「余計なお世話」と「雪かき仕事」

 

大学が再開されると、日々本当にあっという間に過ぎていく。
夏休みも大変だったような気がするのだが、そんな記憶は本当に遠く遠くに消えている。夏休みのようにブログのマメな更新も出来なくなってしまう。何だか寂しい。毎日、グーグルカレンダーと睨めっこしながら、みちっと週末まで予定が食い込んでいて、ため息が漏れてしまう。

とはいえ、遊んでいない、というと、これまた嘘になる。金曜日の午後は、修理に出していた鞄が直った、と連絡を受けて、パートナーと共に八ヶ岳アウトレットに。服の在庫処分をした後だから、逆にどういうアイテムが足らんのか、もよくわかっているということを言い訳に、Tシャツやら秋物のセーターやら買ってしまう。まあ、三連休前日で、夏物処分も兼ねたバーゲンの準備をしていたので、掘り出し物にも巡り会えた。ほんと、甲府に来てから、服はアウトレットでしか買わなくなってしまった。

で、日曜日のお昼は新宿で金融系に勤める高校時代からの友人と久し振りに逢う。秋空のカフェテラスで、議論に花を咲かせる。20代に自分への投資に全勢力を傾けてしまった(だから自己資金が現時点でもほとんどない)私にとって、投資業務を本職とする友人の話は、「異国」の話として、大いに興味をそそられた。結局、自分のバランスシートも満足につけられていない現状に、色々問題もあることが明らかに。まあ、いきなり財テク(なんて旧い言葉)に走ることはまずないが、少なくとも「お小遣い帳」はちゃんとつけんとなぁ、と丼勘定の自身を反省する。これもダイエットと同じで、まずは「記録する」という事が肝心なのね。

そういう息抜きをしながらも、先週から今週にかけて、せっせこ「雪かき仕事」をする。このことは、よく引用する内田センセが、村上春樹論の中で、こんな風に書いていた。

「感謝もされず、対価も払われない。でも、そういう『センチネル(歩哨)』の仕事は誰かが担わなくてはならない。世の中には『誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる』というふうに考える人と、『誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう』と考える人の二種類がいる。(略)ときどき、『あ、オレがやります』と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。」(内田樹『村上春樹にご用心』アルテスパブリッシング、p29-30)

僕は昔から割と「おせっかい」な方なので、今、結構忙しいのも、なんだかんだと目についたり頼まれたりした事も、断らずに引き受けてしまうから、自分で首を絞めている。そういう事について、「余計なおせっかい」なんじゃないか、と、自問自答することもあったのだが、内田氏にこう整理してもらうと、わかりやすい。

そう、僕が先週末書いていた「他人が書かなかった原稿の穴埋め」も、今日まとめた「これまで未分化だった課題の交通整理」も、「余計なおせっかい」ではなく、ポジティブに考えれば、『誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる』種類の仕事なのだ。これを内田氏はセンチネルといい、村上春樹氏は「文化的雪かき」と表現しているのだが、どう形容しようと内容は同じ。「おせっかい」だけど、「余計」で「いらぬ」性質のものではなはない。でも、かといって、一部の場合を除き、特段に「感謝」「対価」がくっついてくる訳でもない。だけど、それを引き受けることによって、「人間的秩序はそこそこ保たれる」。そういう種類の仕事は、何だか僕のところに、割合廻ってくるような気がする。

結局そういうものを前にして、「誰かがやるだろう」と見ていても、誰もやる気配がないので、ついつい口出し手出ししてしまう。そういう性質の人間なのだ、タケバタは。それで、「人間的秩序」に「そこそこ」貢献できるのだから、ま、いっか、と納得してしまうから、単純なんだろう。でも、とにかく「雪かき」のように、目の前から一山消え、二山消えたら、その瞬間気持ちいいのは確か。さて、あと今月は幾山片づけたらいいのだろう、と思いながら、「雪かき仕事」に精を出すタケバタなのであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。