自戒モード

 

久しぶりにゆっくり机の前で仕事が出来る。
必要に迫られて、4年前に読んだ本を読み返していたら、グサリとくる箇所に突き当たった。

「相互浸透の度合いが低い(あるいはそれが欠落している)場合は、データと分析が乖離している状態にあると考えていいだろう。こうした乖離は、たとえば、調査者が最初と最後の部分で精緻な概念図式を展開しているようなレポートにみいだされる。その中間の部分では、最初と最後の部分で提示される概念図式に関連づけられていない、抽象度の低い常識的な記述が展開される。つまり、分析がデータから発展させられる、あるいはデータの分析のために使用されるというより、レポートのそれぞれの末尾でデータに付加されているように見えるのだ。レポートを通してデータと分析が緊密に結合されていないので、両者の関係は不明確なものとなる。このようにレポートにおいてデータと分析の相互浸透を達成しそこなうということは、事実上、調査者が現実に何の分析もしていなかったことを意味する。」(J・ロフランド&L・ロフランド『社会状況の分析』恒星社厚生閣 p225)

この数年間の間に、「データと分析が緊密に結合されていないので、両者の関係は不明確なものとな」った、つまりはデータと分析の「相互浸透を達成しそこな」ったレポートを書いてこなかったか? 思い当たる節がないと言えば嘘になる。「時間がない」のを言い訳に、「抽象度の低い常識的な記述」で済ませたものがある。そもそも「最初と最後の部分で精緻な概念図式」すら描けなかったものもある。こういうタケバタは、筆者らによれば次のタイプに当てはまるようだ。

「記述過剰の過誤は、分析に対して過剰な記述が提供される場合である。著者は状況の具体的で詳細な事実を提示することに熱中するあまり、そうした事実を整序・説明・要約する分析概念と着想との関連を見失うのだ。このようなレポートは、単純な歴史記述ないしジャーナリスティックな記述と類似している」(同上、p224)

ただ、ここで注意しておかなければならないことがある。優れたジャーナリストなら、「記述過剰」に陥らないことは、私の師匠などを見ているとよくわかる。記述する方法が学術的かジャーナリスティックか、は別として、師匠の作品などは事実の記述だけでなく、そこから「事実を整序・説明・要約する分析概念」を立ち上げて、現実へ切り込んでおられる。それに対して、己の仕事はどうか? 「状況の具体的で詳細な事実を提示することに熱中」してはいなかったか? そういえば、昔師匠が仰った「下手な研究者は無駄に情報ばかりを求める」というのも、「記述過剰」への警句だったんですね。

何で今頃こんな事に気づくのか。いや、私には有り難い仲間がいて、ちゃんと教えてもらったのであります。先週スキーに出かけていてさぼってしまったある研究班の会合の議事録が送られてきたので、読んでみると、私の担当部分にこんな事が書いてあった。

「注意点:文献研究ではない、論理的枠組みの持ち込みは禁止!!」

同じチームのH氏は的確に、私の怠慢・さぼり癖・問題点を見抜いている。「記述過剰」および、自身の論理展開ではない、他から借りてきた「概念図式を展開している」私の仕事ぶりに対して、厳しく「そりゃ、あかんよ!」とおしかりを受けたのである。これって、ロフランド夫妻の仰る「事実上、調査者が現実に何の分析もしていなかったことを意味する」という宣告のパラフレーズそのものだ。グサッとくるけど、言われてごもっとも。さてどないしよう、と本棚を探していて、偶然久しぶりに目にとまった本を開けてみたら、引用した件の記載が目に飛び込んできた。あまりにバッチリな記述に、思わず「すんません」と思ってしまう。さて、今からとある別の研究の中間まとめ。データと分析をじっくり付き合わせるような、「相互浸透の度合い」を高める仕事をせねばという自戒モードであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。