生き様としての「補助線」

 

世の中には、たった1時間程度で読めて、かつ沢山の内容が吸収できる本もあれば、逆に一生懸命時間をかけてたどっても、からきしその養分をくみ取れない(あるいは元々養分のない)本もある。今日、ジムの近所で買って、運動30分自宅に帰って風呂読書30分で読み終えたのは、間違いなく前者。

「僕はいま怒濤のような忙しさのなかにいます。一年中、常に働いていて、スケジュールがずっと先まで埋まっている。この状態を自分自身で振り返るうちに、面白いことに気がつきました。少し前までは、『ものすごく忙しく仕事をしている』感覚だったのですが、それが『ものすごく忙しく勉強している』という感覚に変わってきたのです。大勢の前で講演する時も、親しい人と話をする時にも、そこでの対話を通して自分の中に新しい自分を発見している。これは、常に新しい発見が出来るような、高いレベルのコミュニケーション能力が身に付いたと言い換えることが出来ます。」(茂木健一郎「脳を活かす勉強法」PHP53-54

仕事柄こういう「勉強法」の本は読み漁っている。医師などが脳の機能に基づいた勉強法を書いたものも読んでいた。でも、何だか薄っぺらく、うさんくさい雰囲気が漂う。科学的装いを施した精神論、という臭いがプンプンな本もあるからだ。だが、この本は違う。自分の予備校講師時代の経験、あるいは予備校の恩師から教わった考え方と同じ方向性であるからだ。例えば「速さ」「分量」「没入感」という三拍子が揃って「人の目を気にせず、なりふりかまわずやる」という「『鶴の恩返し』勉強法」。これは、僕自身、大学受験の時に実践していた。

二次試験の前、英作文対策として恩師に指示されたのは、「中学校の1~3年生の教科書をとりあえず丸暗記すること」。予備校生としてなりふり構っていられなかった少年タケバタは、家にいるとついだらけて「没入感」に浸れないので、通学定期を持っていた阪急電車を選んだ。京都河原町-大阪梅田間を走る、昼下がりのがら空きの急行電車。かつて車掌室だったデットスペースに陣取り、なりふり構わずブツブツ音読しながら、京都と大阪を何往復もしていた。そうして20日間で、3年間分を丸暗記する、という「速さ」と「分量」をこなすうちに、稚拙でも文意を損なわない英語のフレーズが出てきた。これは、受験から15年以上たった今でも、海外に出かけた折りに、すごく役立っている。

事ほど左様に、自分自身のたどってきた方法論は、彼自身の方法論とも似ていて、かつ脳科学的にもその通りだ、と言われると、何だか嬉しいし、先に引用した「『ものすごく忙しく勉強している』という感覚」などは、そう考えることも出来るよね、という実感と、それから自分自身もそう考えたいよね、という願望が混ぜ合わさった気持ちを持っている。

「誰しも、仕事があまりに忙しい時は『○○をやらなければならない』といった負荷や重圧のため、ついネガティブな発想をしがちです。しかし、そういう時は脳の特性をあまり活かせていない時でもあります。たとえば『確かに忙しいけど、いろんなことを学べるチャンスだ』と見方を変えるのも手です。」(同上、p55

この冬の反省は、『○○をやらなければならない』と「負荷」モードだったことだ。それよりは、『確かに忙しいけど、いろんなことを学べるチャンスだ』と考えられる方が、確かに楽しいし、楽しいことは脳を活性化させる、というのも、よくわかる話。と、こんな風に紹介すると、やっぱり茂木さんってエンターテナーなの、と思われる方もいるかも知れないので、実は茂木本を読むきっかけになった次の一節も引用しておく。

「一見関係がないと思われるものたちの間に『補助線』を引き、その生き様において自分自身が『補助線』と化して、断片化してしまった知のさまざまの間を結ぶ。そのような、世界の統一性を取り戻す精神運動には、途方に暮れるようなエネルギーが必要とされる。怒りこそが、そのようなエネルギーを私たちに与えてくれるのだろう。破壊する怒りではなく、『魂の錬金術』を通して、さまざまを創造する『白魔術』としての怒り。(略)そんな生成の過程は、奇跡的なことのように見えて、実は生きとし生けるものに普遍的な原理そのものに根ざしている。」(茂木健一郎「思考の補助線」ちくま新書、193-194

この部分だけ引用したら、何のこっちゃ、と思われるかもしれないが、そういう方は同書を直接読んでみて頂きたい。何だか彼のパッションをグッと詰め込んだ同書で初めて、テレビ以外の茂木氏を知り、一気に興味がわいてしまった。そう、僕だって何で福祉分野をフィールドにしているか、といえば、単純に「怒り」なんだと思う。「何でこんなままほったらかせてるねん」とか、「こんな状態でほんまにいいんかいな」といった怒り。その怒りを、「破壊」に向けるのではなく、「魂の錬金術」として、そこから、この現実を変えうる可能性のある何かを生み出すことが出来るか?そのために、「その生き様において自分自身が『補助線』と化し」て、色んなモノをつなぎ合わせながら、役立つ何かを差し出すことが出来るか?

自分自身が媒介役となるために、もっと深い勉強が必要。それが、月並みだけれど、この冬の内省期に気づいた一番のことだった。だからこそ、四月の頭に、「『ものすごく忙しく勉強している』という感覚」という枠組みを知れたのは、ラッキーだった。さて、どういう「補助線」を作り出せるか。知ったのだから、ちゃんと実践あるのみ、ですね。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。