディスカッションなどもやっていたが、現場と離れたことをやるのがもどかしくなって、どうせなら、と車一台で出かけられる人数だったので、人づてにご紹介頂いた現場をいくつか訪問させて頂く。山梨の現場訪問は僕自身にとっても初めての経験なので、学生達と一緒になって質問したりしながら、ゼミ生達にもイメージを少しずつ抱いてもらう。そして、何となく興味が出てきた分野について、三人には夏休みにボランティアに出かけてもらい、夏休み明けにはそのレポートを提出。その後、その分野に関する本を読んで三週間に一度発表、という枠組みを作ってきた。三人によるとこのあたりから「だんだん大変になってきた」そうで、こちらも少しずつコツがつかめてきたので、グイグイと学生さん達を押していく。そこで、気づいた。あ、これって塾講師のやり方に似ているじゃん、と。

何度かこのブログにも書いたことがあるかも知れないが、僕は大学一年生の時から十年間、高校三年生相手の塾講師をし続けてきた。インチキ英語講師として、英語の担当者、というよりも、英語以外の受験指導や保護者面談、時には小論文指導なども一手に引き受ける何でも屋、だった。昔から「伝える」ということに興味を持っていたタケバタは、塾や予備校でも良い先生の授業の「型」をすごく学んでいたと思う。そして、それらの先生方から学んだ「型」を自分も伝える側になって試してみたい、とお節介にも思っていた。なので、大学一年の時から、そういうチャンスが巡ってきたのは、今から考えると、すごくラッキーだったのだろう。今にして思えば、よくもまあ、そういうアヤシイ大学一年生を、一つ下の子を教える、という世界に受け入れて頂いたものだ。

で、僕の青春時代の何割かは、この「教える」「伝える」という仕事に費やされていく。今にして思うと、もうちょっと勉強したり他のことに費やしてもよかったのだが、その当時、この二つが自分にとって一番面白いことの一つだった。たった一年、ないし二・三年(高校三年生のクラスだが、高一や高二の子もいる無学年英語クラスであった)のおつきあいで、一定の成果(大学合格)というゴールを目指し、相当密なコミュニケーションを取る。夜7時から10時、というのが一応の授業時間だが、その後第二部の裏授業をしたり、個人面談や相談にのったり、はたまた彼ら彼女らと語り合ったり、としているうちに、午前様になる、というのがごく当たり前のようにあった。そこで、忘れられない出会いをした生徒さんもいて、未だにやりとりをしたり、慕ってくださる方もいる。毎年10人から20人規模の少人数クラスだったので、今にして思えば、あれは明らかに一種のゼミナール状態、だった。

だが、大学で勤め始めた時、妙に塾世界と大学世界に線引きをしている自分がいた。塾では大学受験やセンター試験、という、割合ゴールがはっきり決まっていて、かつ○×がはっきりしている問題を解くためのスキルを身につけることに主眼がおかれている。成績が上がる、一定数志望校に合格させる、という絶対条件をクリアしないと翌年度の契約がない厳しい世界で、おかげさまで10年間、その条件をクリアし続けてきたのだ。だがこれまでは大学に送り出す側の視点しかなかった。それが、大学で受け止める側になった際、ゴールは一元的でないし、また内容も○×で解答できる課題ではないので、自分の中で「全く別」と考えていたのだ。ちなみにこのブログの母体であるsurumeの思想は、予備校講師時代に作り上げたものなので、大学教員になってから、それをうまく生かせずにいた。

でもよく考えてみると、表面的なゴール概念は違えど、1年2年というスパンで生徒とじっくり向き合って、こちらから一人一人にあった課題を出し、生徒はそれに必死になって取り組み、時には彼ら彼女らといろんな話題を語り合うことを通じて、大学受験なり卒論なりに向かって歩んでいく、という枠組み自体は、同じだった。そして、その枠組みなら、10年かけて練り上げてきたものがある、と、気づいたのが、山梨に来て半年を過ぎたあたりからだった。

そのころから、ゼミや授業に関する態度も変わる。当初は同僚に「どないしたらいいのだろう」とよく嘆いていたのだが、後期あたりから、「本質は塾や予備校講師とかわんない」と気づいていらい、遠慮することがなくなった。そう、厚かましいタケバタが、遠慮していたのだ。塾講師時代、学生を伸ばすために、相当圧力もかけたし、課題もたんと出したし、一人一人にかなりコミットもしていた。一定の成果を出し続けられたのは、そういう「あつい(熱い?暑苦しい?)」関わりの結果、だったのだ。でも、大学という正規教育の場に移し、妙によそよそしくなった、というか、遠慮した、というか、その場の雰囲気に飲まれた、というか、少し様子を見ていた、というか、つまりは一歩引いてしまっていた。もともと一歩も二歩もずかずかと学生に近づいていくのが自分の持ち味だったので、結局それを減じるような方向で動いていた。であれば、授業はうまくいくはずがない。ゼミにしても同じ。なので、すごく運営に困っていたのだが、どうしたらよいか、気づかせてくれたのも、この卒論一期生だった。彼ら彼女らと毎週お茶を飲みながら、時には自分がうまくいかない愚痴などを聞いてもらいながら、気づいたのだ。よく考えたら、彼ら彼女らは、僕が10年間付き合ってきた受験生とたいして年齢も変わらないじゃん、と。そこから、ふっきれたのである。

と、とんでもなく回り道をしたけれど、ようやく卒論生の話に戻ってくる。以来、ゼミ生は塾生、という目で見始めたので、就職活動の小論指導もしたし、卒論指導の課題も塾講師時代のようにどんどん出していき、要求レベルのバーもどんどん上げていった。大学時代にこんなに勉強したことがない、とゼミ生に言わしめるほど、課題をあれこれ出していった。でも、塾生同様、彼ら彼女らが出来ない一番下の部分に目線を合わせることから初めて、一つずつステップを駆け上がり、段々そのステップを高くしていくと、グイグイ伸びていく。要求レベルを上げれば上げるほど、彼ら彼女らのポテンシャルはどんどん拡がっていく。これは全くもって大学受験でも卒論指導でも同じだった。だから結果として、一期生の三人は、三者三様の見事な卒論を仕上げてくれた。そして昨日、その一期生達が、無事に巣立っていったのである。彼ら彼女らの二年間の成長に、自分自身の成長も重ね合わせ、本当に感慨もひとしおだった。

で、今日はこれから、長野の上田まで模擬講義。もうすぐ高校3年生になる「未来の大学生」相手に、1時間授業をしてくる。高校生から大学生まで、お客様の幅が増えたので、こういうお仕事は実に楽しい。なんせこちらは、大学に送り出す側も受け入れる側も経験しているのだ。さて、今日はどういう出会いがあるか。学生達にどういう新しい発見をしてもらえるか。送り出した後だから、すがすがしい新たな気持ちで、出かけてこよう。

ステップを踏み続ける

 

前回のブログを「途方に暮れる」で終えたところ、今朝メールをひらけたら、

途方に暮れている場合やないでしょ!

と叱咤激励のメールを頂く。

コメントに書くつもりだけれど閉鎖されていたから、ということなので、お名前を出すと、知る人ぞ知る「とみたさん」である。めちゃくちゃお忙しい実践者&研究者であるにもかかわらず(この前お会いした折りには「自立支援法痩せ」で相当ほほがこけておられた)、私が危うい議論の方向性に行きかける時、ぴしっと襟を正すようなご指摘を頂くことほどありがたいことはない。そういえば、以前社会構築主義に関して書いた時も、「ある大きな落とし穴に陥ると思います」とご指摘頂いておりました。今、イアン・ハッキングの「何が社会的に構成されるのか」リンクはその書評)などでにわか勉強(泥縄式勉強?)をしておりまして、そのうち、その件についても返信しなくちゃなあ、と思っております。

さて、つっこみを頂いた点について、ご紹介しておこう。

「『よりまし論』を展開するにおいて、その『よりまし論』が、根元的な問いかけにつながっていくのかどうかが、研究者に問われるのではないでしょうか?
いまの社会に『社会的弱者』として、カテゴライズされ、レッテルをはられたときに、その枠組みから逃れようとするならば、いまの社会経済構造の中での社会的強者にならないといけないというのが、『よりまし論』とするならば、いまの社会に『社会的弱者』として、カテゴライズされ、レッテルをはられたときに、その枠組みから逃れようとせずに生きていく術を考えることができるというのが、『根源論』
『根源論』は、グローバリストでも人権派でもないような気がします
『よりまし論』にたつのであれば、それはグローバリストでも人権派でもたいした違いではないですよね。
でも、地域の安全な生活を守るというみんなが望むことを、排除論でやるのか、それともインクルージョンでやるのかは、根本的に違うように思いますが・・・。
途方にくれてないで、もう少し、議論と思考を楽しんでくださいな」

はい、すいません。
どこから踏み出せばよいのか、という入り口でとまどっていた私を、ポンと一押ししてくださった発言だと受け止め、少し考えてみております。

「その『よりまし論』が、根元的な問いかけにつながっていくのかどうかが、研究者に問われるのではないでしょうか?」という問いかけに、深く頷くタケバタ。そう、私自身のスタンスとして、「よりまし論」にルーツを持たない抽象的議論で生きていくことだけは、絶対したくない。現場や運動に疲れ果てて、「よりまし論」と結びつかない「観念の遊び」状態に陥っておられるご様子の方々をみるにつけ、それだけは絶対にしたくない、と思っている。ちなみに、だからといって、本質的(抽象的)議論が意味がない、と言っているのでもない。「よりまし論」と「根元的な問いかけ」をつなげて本質的議論をされている方も、どの分野でもおられる。ただ、その両者の「つながり」を意識せず(というか現実に立脚せずに)、本質的「っぽい」議論を大上段に構えている文章に出会うと、何だかなぁ、と脱力感を覚えてしまう。

横道にそれたので、元に戻そう。
私の立脚点は常に「よりまし論」にありながら、でもパワーゲームの「ぶんどり合い」の枠組みではない何かへの「枠組みの掛け替え」にどう迫っていけるか、それを通じて「よりまし論」をどう書き換えられるか、である。精神病院のことをしつこく追いかけていて思うのは、現在も人間らしい暮らしの前提が否定されている病棟内の人がいて、精神病院より少しだけ「よりまし」なものとして、退院支援施設構想が代替案として示されている現状に対する憂いというか、そりゃないよなぁ、という憤りが常に立脚点にある。私は、この構想は、あまりにもご本人の諦めさせれた夢や希望、隔離収容の何十年間という重い現実への反省のない、cost-effective一辺倒の、ひどい「よりまし論」だと思う。そして、それよりましな「よりまし論」もあるよ、と大阪の退院促進事のことなど触れながら、あれこれ書いたりもしている。

ただ、「よりまし論」の議論に終始していては、構造的に勝ち負け論の枠組みから逃れられず、いつまでたっても「負け続ける」というのは、実につまらんよなぁ、と思い始めている。ウチダ氏の指摘も、結局のところ、そのパワーゲームの論理内で「ぶんどり合戦」に無批判に参加している限りにおいて、グローバリストも人権派も一緒だよ、ということなのだ。ゲームの対戦相手への批判はしても、そのゲームの枠組みそのものへの批判ではない限り、結局のところ、取り分の大小で一喜一憂するに留まり、勝ち負けでない他の何か、へ通じる道が開かれていない、という批判として僕は受け止めている。

「いまの社会に『社会的弱者』として、カテゴライズされ、レッテルをはられたときに、その枠組みから逃れようとせずに生きていく術を考えることができるというのが、『根源論』」というとみたさんの切り口は、本当に鋭く、そうだよなぁ、とこれにも深く頷く。スウェーデンに住んでいた時から考えている、ノーマライゼーションやインクルージョンということを日本の文脈で真に花開くためには何が必要なのだろう、という議論と、まさに通層低音を持っている話だ。そして、「ぶんどり合戦」の現実をしっかと見続けながら、一方で「よりまし論」を「根元論」へと昇華させるポイントを求めて暗闇の中をまさぐっている自分がいる。ただ、まだ現時点ではどこに「一筋の光」があるかわからないので、途方に暮れていたのだ。でも、とみたさんは最後に、

「途方にくれてないで、もう少し、議論と思考を楽しんでくださいな」

と愛の鞭!?(笑)。
そうですね、ステップは踏み続けることによって、どこかに通じる、と村上春樹もどこかで書いていましたっけ。じっと立ち止まってないで、今日もとぼとぼ、かつちょっと楽しみながら、議論と思考のステップを踏み続けてみようと思います。

スタートラインに立ってみたものの・・・

 

ようやく出張モードから正常モードに戻りつつある。とはいえ、今月はあと2回、出張はあるのだけれど・・・。

出張が続いていると、ものをなくしたり、部屋が散らかったり、で段々テンションも下がってくる。今回、産まれてはじめて手帳をなくしてしまい、カリフォルニアのホテルと飛行機会社に電話をかけたのだけれど見あたらないようで、結構ショックを受ける。まあ幸いに、最近のアポイントメントの大半はメールでやりとりしているので、これを機にグーグルカレンダーに打ち込んでおいたから、ほぼカバーできるだろう。ただ、もしも漏れていたら・・・と思うと恐ろしいのだが・・・。

あと、昨日は部屋を片づける。アメリカの荷物、だけでなく、出張した際の資料や、原稿を書くために持って帰ってきた資料など、ぐっちゃぐちゃになっている。昔は似非文士気取りで「こういう無秩序がよい」なんて思っていた阿呆な時期があったのだが、結局のところ、僕自身は物理的整理整頓なくして、頭の中も整理整頓されないようだ。この春休み中に報告書1本、教科書のある節を二本、書くことになっていて、出張も多いからボヤボヤしておれないのだが、何だか部屋も汚くて、まったくこの間やる気が出なかった。そこで、ちゃっちゃか整理する。あと、研究室の資料を今から片づけたら、ようやく原稿への臨戦態勢が整いそうだ。残された時間も後わずか。こりゃあ、精力的にならなければ・・・。

で、部屋の掃除をしていたら、ブログに取り上げようと思っていた本を発見。今もそれについてどう考えてよいか、考えがまとまらない箇所がある。

「雇用機会の拡大にしても、職業訓練機会の拡大にしても、年金制度や奨学金制度の充実にしても、要するに『金が要る』ということである。
だから、金が要るんだよ。みなさん、最後にはそうおっしゃる。だが、それが『金があれば社会問題のほとんどは解決できる』という思想に同意署名しているということにはもう少し自覚的であった方がいいのではないか。」(「狼少年のパラドクス-ウチダ式教育再生論」内田樹著、朝日新聞社、p50)

この「『金があれば社会問題のほとんどは解決できる』という思想」については、ウチダ先生はもっと辛辣に次のようにも述べている。

「『金で買えないものはない』と豪語するグローバリストと、『弱者にも金を配分しろ』と気色ばむ人権派は、教育に関わる難問は『金で何とかなる』と信じている点で、双生児のように似ている。
日本の教育は『金になるのか、ならないのか』を問うことだけがリアリズムだと信じてきた『六歳児の大人』たちによって荒廃を続けている。どこまで日本を破壊すれば、この趨勢はとどまるのであろうか。
私にはまだ先が見えない。」(同上、p91)

大学で学生達を見ていても、あるいは僕自身が山梨に引っ越すまで足かけ10年続けていた高校生相手の予備校講師の経験からも、「金になるのか、ならないのか」を自らの行動規範にする若者が増えていたり、それを助長する「六歳児」戦略が大学側や社会の側にも蔓延しているような気がする。そういう意味では、『六歳児の大人』の視点が、日本をとことん荒廃させている、というウチダ先生の視点はシビアに現実を射抜く分析である。

この後半の段落には深く「同意署名」出来るがゆえに、前者がグサッとささっている。

自立支援法に関する話をする際、制度が出てくる枠組み分析をする中で、「もとはと言えばお金がないというのが法制定の源にあった」「1割負担というのは、そういう意味では、なけなしの障害者の金を巻き上げる部分もある」などということを、多くの場合口にする。そして、精神障害者への福祉のように本当にこれまでチョボチョボの予算しか付かなかった分野については、「真っ当な退院支援にこそもっときちんとした財源を」を主張している。その前提の上で、ウチダ先生に言われて、自分自身への二つの問いが浮かぶ。この僕は、はたからみたら、「『弱者にも金を配分しろ』と気色ばむ人権派」とカテゴライズされるのだろうか? そして、「『金があれば社会問題のほとんどは解決できる』という思想に同意署名している」という点で、「『金で買えないものはない』と豪語するグローバリスト」と「双生児」のように準拠点が同じなのだろうか? この二つの問いが、僕を揺さぶっているのだ。

「気色ばむ人権派」という言葉で、ウチダ先生が言わんと意図していることが何となく推測できる。僕もこのブログで書いているが、“You are wrong!”という語法の裏には常に“I am right!!”というメタメッセージが潜んでいる。このメッセージ自体、自身の枠組みに対する無根拠な確信に基づいていたり、しかも間違っているのは「お金の使い方」である、と言う点で、正しいお金の使い方を私は知っている、という不遜な物言いをしていたりする、という構造的要因をはらんでいるのだ。自身の知に対する無批判と、批判しているはずの当の枠組みの中での解決策を求める、という点で、ウチダ先生がよく挙げるフェミニストと人権派のような「批判勢力」は、一定の批判は出来ているけれど、結局万年野党的批判であり、文字通りの意味でのラディカルな(根元的)批判ではない、という指摘にはうなずける。

ただ、問題は、それは自分以外の人に対する分析なら、なるほどねぇ、と思うのだが、当の私がその矛先だとしたら・・・ということなのだ。

正直、この点については、現時点でどう考えてよいか整理できていない。一方で、「限られたリソースのぶんどり合戦」、という身も蓋もないリアリティの中で、「よりまし論」を考えない限り、今日明日の状況は改善されない、という状況がある。だがもう一方で、そういう「ぶんどり合戦」に身を置いている限り、「社会的弱者」はその枠組み内での「戦い」においては「弱者」であるが故に構造的に負け続ける、という分析も、頷ける。では、その枠組みから脱した上で、その枠組みを超えて、教育・福祉・女性政策に限らず、日本における諸々の「荒廃」を乗り越えるためにどうしたらよいのか?

ここからは、人の枠組みではなく、自分の枠組みで考えないといかんような気がしている。とはいえ僕は、「考えないかんなぁ」というそのスタートラインにようやく立てただけなのだけれど・・・。

そして、僕は途方にくれる・・・

お土産3つ

 

塩尻から甲府に向かう普通列車の中でラップトップを開いている。それにしても、何だかこの1週間はめまぐるしかった。先週はアメリカにいた、なんて実感がほとんどない。でも忘れてしまわないうちに、少しは旅の足跡を残しておこう。

先週の金曜日まで、毎日相当ハードな調査を入れていた。アポイントは一日にひとつ、ないし二つでも、各現場でかなり突っ込んだ質問なり議論をする為には、こちらに相当程度の「予習」が求められる。しかしながらアメリカ出張直前は、毎週のように国内調査で大阪に出かけていたので、結局のところ満足に予習はできていない。とにかく必要最低限の資料をプリントアウトして鞄の中に詰め込み、あとは機内ホテルと泥縄式に読みながら、聞きたいことの枠組みを構築せざるを得ない。ありがたいことに、今回の調査では現地の権利擁護機関に紹介や顔つなぎ、アポを取れないところには連絡までして頂いたので、こちらがターゲットにしていた現場はすべて押さえる事ができた。そういうチャンスなので、こちらの準備不足で取りこぼしてはいけない。そう思うと、ホテルでカリフォルニアワインを飲んで良い気分、なんてバカンスモードではなく、久しぶりにみっちりお勉強した上で、各現場に臨んだ。おかげで、相当程度、現地のリアリティが頭に入ってくる調査ができた。

今回の調査は、障害者の権利擁護を多面的に調べる、というのが一番大きな目的であった。いつもお世話になっているカリフォルニアの公益法律事務所(Protection & Advocacy:PAI)での議論だけでなく、今回はcountyレベルでの患者の権利擁護官(Patient Rights Advocate)や虐待対応機関(Adult Protective Services)にも訪問する。どの現場で議論をしていても、civil rightsを護る法律が障害者に関してもきっちりしているので、その法に基づいて徹底的な調査や介入、改善案の提示などが示せている現状が見えてくる。我が国の場合、その法的な裏支えが希薄な中では、なかなかここまで踏み込んだ介入ができにくい、と実感。福祉政策を対外比較の視点で見ていると、それは北欧との比較であってもアメリカとの比較であっても一緒なのだが、結局現場レベルのミクロなリアリティとstate, countyのメゾレベルの枠組みの背後にある、法制度やそれを支える市民感覚といったマクロ的背景が見えてくる。日本にいて、現場の問題と向き合っているとなかなか見えてこないこのメゾ、マクロ的問題は、海外との比較、それも法制度や理念的比較、ではなくて、海外の現場のリアリティとの比較からこそ、浮かび上がってくる、と今回もひしひし感じる。この複眼的思考がないと、福祉政策は往々にしてイデオロギーや価値論の枠組みに陥ってしまうので、こうしてたまに海外の現場で自分のレンズを磨き直す、というか、再点検することは、そういう意味では「リフレッシュ」できてよろしい。ま、ほんとは海外になんか行かなくとも常にreflectiveであればよいのだけれど・・・。

さてさて、そうして金曜日までみっちり仕事して、帰国前日の土曜日は予備日で取っておいたのだけれど、せっかくなので向こうでも争点の的になっている某病院を「ぶらり訪問」。サンフランシスコに最後まで残っている、1300床の巨大病院。築50年以上のボロボロの病棟で、メディケイドというアメリカの公的保険機関が「この病院は基準を満たしていないから支払いができない」と言い出すほどの病棟。突然の訪問だったので病棟内部までみれなかったが、開放区域である廊下ごしに覗いてみるだけでも、日本の精神病棟に似た病棟空間が拡がっているのがわかる。この病院には多数の身体障害者や精神障害者、エイズ患者などが混在していて、少なからぬ数が社会的入院患者であり、権利擁護機関がその是非を巡って裁判を起こしているほどなの「いわく付き病院」。何だか強い既視感のある病棟を眺めていて、こういう社会的入院や隔離収容を放っておくとどうなるのか、については、洋の東西や文化的背景を超えた実に普遍的な問題性があることもよくわかる。その同じ問題に対して、社会的入院は差別だ、とクラスアクション(集団訴訟)に持ち込むアメリカと、何となく中途半端な退院促進事業と不自然な病院内住居(退院支援施設)の建設のセット、という曖昧な解決策に逃げようとする日本の、問題に対するアプローチやプロセスの違いが、非常に際だって感じられた訪問であった。

というわけで、帰国前日までみっちり働いていると、たまには良いこともある。ちょうどメイシーズという伊勢丹か高島屋のような百貨店が、我々が訪れた金曜土曜にかけて、二日間だけのバーゲンを開催していたのだ。ダイエットに勤しんでいても日本の「標準体型」よりオーバーしているタケバタにとって、欧米の服の方がすっと入ったりする。何だか海外での冬物バーゲンにはご縁があって、二年前の冬、山梨に就職する直前に超格安パックツアーで出かけたハワイではバナナリパブリックのスーツを、スウェーデンのイエテボリに住んでいた三年前には何故かイタリア洋品店でスーツを買っていたのだが、今回も良いご縁があった。

実は金曜の晩にご一緒したK先生と出かけた折りには、K先生は茶色の渋いスーツを買われたのだが、正直僕自身はあまり買う気もなく、特にピンとくるものはなかった。だが・・・土曜日、病院訪問後、チャイナタウンで「最後の晩餐」に出かける前に、何となく再訪してみると、昨日とは違うスーツが掛かっている。見ればウンガロの795ドルのスーツ。そりゃ十万円もすれば良いスーツよねぇ、と思いながら、そのコーナーの表示を見ると、149ドルの表示が。まさか、二万円そこそこで買える訳ないでしょう、と思いながら、スーツの値札をみると、395ドルの表示が。ま、半値なら妥当でしょうが、私にはご縁がありませんねぇ、と思いつつも、もしやもしや、と「念のため」売り場のお姉さんにおそるおそる、「あのう、もしかしてもしかすると、これは149ドルなんかで買えたりなんか、しないよねぇ」と恐る恐る尋ねてみると、お姉さんはにっこり「ええ、今日だけ149ドルよ」と仰るではないか。ま、そうはいっても、こういうブランドものって、結局上着は入っても、ウエストでアウトな事が多い。金曜日も一着だけよさげに見えたスーツも、結局ウエストがアウトで駄目だった。で、今回もあんまり期待せず、「念のため」と試着してみると、なんとなんと、上も下もぴったり。これほどダイエットに感謝した事はない。しかも売り場のお姉さんによれば、「少し拡げられるよ」だそうな。ものすごく着心地が良いだけでなく、高級スーツは細やかな気配りだ。そんな逸品を二万円弱という量販店価格で買えてしまうのだから、申し訳ないほどラッキー。みっちり働いていると、たまには良いことあるのね。

というわけで、貴重な現場のリアリティとスーツをお土産に、日曜日の昼の飛行機に乗って、機内で11時間すごすと、時差の関係で日本到着は月曜日の午後三時。ここから三時間とことこ列車を乗り継いで甲府まで帰り着き、風呂に入ってお約束の体重計に乗る。カリフォルニアのホテルでは1週間の滞在中、40ドルで七回利用できるジムのチケットを買ったのだが、結局なんとか5回利用して、一回10ドル、という元は取る。あと、ハンバーガーやステーキ、といった超脂っこいアメリカ料理はいっさい口にしなかったのだが、でも、K先生も僕もグルメなので、タイ料理にパキスタン料理、チャイニーズと探し当てた美味しいアジアン料理の各店で、毎度腹一杯食べまくっていた。なのでまたもや80キロ代に逆戻りか、と内心すごく恐れていたのだ。しかししかし、量ってみると79.6キロ。ずっと機内ではブロイラー状態だったにしては、上出来すぎる体重。三番目のギフトは、一番嬉しい「お土産」だったかもしれない。

そんな嬉しいお土産満載で、身も心もリフレッシュしたので、何だかその後、怒濤の日々をこなす。火曜日は朝一番の特急に乗って東京で会議を二つ掛け持ちし、水曜日は卒論発表会追い出しコンパ。木曜日は久々にプールで泳いだ後、たまっていた事務処理を大学でさくさくこなし、ついでに〆切期限になっていた次の火曜日の研修のパワーポイント用に新ネタを仕込む。ちなみにこの日の体重はついに78.2キロまで下がり、喜びは一塩。そして、金曜は朝6時半の静岡行き特急新幹線で大阪に到着し、かかりつけの漢方医に嬉しくなって体重減を報告。「もっと痩せないとね」とクールに言われて少しとほほとしながら、馴染みの髪切り屋でばっさり切ってもらい、夕方から西宮の現場職員への聞き取り調査。そして、京都の実家に泊まって今日土曜日は10年来のおつきあいのある友人の結婚式に参列。その後、一緒に列席していた、「大阪のお母様」と慕う大先輩と寺町のイノダコーヒーで久しぶりに議論。和やかな心温まる結婚式に、美味しい料理とお酒、そして久しぶりの楽しい会話に身も心も満腹になって、甲府に帰る車内の人になっていた。ふー。

塩尻から甲府まで、特急あずさでは1時間なのだが、ちょうど運悪く普通電車しか接続しておらず、30分甲府までよけいに時間がかかる。でも、この1時間半で、おかげさまでこの一週間を4000字にまとめられた。そう思うと、てーへんだったが、良い一週間だった、そういうことですね。あ、あと一駅で甲府だ。では、この辺で。