石を積み上げる

 

久々の休日。今朝の甲府の青空と同じように、清々しい。

今日は今から近所で午前中にお仕事があるのだが、それを除くとこの3連休、誰かから頼まれてどこかに行くという仕事が一つもない。ああ、喜ばしや。逆に言えば、11月頭から連続20日間あまり、全く休みなく働き続けていた事になる。さすがに最後の方は「キレ」やすくなっている自分を発見。この3連休だって、査読論文の修正やらとある教科書の校正やら、と家仕事をこなしながらだから完全なるオフ、にはならないけれど、でも「ゆっくり眠る」「ぼんやりする」ということなきまま突っ走っていると、本当によくないよね、と実感する。昨日は1ヶ月以上ぶり位にプールにも出かけ、30分間泳ぎ続ける。その後、身体が怠くってまったく仕事にならなかったのだが、これもそれだけ使っていない筋肉があった証拠。いやはや、きちんとメンテナンスしないとね。

そしてこの週末は校正系の仕事が多いので、その前に、と連休前の木曜の夜にジムで昇降マシン!?を漕ぎながら読み始めた本が、読み始めたら止まらない。久しぶりの休み前だし、と丑三つ時くらいまでに読み終えてしまう。

「こんなふうに始まるレシピがある。
たまねぎのみじん切り1と1/2カップを用意する。110グラムの無塩バターで、たまねぎがきつね色になるまで炒める。たまねぎは捨てる。バターはとっておく。
わたしの書くバターには、捨てたたまねぎの風味が閉じこめられている。書く作業の大部分は、完成した文章には姿をあらわさない。書く作業の大部分は、何を捨てるか決めることである。この本に書かれた1語につき、少なくとも5語を検討したうえで使わないことに決めている。ところが、不思議なことに残した言葉の中には、もうそこにない言葉の風味がとじこめられているのだ。」(ジェラルド・M・ワインバーグ著、伊豆原弓訳「ワインバーグの文章読本」翔泳社、p94)

ワインバーグの名はソフトウェア工学の世界では有名で、僕もとあるパソコンの天才からその名前を教えてもらったのだが、彼の書く本は独特の言い回しと、上手ではなさそうな翻訳のお陰で、最後まで読み終えた本は1冊もなかった。その割に3冊くらい持っているのは、今回の本の中のフレーズを借りると「文章がひどくて、内容に入り込むことができないのだが、入り込みたいという気持ちはいつもある」(同上、p109)からだ。しかし今回の本は翻訳が読みやすく、装丁もさっぱり風通しがよく(詰め詰めのげんなり、という形ではない)、しかも副題の「自然石構築法」とあるように、石を積み上げて壁を作るように、どのようにすれば無理なく様々な形の違う石から美しい壁ができあがるか、を書いてくれているので、非常に参考になった。で、ようやくバターの話である。

「もうそこにない言葉の風味がとじこめられている」言葉や文章。なるほど、奥行きのある文章というのは、きっとこういう風な文章を言うのだろう。あれもこれも盛り込もうと無理をして、ダラダラ言葉を重ねるのではなく、ひとたび草稿段階で色々書いた後、「何を捨てるか決め」、実際にバッサリ切り落とす。この作業を重ねるから、文脈に、段落に、全体に「風味」が出てくるのだ。そして、その「風味」を出すための極意を、別の章で著者はこんな風にも書いている。

「すべての章から一割けずる」(同上、p121) 「あとで一割削減法を使うとわかっているので、最初の草稿は『引き締める』ことを気にせずに自由に書くことが出来る。気楽に構えると、書くことがもっとおもしろくなる。」(同上、p129)

このブログが依頼・投稿原稿と違うのは、文字数を気にせず、気楽に構えて書けるからだ。逆にそれ以外の原稿には文字数(時には文体など)の指定がある。その指定という枠組みを気にすると、内容が萎縮しがちだ。だが、そうではなくて、自分のテイストを出すためにルンルン書き上げて、オーバー気味に書いて、そこからサクサク一割削れば、「もうそこにない言葉の風味がとじこめられている」言葉や文章になる、というのは、当たり前だが、改めて納得する理屈。「習うより慣れよ」を信条とするタケバタとしては、早速、査読論文の修正に活用してみる。

夏に出した査読論文なのだが、レフリーからは「BC」判定を頂く。どちらも、もう少し日本の内容に引きつけて(今回はアメリカのことを書いたので)書き直したら、掲載してもよい、というご助言を頂く。まさに仰る通りなのだが、既に元々の論文は字数制限一杯だ。そこで、「一割削減法」を使おう、と兎に角全ての章から一割削減を目標に赤ペンを片手に向き合ってみる。すると、冗長な文章がちゃんと出てくること、出てくること。それを削るだけで、あっという間に一割削減して、しかもこれまでより読みやすい流れが出来た。そこで、頭とおしりに日本の文脈に引きつけた内容を一割盛り込む。だが、それではまだ、本体との関連が充分にひっついていないので、今日もう一度一割削減法を実施した上で、書き足した部分と、本体とをくっつけるための「すきまを埋める」作業が必要になる。

「自然石の壁を作る場合と同様、文章を書く時にも余分なモルタルは好ましくないが、空積みの壁に使われる石には何の接合力もない。文章の石もうまく合わさらないことがあり、理論的には凸部をけずり落とした方がいいのだが、それも出来ない場合がある。そういう時には、石同士をぴったり合わせるために、小石やくさびやモルタルを足す必要がある。」(同上、p200)

そう、一割削り、更に必要な文脈を挿入したあとだからこそ、全体をくっつけるための「小石」「くさび」「モルタル」が最後に威力を発揮する。だがその際、すでに積み上げた石同士のつながりが充分に機能しているからこそ、最後に付け足す小石やくさびが念押しの補強になるのだ。逆に言えば、まだ積み上げた石同士がしっくり重なっていないのであれば、よりふさわしい重なりに入れ替えしないと、モルタルを塗りたくったところで、返ってその空疎や論理のすき間が目立ってしまう。なるほど、ワインバーグ氏のいうように、きちんと自然石を積み上げることをイメージしながら文書を書いていくのが、やはり一番大切なようだ。

さて、今から午前のお仕事なので、帰ってきて、最後の仕上げの段階にかかるとするか。

器量を構成する三要素

 

ブログが10日間も空いてしまった。この間、チェックして頂いた方がおられたとしたら、すいません。通常1週間以上空くブログは、読者が離れる、と言われているのですが、なんだかここしばらく、文字通り「忙殺」されていて、更新が出来なかったのです。(その割に他人のブログはちらと覗いているのだが)

このブログは単なる備忘録で終わるのはつまらなくて、ない頭を振り絞って+αを付け足そうとするのだが、そのためには1時間弱、というまとまった時間が必要で、そのまとまった時間が全く取れない日々が続いている。今日はパートナーが夕方車を使うので、早めに帰ることがようやっと出来た。なので、先週末の出張で遅まきながら買ってみたipodに入れるためのCDをインポートしながら、久しぶりにスルメと向き合う余裕が出来た。

そう、先週末は久しぶりに大阪に出張し、もともとのフィールドである精神障害者関連の現場の方々と議論や交歓する時間を持つことが出来た。やはり古巣は大切だ。ここしばらく、山梨の地域福祉の問題にグッと入り込んでいて、今年中に色々な新規事業が県・市町村レベルで立ち上がっていくお手伝いをすることに奔走されているものだから、なかなか当事者や支援者の方々の本音と向き合う時間がない。そういう状況だったから、大阪と神戸の現場の方々との議論の中で、改めて自立支援法の問題や社会保障制度改革全体の論点などを確認することが出来た。

現場のリアリティから離れたままでは、研究者のすることが「机上の空論」になってしまう危険性が高い。とはいえ、教育現場も現場だし、行政の現場もまた別の現場。つまり、自分が関わる色んな分野をバランスよく渡り歩きながら、螺旋階段的に上っていかなければならない。その渡り歩く分野が限定されている間はそれも難なく出来たのだが、その範囲や深度が広く深くなればなるほど、一つ一つの現場が「おざなり」で「いい加減」になる可能性がある。既にその兆しも見えていて、だから尚更、自身の器が問われているのだな、と感じるのだ。先週末の出張の帰りの車中で、それにピッタリの文言と出会っていたので、その感じがより深まっている。

「『あの人は器量が大きい』とか、『彼には器量がないから』といった表現を日常的によく聞く。その器量とは、何だろうか。私は、三つのものから器量は構成されているように思う。
(1)考えることのスケールの大きさと深さ
(2)異質な人を受け入れる度量
(3)想定外の出来事を呑み込む力」
(伊丹敬之『経営を見る眼』東洋経済新報社 p113-114)

以前にも丹氏の「創造的論文の書き方」を引いたことがあるが、氏の経営学のエッセンスが詰まっている入門書的な本書を読んでいて、目から鱗、の部分がたくさんあった。特に、この器量の部分に関しては、まさに今、自分自身が問われている3つのポイントと見事に重なるが故に、揺れる車中で実にあれこれ考えるきっかけを与えて頂いた。そういえば大阪の現場で再会した奈良のKさんも、「高血圧の人は揺れる車内で本を読む方が、頭が沈静化されて考えやすい」って言っていたっけ。どうりで僕も電車内でしかまともに勉強できないわけだ!? ま、そんな戯れ言はおいといて、伊丹氏はこの3つの内容を、次のようにパラフレーズもしている。

「第一の要件は、思考のパターンである。日頃から大きく深く考えるから、その人は『大きく、深い人物だ』と思える。周りの人には思いもつかない範囲まで考えたり、徹底的に考えたりしているから、みんなが納得する意見を言えるようになる。(略)第二の要件は、対人関係のパターンである。自分とは違うタイプの人を斥けない。どんな人かよくわからない段階でもまず前向きに信じてみようとする。そうした対人関係のパターンを持っていると、他人はその人に近づきやすくなるだろう。(略)第三の要件は、さまざまに自分の周りで起きてくる出来事への対処のパターンである。想定外の事が起きてしまうのは、世の常である。そのときに、うろたえずに落ち着いて的確な対応ができるかどうかで、その人の器量のかなりは決まる。想定外の出来事を呑み込むとは、まずその出来事を自分なりに大きな地図の中に位置づけることである。自分の置かれた位置がわからなければ、適切な対応の考えようがない。そしてさらに呑み込むとは、位置づけた後の事後処理をきちんとできるということである。その事後処理能力があれば、じつは事前にさまざまな出来事が起きても何とかなる、と思えるだろう。」(同上、p114-115)

ここしばらく、何故にブログを全く更新する余裕がないほど「忙殺」状態だったのか? それはまさに伊丹氏の指摘するこの3つの要件で、私自身の器量の臨界点を超えるような日々であったが故だと感じる。様々な問題が同時多発的に生成していく時に、どこまで僕自身が「徹底的に」「大きく深く」考えるか、が問われる。その際、考えきらずに未成熟な論や考えを開陳すると、思わぬ異論反論も続出する。そういう「想定外の出来事」に、ここしばらく色々遭遇する機会が多いのだが、出会ったショックでついつい「自分の置かれた位置」のマッピングがおろそかになることが少なくない。それゆえ、「事後処理能力」も頼りないから、なかなか「呑み込む」までに至らないケースもある。そういう至らなさを前にして、自信の未熟さが嫌になり、殻に閉じこもろうとするか、あるいは「自分とは違うタイプの人を斥けない」で、異論反論も「まず前向きに信じて」みることが出来るか、で次の展開が違ってくる。僕の数少ない得意な事に「まず前向きに信じ」ることがあるのだが、その基本フレームすら歪んでしまいそうな、そういう弱さと久しぶりに向き合う日々だったのだ。

そして、この人間の弱さに関する至言も、伊丹本の中に鎮座していた。

「人は性善なれども弱し」(同上、p249)

僕も心からこの至言に同意する。研究者として問題はあるかもしれないが、僕は人間を「性悪」として捉えたくない。あの人に言っても仕方ない、という悪口はどんな現場でもよく聞く。確かに「仕方ない」ほどの「前科」があるのかもしれないし、僕自身もその被害に遭っている(and/or今後遭う)かもしれない。でも、そうだからといって、「仕方ない」と決めつけることは、僕の信条としては好きではない。その人が、周りに「仕方ない」と思われてしまうような行動をとる背景には、その人なりの「弱さ」が背後にあることが多い。「どうしょうもない」「わからずや」と言われている人だって、「性善」に産まれたけれど、色々な重なりのなかで、「弱さ」が全面に出てしまい、それをカバーする為に、いつの間にかズルズルと位相が変わってきたのだ。その「弱さ」と「性善」の両方を見ることなく、どちらか一方だけを「過信」することは、実に危険だと思う。そういうことを、たったワンフレーズでサクッと整理している、このエッセイの凝集性はかなり高い。己にそんな文章が書けるか、と言われると、まだまだ年季も知恵も足りない。精進、精進。

大阪で立ち寄ったスターバックスで、カプチーノを入れるコップがもうクリスマス仕様になっていって、恐ろしく早く過ぎゆく日々に唖然とする今日この頃。でも、今年は本当に自分の器の小ささを実感しつつ、その器を広げるために試されている日々である、とも感じる。それほど、これまでに味わってこなかった、「異質な人」にも「想定外の出来事」にも遭遇しえているのだ。その遭遇をチャンスとして「受け入れ」「呑み込む」ことが出来るように、「考えることのスケール」をどう大きく、深くすることが可能か。まあ、これまでこの課題とがっぷり四つで向き合ってこなかったのだから、忙殺されようと、しっかり向き合ってみようかしら。そんな元気を、大阪の現場と伊丹氏の本から注がれた。

応答性と応責性

 

気がついたら秋真っ盛り。こちらは仕事真っ盛り

先週の土日は、多忙に睡眠不足に温度変化が重なって、とうとう風邪を引いてしまった。偶然にも日曜日の予定がなかったので、一日寝ていたら、何とか復活。月曜日の午前中まで横になっていたが、午後からは県の仕事小論文対策の授業、火曜は一日授業に学生対応、水曜は3つ授業に5時間強の会議、木曜日は授業が終わって夜は会議、金曜は9時から5時までのロングラン研修打ち上げ、と、文字通りの「目まぐるしさ」。今日明日は原稿執筆のために時間を取っておいたのだが、さすがに午前中は二度寝する。それくらいしないと、来週もえげつない日程なので持たない。シャツのボタンを付けたり、植木鉢の植え替えをしたり、と人間らしい仕事をしているうちに、ようやくリラックスしてきた。あたまが柔らかくなってきたので、「そういえば」と先週末に読んだ本を読み直す。

「僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的に到達できない、ということはもちろんある。たとえば-今がそうだ。そういうときにはただ仮説をいくつか提出するしかない。あるいは疑問そのものを次々にパラフレーズしていくしかない。あるいはその疑問の持つ構造を、何かほかのものに構造的に類比してしまうか。」(村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」文藝春秋、p163

「書くという作業を通して思考を形成していく」というのは、僕自身も全く同じだ。しかも、思慮が浅い僕の場合は、なかなか「目的に到達できない」ことも多い。その際、僕らが出来ることは、ムラカミさんが言うように、「仮説」を提示するか、疑問を「パラフレーズ」する、あるいは疑問の構造を「類比」すること。「仮説」にしても、言い換え(パラフレーズ)にしても、構造類比にしても、「問い」への何らかのレスポンスという意味では共通している。「わかりません」と安易に口にせず、何らかの形でその問いへの「応責性=説明責任」(accountability)を引き受けようとする。この姿勢こそ、「思考」を引き受ける姿勢だと思う。

ここ最近、仕事上の責任が増えてくるが、その際、単に対象に対する責任を全うするという意味での「応答性」、だけでは済まされない事態が増えている。自分のとった行動の影響に対する責任が伴ったり、その行動に対して説明することや批判を受けることも厭わない、という意味での「応責性」も、全うしなければならない事態に直面するのである。自身の行いには誰だって「応答性」があるのは当たり前だが、その波及効果も含めた「応責性」を引き受けるのは、正直、結構しんどいものである。しかしながら、公的性格を帯びた仕事であればあるほど、この「応責性」が重くのしかかってくる。そのような、結果責任に対して「わかりません」といえない事態だからこそ、「目的に到達できない」場合でも、せめて「仮説」を提示する、それが無理でもパラフレーズや構造類比など、一歩でも半歩でも歩みを進める、という姿勢が求められるのだ。

この際、感情的にグラグラしていては、何も始まらない。悩ましいのは山々だが、持てる選択肢についてきちんと考えた上で、決断し、歩を前に進めなければならないのだ。書きながら考える、という営みと同様に、活動しながら考える、ぶつかりながら考える、という姿勢でないと、事態は打開されない。ゆえに、しんどくても、風邪を引くほど弱ることがあっても、這ってでも、「思考」を引き受ける有責性が自分にはあるのだ。何とも因果な人生。ま、それを引き受けたのが他ならぬ自分自身なので、仕方ないのだが。さてはて、明日も〆切とドタバタ格闘の予定。匍匐前進でも、ちょっとは進めるはずである。なかなか簡単に「結論が出ない」が、まあよりよい「仮説」を求めて、漕ぎ出すとするか。