二つの排除

 

土曜日の朝、日の出の時刻、真っ裸で富士山を眺めていた。

ところは「ほったらかし温泉」。たまたま昨晩は10時半過ぎには床につき、パートナーと、「明日早起きしたら、久しぶりにほったらかしにでも行こう」と言ってたら、ほんとに5時半過ぎに目覚めてしまったのだ。6時前の甲府はまだ真っ暗だったが、車を30分ほど走らせて山梨市の山間までやってくるころには、ようやく明るくなってくる。こんな早い時間にもかかわらず、まあ沢山の車が止まっていること。しかもナンバーは練馬に横浜にと皆さんわざわざ関東近県からお越しになる。ここしばらく、テレビで再三この温泉が取り上げられたから、これだけの沢山のお客さんなのだろう。もちろん露天風呂も結構な人の数なのだが、それでも明けゆく空と曇り空の中に見え隠れする富士山を眺めていると、気分がすこーんと開放的になる。

で、開放的な気分もそこそこに、自宅に帰って身支度をした後、今度は東京へ。今日は午後から研究会がある日なのだ。電車の中で予習の本も読めてしまったので、以前から目をつけていた新宿の靴屋に立ち寄る。大阪でお世話になっている髪切り職人氏に教えてもらった靴屋なのだが、今日聞けば、この新宿店が本店だとか。非常に履きやすくて、かつ格好良い靴を、割とリーズナブルな価格で提供してくれている。以前大阪の同系列の店で買った革靴も大変気に入っているのだが、難点は着脱の際に引っかかり、少しくるぶしもいたい部分。今回はそれを伝えると、もっとラクチンな一足を出してもらう。履いてみたら、イメージにぴったり。即決で購入。その後、ジュンク堂でめっけもんの本も買い、伊勢丹ではパートナーがご所望のチーズに生ハムも買って、研究会の場所へ直行。クリスマス商戦まっただ中で非常に混み合った新宿で、しかもわずか1時間の滞在時間にしては、実に効率的だ。たまに都会に出てくるからこそ、「短期決戦」でぴったり決まると、嬉しい限り。

その後、研究会での議論の的が「社会的排除」。
ある本
を下敷きに議論をしていったのだが、もう一つこの概念がしっくりこない。「様々な人々が排除されている現実」はよくわかるのだが、彼ら彼女らは「排除されている立場」として資本主義経済にしっかり組み込まれている。再分配や資源へのアクセスからは排除・制限されているが、そのような立場として資本主義経済に組み込まれている(排除されていない)人々のことを、どう考えたらいいのか、がもう一つわからなかったのだ。

で、帰りの電車の中で、ジュンク堂で見つけた本を眺めていて、疑問にわかりやすく答えてくれる記述にであう。

「社会的排除の問題構成がみえにくくなりがちなこういう状況に対して、非-市民および部分的市民の排除の問題を検討する議論を参照する必要がある。非-市民は『外で排除されるもの』であり、部分的市民は『内で排除されるもの』である。具体的にいえば、非-市民はそもそもシティズンシップを持たない不法滞在の外国人や、国境を阻まれる難民である。部分的市民は、シティズンシップをもっていても二級市民扱いされ、十全な権利を享受出来ない女性やマイノリティなどである。後者に『内からのグローバル化』というベックの概念を重ね合わせるならば、コミュニティ内の部分的市民のあり方こそが、内部に生起するグローバル化の端的なあらわれであることがわかる。」(亀山俊朗「シティズンシップと社会的排除」福原宏幸編『社会的排除/包摂と社会政策』法律文化社、87-88)

研究会で議題に上がった本がフランスを念頭においた分析だったので、亀山氏が整理するところの「非-市民」の排除問題に大きく焦点化されていた。だが、日本においては「部分的市民」と見なされる人々の排除の問題が小さくないだけに、「非ー市民」の議論で「部分的市民」問題をどう捉えていいのか、がよくわからなかったのだ。だが、このように二つを整理した上で、両者の包摂に必要な戦略を提示してもらえると、少し頭の中がすっきりする。

ちょうど研究会でも、「コミュニティ内の部分的市民のあり方」についての議論が進んでいた。特に障害者を「部分的市民」として隔離・収容してきた歴史があり、今、地域移行という政策転換を行おうとしている(その中で多くの問題も発生している)日本において、この問題をどう考えたらいいのか。こういった障害者と社会政策のあり方をきちんと考えるために、研究会に足を運んでいる、というのが、僕の偽らざる実感。そうしてにわか勉強する中で、この問題は奥が深いことがわかってくる。

「『福祉国家のリベラル化』の立場からみると、再配分の軽視は、一級市民と二級市民の格差、『内で排除されるもの』と『外で排除されるもの』の分断を、結果として肯定することになる。『トランスナショナルな包摂』の立場からみると、再配分へのこだわりは、閉鎖的なナショナリティへの執着と同義であり、市民と非ー市民の分断を固定化する。」(同上、95

日本の障害者福祉にのみ目を向けると、議論の中心はやはり「再配分へのこだわり」になる。これはもちろん必要なのだけれど、こだわりすぎることによって、「閉鎖的なナショナリティへの執着」という結果をもたらしてしまう。このあたりのバランスを欠いた議論は、実に危険だ。とはいえ、「一級市民と二級市民の格差」問題を、黙っている訳にはいかない。ここ最近、この研究会で福祉国家と社会政策について議論してきたが、まだまだわからないことだらけ。現場との関わりも続けながら、こういうマクロ的視座からの勉強もし続けないとまずいなぁ、と感じながら、甲府への帰路についていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。