二つの世界

 

今朝は地震で目覚める。微弱な揺れだが、久しぶりにグラッとくると、嫌な感じ。
今日は5時半頃の揺れだったが、それから15分後の阪神大震災のとてつもない立て揺れが酷かったので、それを思いだして、嫌な感じになっていたのだ。まあ、今日は微弱な横揺れで、当時は11階、今日は3階、なので大きな違いだが。

嫌な感じ、というと、昨日は本当にその感じが続いていた。前日最終の「かいじ」で東京から帰ってきたので、寝不足だった、というのがベースにあった。その上に、仕事上のストレスやもやもや感、そして運動不足にさらには湿度の高さまで加わって、全体的に鬱々とした気分だったのだ。口をつくと、ネガティブな言葉しか出てこない。こういう時は部屋の掃除をするに限るのだが、掃除をしてみても、まだ気分は超低空飛行。これは、フィジカルな環境を変えねばまずい、と、その日に〆切の書類だけ何とか仕上げ、早々に大学を退出。5時前にはジムの人に。エアロバイクにサウナでこってり汗をかくと、ようやく心も体も楽になってくる。なるほど、水が溜まっていたんだねぇ。科学的な説明ではないが、イメージ的には体内が余計な水分で充満していたような感じだったので、水抜きして飽和状態から下げると、ぐっと楽になる。私の場合、気分の落ち込みは、身体的変調とリンクしていることが多いんだよなぁ、とつくづく感じる。

昨日のジムのお供に選んだのは、積ん読本だった一冊。インタビュー分析のために読まねば、と半ば義務的に持って行ったのだが、目を見開かれる思いがした。

「同一の世界について異なった経験が生じれば、それらはこの決定的な世界、つまり信任された世界と対立するものとして吟味され、表現され、誤った経験として扱われる。そして結局は誤った主観性の産物とされてしまうのだ。」(メルヴィン・ポルナー「おまえの心の迷いです-リアリティ分離のアナトミー」『エスノメソトロジー』せりか書房、p45)

昨日のジムに行くまでの鬱々とした気分。自分にとっては、どうも変な(=誤った)感じがしていた。だから、ジムで汗をかきながら、なんとかその感じを元に戻そうとしていていた。この変な、あるいは元に戻そう、という感覚は、「信任された世界と対立する」経験なのだ、という確信から生じる。一方で、「異なった経験」をしている、という事実はあるが、「信任された世界」への「決定的」な信頼があるがゆえに、その「異なった経験」のストーリーにはまりきることはなかった。「今日はあかん日やなぁ」と鬱々としていても、「いつもはそんなことはない」という「信任された世界」へのリアリティがまだ確実に残っているから、「信任された世界」に戻ることが可能だ。だが、それが戻れなくなるポイント、というのも確実に存在している。

「自己の最初の世界経験の正当性に対してコミットメントを放棄した者が再び基礎づけを獲得するのは、彼が以前に敵対していた者の世界経験を受け入れた後だけである。自己のコミットメントを変えること、つまり転向とはかつて敵対した集団に自己を加入させることに結局なる。彼は今や仲間であり、彼らの経験世界を共有する。彼が仲間だというのは、彼が『何が実際に起こったか』について彼らの世界経験に従い、それを準拠点として自分の昔の主張や経験がもとづいていた方法を主観的であり、にせもので、誤っていたことを明らかにするからである。」(同上、p62)

筆者はこの「転向」を「一つの基礎づけから別な基礎づけへの跳躍」(同上、p62)とも言っている。
僕が昨日体験していた鬱々とした気分は、まだ「一つの基礎づけ」の「世界経験」の枠内にあってのものだっただけに、「逸脱」経験の範疇の中にあり、「今日は変だ」という形でのコントロールなり、対処が可能なものである。だが、その「逸脱」経験が毎日継続的に続いていくと、やがて「逸脱」状態が常態化するようになる。すると、これまでの「基礎づけ」そのものへの不信感が募ってくる。「敵対していた者の世界経験」に近づいている、という意識を、それとは違う「世界経験」と併存させておくことは、すごくしんどい。だから、そのとき、元の世界に戻るか、別の世界に「転向」するか、の選択を迫られるのである。この「準拠点」の選択は、「跳躍」を時として伴うものであり、いったん飛んだら、もとの世界に戻れないものなのだ。

なぜそんなことが気になるのか? ポルナー氏の議論の先には、このような整理がなされている。

「研究者の世界経験がそれ以外の世界経験を考察するための準拠点として確立される。少なくとも分析者本人や彼の研究仲間は、分析者の世界経験に特権的地位を与えているため、それ以外の世界経験はただ単にどのような社会学的メカニズムや心理学的メカニズムによって維持されているのか探求されるだけになり、結局は皮肉られるのである。ここで分析者は、自己の世界経験に特権的な地位を与えることによって、まさに経験の政治学に従事しているのである。なぜなら、『何が実際に起こっているのか』を決定するとき、競合する世界経験に直面し、それに逆らっても自己の世界経験を準拠点として使うことによって、分析者はもはや合意を伴った経験のとどかない一つのコミットメントを選択し、それに基づいて行為しているからである。」(同上、p72)

ここに至って、最近繰り返しこのブログにも書いている、枠組みの限界性、ということと、ポルナー氏は同じ事を伝えていることに気づく。“You are wrong!”と何らかの対象に対して「問題がある」と宣言する時には、その背後に“I am right.”という暗黙の前提がある。この前提は、客観的なものを装っているが、実は「競合する世界経験」の中で、「合意を伴った経験の届かない一つのコミットメントを選択し」た上での判断基準なのである。つまりは、“I am right.”というのは、「自己の世界経験に特権的な地位を与える」ための、きわめて「政治学」的な言明なのである。

さて、話を昨日の話に戻してみよう。
私は昨日、大変鬱々とした気分だった。そして、それを「いつもとは違う」という形で「変だ」と有徴化してみていた。そのため、ジムに行き、サウナにも入り、汗をかいてスッキリして、「元に戻った」。これは、状態がその前の日と同じような形に戻った、つまりは「一つの基礎づけ」の枠内に留まったからこそ、昨日の自分を「皮肉る」ことが出来る。だが、もしも昨日のような気分がずっと続いていたら、どうなるのだろう? 「皮肉」ろうにも、その状態がずっと続いていたら、それは笑えない話だ。それまで自分が「競合する世界経験」と考えていたものを内面化してしまうと、「準拠点」そのものが揺さぶられる。その際、「転向」し、「自分の昔の主張や経験がもとづいていた方法を主観的であり、にせもので、誤っていたことを明らかにする」営みか、「自己の最初の世界経験の正当性」に固執する営みか、その二者択一しかないのだろうか? リアリティ分離の状態にあって、引き裂かれつつも両義的に考え続けることが出来ないのだろうか? この両義的な思考がなければ、障害者福祉の研究なんて所詮無理なのではないか?

そんなことを考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。