「資本主義的能力」へのザワザワっ感

 

2週間弱、ブログの更新が止まっていた。
すんません、生きております。元気でもおります。でも、まとまった時間がないんす。

一塊の文章を、出来れば他者の見解も入れながら書き留めようとすると、小一時間ほどかかる。その小一時間が、ここ最近、全く取れなかった。この2週間で一泊二日の出張二回、日帰り出張二回、丸一日の研修一回、講義に原稿に校正にと、目の前の雪の山をかいてもかいても減らない日々。挙げ句の果てに、そんな時間のない中で結構頑張って書いたとある原稿が、依頼元の都合で半分以下に削られる運命に。とほほ、と脱力しそうになる。でも、今日明日はセンター試験のお仕事なので、脱力してもいられない。痩せる思いだが、実際はジムにも行けないので、太りそう。今晩は仕事帰りにこってり泳がねば

そう、あんまり時間が取れないので、いつもの半分の時間で、メモ代わりにでも書いておかないと、フラストレーションがたまる。そこで、今日は30分一本勝負なのであります。

普段色々勉強させて頂いているとみたさんのブログは、今年、更新頻度がグッとあがり、考察されている内容も面白い。今朝読んだ文章ではこんなことが書かれていた。

『大きく引っ掛かっているのは「社会起業」ということばや概念なんだということがだんだんわかってきました。NPOの世界やその周辺の中で、最近、常に語られる「社会起業」。(略)いま、私たちが暮らしている社会の中で、できうることを少しずつ取り組んでいくという視点からみると、当然、これらはありなのでしょうが、どうしても、「資本主義的能力」を前提とした「強い個人」をその主体とする理屈にのって話をするときに、どうしても、ザワザワっとした違和感を感じているようです。』

僕自身もザワザワっ感を感じていたが、こういう風に文字化してくださると、「そうそう」と思わず頷いてしまう。こないだも金子郁容氏の「コミュニティ・ソリューション」を読んでいて感じたザワザワっ感である。金子氏曰く、

「インターネット社会では、次の二つの方向性が同時に進行するであろう。(略)
G
軸-世界が平準化しグローバル・スタンダードが支配的になる。
マーケット・メカニズムが一層重要になりグローバルな活動が必要となる。
C
軸-文化的・経済的多様性と分散化が進む。
たくさんの新しい関係性が発生し多種多様なコミュニティが形成される。
(略)
企業、NPO、行政などの組織がインターネット社会で生き残るには、グローバル性に特化するか、コミュニティ性を高めるか、それとも、(かなり難しいが)その両方を同時に進行するかの三つにひとつということになる。」(金子郁容「コミュニティ・ソリューション」岩波書店、p82-83

この整理自体は「すっきりしている」し、「美しい」のだが、何だか引っかかる部分がある。それがなんだろう、と思っていたのだが、金子氏の整理の背景にはとみたさんのいう『「資本主義的能力」を前提とした「強い個人」をその主体とする理屈』があるように感じられる。

社会起業も、何冊か囓ってみたが、やはりその中心には「強い個人」がいる。もちろん、そういう人々が何らかの器を作って、ソリューションを考えていくのだが、そこには「この人がいなくなってしまってはオシマイ」の壁が常にある。これは「強くない(=弱い)個人」を支える仕組みである時には、非常に危険なロジックだ。特に福祉の現場って、これまでだって公的支援が弱い中で、アントレプレナー的にゼロから構築してきた名うての支援者が一杯いた。そういう現場をすごいなと眺めていて、でも感じる危険性は、「この組織はあの人がいなくなればどうなるのだろう」という問題。人に依存するヒューマンサービスの組織では、ある程度仕方ない、ともいえなくないのだが、でも、組織が潰れてこまるのは、サービスを受けている「強くない(=弱い)個人」。しかも、その人の「弱さ」は、人間的なもの、というより、「資本主義的能力」という部分的な「弱さ」である。それを補完する為の仕組みが、「資本主義的能力」に基づいた論理で構築されていたら、危ういのではないか。何だかそんなことを感じている。

どうも尻すぼみだが、そろそろ出社の時間。続きはまた、細切れの30分に。

ウダウダから可視化へ

 

気がつけば正月休みも終わり、こちらも仕事モード。
申し遅れましたが、今年もこのブログをどうぞよろしくお願いします。

で、タケバタは新年早々の出張。昨年末にエアエッジ君を購入してしまったので、「しなの」の車中からでもこのスルメが更新できてしまう。いいんだか、悪いんだか。

この正月も1300キロかけて、実家ツアーに出かけてきた。渋滞予測の通り、今年は分散型だったようで、行きも帰りも若干の渋滞はあったものの、おおむね順調に旅を続ける事が出来た。日程を去年よりも一日延ばした、ということもあってか、だいぶのんびり出来た帰省であった。本当に電源を抜いたようになると、このオシャベリさんが、ほとんどぼんやり口数少なくなってしまう。特に後半の京都の実家では、気も抜いた為、酔いも早くまわり、おとそも大していただかないうちに、すっかり出来上がって、居眠りしてしまう。

そのおかげもあってか、昨日一昨日とジムに出かけたが、今年はほとんど正月太りすることなく、帰宅することが出来た。ちゃんと岡山でも京都でも歩く機会もあったし、正月早々悪くない滑り出しである。この調子で新年からバランスを取っていかないとねぇ。

で、山梨に帰った翌日から、こちらは仕事始め。年末にある程度仕事を片づけておいた、と思ったら、さにあらず。そういえば年末に「年明けまでにA4で10枚程度」「2月の学会発表を」なんて恐ろしい宿題も引き受けてしまった事もあって、年明けからデッドラインのある仕事がわんさかある。そうそう、来月はスウェーデン調査に行くつもりだが、その日程の確定も、年末になってようやく決めたところ。どうも昨年の特に後半は、決断力が鈍くなる(遅くなる)がゆえに、仕事が後手後手に回っていたことが多かった。その背景には、こんなつぶやきが隠されている。

「この決断をしてもよいのだろうか」「他の条件が整わないと」「正しい判断だろうか

普段のええかげんなタケバタからは想像できないかもしれないが、僕の本来の性格は「石橋を叩いて渡る」タイプであった。だから「機が熟すまで」「ギリギリまで」判断材料を並べて、ウダウダ悩むことも少なくなかった。もちろん、何にも考えずに右から左、という思考は問題がある。とはいえ、一定量以上の仕事を扱うようになってくると、多くのタスクに関して、先送りしていると、そのうち忘れてしまう。それよりは、「えいや」と決断して、駄目だったらその時考える、という方が、多少はましなのではないか、ようやくそう思い始めたのだ。

こんな事を書いていると、自己啓発系ビジネス書の亜流のようだが、でも実際、決断の先送りは、あまりよい結果をもたらさない。それでも不安な場合、まずはその要素を全部書き出して検討してみたらいい、ということで、ある方に教えてもらったマインドマネージャの体験版をインストールしてみる。なるほど、放射線状に整理してみると、不安や未決材料も可視化されてくる。不安なのは、考えがまとまらず、しかもそのまとまらない要素が整理(可視化)されていないから起こる場合が、僕の場合は多い。それなら、こうして決断が鈍る際にはどんどん可視化していくことによって、とりあえずの決断が出来る。そのプロセスを残しておけば、後で再検討する時も、どの時点でのどの判断に問題があったか、を理解することが出来る。天才型ではない人間にとって、自身の直感を可視化して補強するこの手法は、結構使える。というわけで、昨年末からマインドマネージャーにお世話になって、どんどんマインドマップを作って整理していく。おかげで、未決状態だった懸案の仕事もだいぶ整理できた。後は書くだけである。

今年はこういう思考の補助具をフル活用して、ウダウダしていずに、もう少し仕事(や決断)の効率化とスピードアップ(もちろん質を落とさずに)をしなければ、と改めて思う。やることは、次から次へと振ってくる。断る、という選択肢もあって、もちろんそうさせて頂く場合もある。でも、社会的使命、というほどではないけれど、このスタンス・現場であるが故にお願いされた仕事では、断れない場合もある。一度引き受けたなら、いい加減に終わらしたくない。でも、正月に電源を抜く日々をすごして実感するのだが、こういう休暇もちゃんとコンスタントにとらないと、バッテリーが上がる、だけでなく、回路がショートする日もそう遠くないような気もする。しかも、そういう最終的なバランスは、他人ではなく自己責任。ならば、仕事の効率化と休みの確保、という当たり前のような(かつ日本ではなかなか確保しにくい)ことをするしか、楽しく一年は過ごせない。

というわけで、今年はちゃんと働くけれど、ちゃんと休みもとろう、と心に決めたのでありました。
手始めは、2月のスキーから。しっかり楽しめるように、今月の〆切三昧を乗り切ろうっと。