那覇空港より

 

先週はコペンハーゲンで、今週は那覇、節操なく空港から書いております。

日曜日に山梨に帰り着き、時差ぼけする間もなく、月曜日からゼミに県自立支援協議会に東京出張に、とドタバタしていた。ここしばらく、11時か12時に寝て7時に起きる、というリズムがかなり確立されているためか、スウェーデンのようにそれが大きくずれると、本当に身体きつく、時差ぼけもしんどい。だが逆に、日本に帰ってくると、日常に戻る事もあってか、思いの外スムーズに時差ぼけなく日本に順応する。それはよいのだが、スウェーデンの記憶がもう薄れつつあるのが非常にまずいのだが

で、今週はこの1年間かけて準備してきたことが、新たな局面にさしかかりつつある。
火曜日は、ようやく県の自立支援協議会の第一回会合が行われる。この自立支援協議会というのは、自立支援法の中で市町村、都道府県単位に実施が義務づけられているもので、地域での政策課題を、障害当事者と関係機関が同じテーブルについて議論出来る場だ。厚労省はこれに力を入れているが、現時点で設置されているのは1800近い市町村のうちの4割。また、その内容も、千差万別になりはじめている(と予想される。なんせ、ネガティブな実態についてはなかなか語られる事がないので)。

でも、千差万別、と書いたのは、この協議会さえ開けば薔薇色、とは僕自身、思ってはいないからだ。行政が開く各種審議会、公聴会、協議会に類するものの中には、形骸化したものもあれば、そこまでいかなくとも「魂のこもっていない」会、あるいは「地域代表のガス抜き会」といったものもあったと思う。で、この自立支援協議会だって、当然のことながら、同じ危険性を孕んでいる。

だからこそ、山梨では「出来る限り実質的な議論の場を作ろう」と下準備を重ねてきた。拙速に形だけを作るのではなく、行政の担当者と各領域の地域代表者が膝を詰めて全県的課題を議論できるような場作りをしよう、と構想を練ってきた。行政担当者にも、地域の様々な支援者とも、方向性をお互いに納得しあうために、何度も何度も話をしてきた。その上で、ようやく第一回の会合、という入口にたどり着けたのである。だからこそ、この第一回会合から、早速各種課題の整理のための準備作業が始まっている。セレモニーよりも実質的議論のスタートに、感慨深げになる暇もなく、動き始めた。

また、金曜日は各地域で山梨の地域作りの旗振り役のone of themになって頂いている、各コーディネーターの方々と合宿をしながら議論。夜中までとことん話し合う。措置制度から支援費制度、障害者自立支援法とこの数年で法律がガラガラと変わる中で、地域の当事者・家族の声を「圏域ネットワーク会議」としてまとめてこられたコーディネーターの方々の位置づけも、大きく変わりつつある。そのまっただ中にあって、皆さんの役割を再確認しながら、県や地域自立支援協議会の中でどう地域支援に取り組んでいけるか、について、具体的に議論を重ねていた。地域で解決しきれない課題を話し合う県の器(県自立支援協議会)が出来たからこそ、そこでどういう中身ある議論が出来るか、が、市町村の現場で再度問われている。その意味で、県の体制だけでおしまい、ではなく、地域レベルと県レベルの課題共有と解決に向けた模索をどうしていくのか、という往復をどうしていこうか、が目下の最重要課題なのである。

という議論内容も踏まえ、日曜朝は場所を変え、ジャケットがないと少し肌寒いくらいの沖縄で、とある学会の自由報告してし上記課題を発表していた。「障害者福祉政策とソーシャルアクション-インキュベーターとしての自立支援協議会」というタイトルもアヤシイが、この自立支援協議会が新たな社会資源創出の為の公的な「インキュベーター」機能を持ちうるとしたうえで、それを実質的に機能させるために各アクターがどう動くべきか、といったようなことを、報告していた。90年代に言われた「住民参加の福祉計画作り」が、うまくいったところもあるが、形骸的に終わった地域も少なくない。障害福祉計画にしても、しかり。この「住民参加」や「参画」について、自立支援協議会という枠組みをどう使えるか、そのために、各地域の当事者・行政担当者・コーディネーター・支援者といったアクターがどのようなリーダーシップを取りうるか。こういった成熟途中の課題を、幾ばくかの理論的視点も混ぜながら、現在検討中の課題としてフロアの皆さんに投げかけ、有意義なコメントを頂けた、と思う。

なんだか、今回は研究者としてなのか、実践者としてなのか、の位置づけがしにくく、その間の立場で話をしていたようだが、たまに現場を離れ、アカデミックなモードで少しこの現場の事象を整理する事は、自分のスタンスを再確認・再点検する意味でも非常に有益だ。そういう意味で、この1週間は、大いに自分のスタンスやこれまでの歩みを振り返る良い機会になった。

明日は朝からある圏域で、この1年間の変化について、県の動きについてなど、地域の現場に報告する機会があり、24時間滞在で山梨に戻る、というドタバタぶり。だが、ちゃっかりと買い物もしていた。去年沖縄にたった44時間だが滞在していたので、地図はなくても土地勘はおぼろげながらある。今回はゆいレールの牧志駅内のコインロッカーに荷物もジャケットも放り込み、国際通りをすたすた歩いて、繁華街へ。公設市場はたまたま休みだったが、ソーキそばを食べ、付近の露天で買い物もし、以前立ち寄っていい泡盛を教えてくれた泡盛専門店でパートナーへのお土産も買って、空港にたどり着き、現在に至る。

これから山梨まで5時間半かけて帰るのか、と思うと、ぐったりするが、まあ、しゃあない。今週の木曜日には北欧の調査報告をしなければならず、それ以外の原稿もある。粛々と、文化的雪かきのごとく、目の前の仕事を飛行機の中でも片づけていこう。そう、来週末は久しぶりにスキーだし。そんなことを考えながら、そろそろ搭乗案内のアナウンスが始まった。

あわてんぼうのサンタクロース

 

コペンハーゲン空港、時刻は午後1時を迎えるところである。

前回は水曜の現地時間午後、ストックホルム空港からお伝えしたが、その後、イエテボリに移動。イエテボリでは、以前の調査でお世話になった団体の支援者Aさんとその息子さんが迎えてくれる。なんでも風邪を引いて学校を休んでいるんだけれど、よくなった、とかで、二人で出迎えてくれた。ストックホルムでは全く知り合いがおらず、風邪を引きかけたこともあって心細かった。だから、余計にこういう歓迎は嬉しい限り。第二の我が家に戻ってきた気分である。

落ち着ける、というとノルドスタン(イエテボリ最大のショッピングセンター)の中にある投宿したホテルでは、バスタブがあった。ストックホルムのホテルではバスタブがなかったので、これは嬉しい限り。昔はさして気にならなかったけど、年を取ると、海外に出かけた際、普段と同じ環境でくつろげるかどうか、で仕事の質が全然違ってくる、と感じている。

それは、昨日の晩、ある日本人のご家庭で頂いたみそ汁をすすりながらも感じる。わざわざホテルやレストランで高いお金でかつあまり美味しくなさそうなshishiやらsobaを食べたいとは思わない。だが、例えば即席みそ汁であったり、あるいはこういったおよばれの席でみそ汁が出てくると、それだけでふわっと安らぐ。お風呂にしても、食べ物にしても、ダイレクトに身体に効くものは、海外出張時のような環境変化の負荷が大きいときほど、ありがたい。両方ともまさに「身に浸みる」効果があったのだ。

で、数珠繋ぎ的に書いていくと、調査自体も今回はきちんと内面化(=身に染み渡る)ものとなった。4年前、スウェーデンに住んでいたおり、最終報告書としてこんなことを書いた。

「スウェーデンではノーマライゼーションがどこまで浸透したか?」

この報告書は副題に「グルンデン協会におけるself advocacyのあり方とイエテボリ市における地域生活支援ネットワーク調査に基づいて」とつけたように、知的障害者の当事者団体(セルフアドボカシーグループ)の活動を追いかけた内容と、ある市における障害者支援の実情を調べたものの二本立てになっている。で、その調査の続きとして、前回スウェーデンに訪れた際(2006年秋)は、そのグルンデン協会のその後を追いかけていた。今回のスウェーデン調査では、後者の、スウェーデンにおける障害者の地域生活支援のその後、を調べていたことになる。(と今こうやって書いてみて、ようやく気づいた!)

4年前の報告書にはもちろん様々な限界やもっと書くべきであったことなどを感じたから、こうやって追加調査に訪れている。だが、でもそれを割り引いたとしても、手前みそだが、わりかしこの報告書は内容がてんこ盛りだと思う。ただ、半年の現地滞在で見聞きしたことを一つの報告の中にギュッと入れようとがんばりすぎて、読み手にとって(ということは後で読む僕自身にも)話題が広範すぎて、というか、情報の編集が下手くそで、きちんと書いている際に伝えたかった事が、伝えにくいパッケージになっていた。今回4年ぶりにその報告書を読み直し、またフォローアップの調査をしても、わりかしこの調査時の知見がポイントを突いていた、と再発見する。そして、この4年間で失敗の中から少しは学んで、次に書く際は、もう少し的を絞って(焦点化して)、まとまりあるものが書けるのではないか、と思っている。

この地に来る直前に、友人の研究者に現地で会う人のことを尋ねた際、こんなやりとりが帰ってきた。

「北欧研究も第二世代、あるいは第三世代に入り、理念紹介と現場紹介の中間部分を丁寧にやっていく時代に入っています。」

断っておくが、僕自身はスウェーデン語の読み書き話は出来ず、今回も半分英語で、半分通訳をお願いして調査をしたので、北欧研究者とはいえないし、今後もそうはなれない。あくまでも日本の障害者福祉の研究者である。でも、スウェーデンのことを紹介する際に「理念」か「現場紹介」か、の二者択一的な(しかもその表層を伝える)やり方では、限界があることは、まさに身に浸みてわかる。障害者の権利法であるLSSの実態についても、あるいはセルフアドボカシーグループの活動についても、実態から見ると、必ずしも手放しで喜べない問題点も抱えている。でも、よく考えたら、それってどこの組織にも共通する話。日本の実情を調べる際に、そういうバランスを欠いた論文では許されないのに、海外のことであれば、特に英語圏以外では、まずは紹介が先なので、そのあたりは不問にされてきた。だが、いよいよ友人含め、北欧研究者が増えてくると、その先にあるかの国の「実態」と我が国のそれとの比較のまなざしが求められている。もちろん、それは僕自身とて例外ではない。

今回通訳をお願いした方も、こんな事を仰っておられた。「日本人によるスウェーデンの紹介は、時としてユートピア的になり、そうでなければ批判ばかりになる」。この発言は、まさに正鵠を得ている。バランスを欠いたワンサイドの見方では、誰も納得しない。良いものの中にも問題があり、悪いと見なされている事の中にも、そうではない部分もある。そのどちらにも目を配り、そこから何を抽出(=抽象化)できるか、が研究者に求められていることなのだと思う。

4年前の足跡を辿りながら新たな情報を入れていく中で、今回の旅では、そんなバランス感覚の大切さ、を改めて実感していた。

そうそう、ブログを終える前に、表題にかいたことにも触れておかなければ。
いつもお世話になっているM先生から、前回のブログを拝読され、こんな書き出しのメールを頂いた。

「ブログを見る限り、『あわてんぼーのサンタクロース♪♪』のような感じで現地に行かれたようですが、ヒアリング自体は有意義なようで何よりです。」

コペンの空港ではトランジットでたっぷり時間があり、4時間分のワイヤレスインターネット代金を払ってしまったので、グーグルで今、ひいてみたら、こんなyou tubeの映像に出会った。イヤホンをヨーヨーマによるバッハの無伴奏チェロ組曲を奏でるipodさんからレッツノート君に差し替えると、こんな楽しげな歌詞が飛び込んできた。

「あわてんぼうの サンタクロース
えんとつのぞいて おっこちた
あいたた ドンドンドン
あいたた ドンドンドン
まっくろくろけの おかお」

確かにそうですね。今回は出国前があまりにドタバタしていたので、「えんとつのぞいて おっこちた」かのように色々忘れ物もしたし、まあ大変だった。でも、帰国する直前の今の気分は、この歌詞の最後のフレーズに託することができそうだ。

「あわてんぼうの サンタクロース
もいちどくるよと かえってく
さよなら シャラランラン
さよなら シャラランラン
タンブリンならして きえた」

スウェーデンだけでない、いろんな現場は何度も何度も「もいちどくるよ」と訪れなければ、その本質はわからない。でも、どうせ戻ってくるのなら、帰る際は「シャラランラン」と「タンブリンならして」楽しく消え(=日本に帰り)たいよね。時差ぼけも1週間たってようやく直ってきたようだし(=日本でまたしんどいのだろうけど)、せめて気分はるんるんと、日本に戻ることにしよう

ストックホルムより

 

たった1週間のスウェーデン調査。土曜日は甲府でも大雪だったので、バタバタと荷造りをして、千葉まで逃げて、無事に旅立つ。でも、ここ最近死ぬほど忙しかったからか、色々忘れものが多い。デジカメを忘れて写るんですを買い、海外での変換プラグを忘れホテルで借り、ANAのマイレージカードをコペンハーゲン空港で落としたようで再発行のお願いをする始末。時間的余裕がない中での旅行、というのは、あんまりよろしくない。

昨日は今回の調査の目玉の日。社会庁で、朝から夕方まで、都合3人の人々に、色々インタビューをする。インタビュー自体は成功裏に終わったのだが、そこで緊張の糸が切れたのか、またストックホルムが急に冷え込んできた為もあってか、ホテルに戻ってから、何だか調子が悪い。さらに、昨日までパソコンがネットにつながっていたのに、昨日晩から急につながらない。フロントに電話したら「サーバーがダウンしています」とのこと。僕もそのうち調子が悪くなり、ダウンしかけたので、これだけは忘れずに持ってきた葛根湯を飲んで、夜7時頃には眠りにつく。時差ぼけであまり寝れていなかった+久々に英語を使うストレス+ちゃんと思い通りのことを聞き出せるかという心配など諸々重なってぐったりしていたが、厚着をして汗をかいてねると、夜中には多少ましになる。で、これも忘れなくてよかったのが、即席のみそ汁。身体に染み渡るので、マグカップにいれて二杯飲む。その後ほっこりしてきたので、また眠りにつくと、何とか翌朝には復活。ああ、よかった。

今回はたった一週間なのだが、LSS(障害者の権利法)の実態と支援者教育という二本の柱について、かなりみっちりと、聞き取りを続ける。今日は午前中、神学博士の方と支援者の倫理(ethics)について議論。倫理と聞くと、説教くさい話に聞こえるかもしれないが、さにあらず。対人直接サービス(英語ではHuman Serviceなんて言いますが)に携わるものが持たなければならない価値とは何か、について、じっくりうかがう中で、こういう視点が確かに必要とされているよなぁ、と実感。もちろん、1時間半のインタビューでは、その入口の部分しか聞けなかったので、帰って教えてもらった本をじっくり読みながら勉強せなあかんよね、という項目を発見してしまう。

で、あと5分で、1時間の無線ラン使用権が切れるので、これからの予定も簡単に。
これからイエテボリに向かい、4年間に前にお世話になったグルンデンを表敬訪問。それから、イエテボリでもLSSの実態に詳しい人に聞き取りをする。木金とみっちり働いて、土曜の飛行機に乗って、日曜日には帰国。ほんとはもっとじっくり聞き取りをしたいのだけれど、日本の宿題もぎょうさんたまっております。ただ、やはり日本をつかの間でも離れると、日本でのあれこれを相対的に考え直すチャンスであることは確か。ここ最近、忙しすぎてあんまりゆっくり考える間がなかったので、ちょっと反省モード、で飛行機に乗り込むこととしよう。

では、また。(たぶん次はイエテボリより)

良薬の苦さと堅さ

 

またもやご無沙汰しております。

年度末で、来週スウェーデンに調査に行く準備もあり、12月末から年度末までの特別プロジェクトの仕事も入り込んでくると、文字通り「目の回る」日々である。大学の講義は終わったが、ゼミ生の支援やら、採点・成績評価もある。研修も2月は結構ある。県の仕事も入ってくる。カレンダーを見るとびっちり予定が組まれており、風邪を引く余裕すらない。でも、この間、大阪出張のあたりでは危なかった。兎に角葛根湯を飲んで何とかしのげたけれど

で、今日は前からパートナーと約束していた、今季初のスキーのハズが
朝から、寝覚めが悪い。昨日調子に乗ってスパークリングと赤の2本のボトルを空けてしまったことが、バッチリ身体にきて、二日酔いで全身が怠い。しかも外は甲府でも雪が残っている。何だかこのまま出かけると風邪引きそうだよなぁ、でも今週末からスウェーデンなのに絶対引けないよなぁ。そう思いながら、車に乗り込んで、高速に乗る直前になって、パートナーがジャンパーを忘れたと言い出した。そこでお互い顔を見合わす。「まあ、無理をするな、やめとけ」、ということですね。で、スキーは直前で中止に。

さて、家に帰って荷物を下ろし、せっかく外出モード+珍しい二人揃った休日なので、服を少し軽装にして、バーゲンの広告が入っていた八ヶ岳アウトレットに向かう。小淵沢インターを降りると、結構道に雪が残っているばかりか、日陰はちと凍っていた模様。これで大門峠なんか行ったら、死にそうだった。行かなくてよかった、と実感。ついでに、バーゲンで温かい焦げ茶のズボンなんぞを安く手に入れて大満足。結局運動より買い物をとったのでありました。

事ほど左様にルンルンと今日は息抜きが出来たのだが、目の前の仕事はどれも結構〆切がきているだけでなく、一定の質の高さや自身の向き合う姿勢が問われているものが多い。つかの間の休日の夕べに、改めて、襟を正すために、先週の大阪出張の帰りに読んだ本の一節を触れておこう。

「ベーター読みは努力をともなう。口あたりもよくない。堅くてかみくだくのも大変である。よほど意欲がないと、できるものではない。社会へ出ると、学校の勉強ではベーター読みを相当やっていたような人が、そんなことは遠い夢であったかというように、もっぱら通俗のアルファー読みにわれを忘れる。」(外山滋比古『「読み」の整理学』ちくま文庫、p173)

外山氏は、「既知や経験済みのことについてのことばの活動」を「アルファー読み」、それに対して「未知を知るための言語活動」を「ベーター読み」と定義している(同上、p119)。最近、忙しくしていると、つい、アルファー読みで誤魔化そうとする自分がいる。堅くてかみくだく時間がない、なんて言い訳をして、サクッと掴みやすい「アルファー文献」でお茶を濁している自分がいる。最近、ある方からこの間の自分の行動に対する戒めのお言葉を頂いたのだが、それは「ベーター読みが出来ていない」という事を別の形で指摘されたのだった。「通俗のアルファー読みにわれを忘れ」ていないか? グサッとくる問いだ。そして、忙しいからこそ、今日のように休みもちゃんととった上で、「未知を知るためのベーター読み」をしなければ、内部から腐ってしまう。

「ロープウェーがあるから、それに乗って頂上へ行くことも出来るけれども、山に登った喜びはロープウェーでは味わうことはできない。アルファー読みは楽でたのしいだろう。ベーター読みはやっかいである。しかし、ロープウェーがあっても登山が決してなくならないように、いかにアルファー読み向きの読みものが多くなっても、ベーター読みがおそろそかにされてはならない。わかりやすい本があふれるように多い、こういう時代だからこそ、けわしい山に挑むような読書がいっそうつよく求められる。」(同上、p142-143)

時間がないことを、安易にロープウェーに頼る理由としていては、そもそも「けわしい山」に登るための基礎体力すらなくなってしまう。登山経験があるといっても、所詮僕が登ってきた山は、「けわしい山」の麓までの登山に過ぎない。ここからが、本当の登山の「入口」のはずだ。その「入口」で、すでにロープウェーに頼り始めているようでは、「既知や経験済みのこと」の閉じた環の中に入り込んでしまう。忙しいから、時間がないから、色々求められることが多いからこそ、安易な方向に逃げずに、優先順位をつけ、「けわしい山」への努力を引き受けることが大切なのだ。良薬は口に苦し、なだけでなく、咀嚼もしづらい。この苦さや堅さに耐えて、噛み続けることが出来るか。「昔取った杵柄」に固執する人生か、更なる成長を遂げるのか、の分かれ道にさしかかっている。