そうなんかなぁ

 

山梨は実りの季節が到来し始めた。少し前はサクランボ、今はトウモロコシ、そして来週くらいから桃のシーズンになりはじめる。そして、有り難いことに、「跳ねもの」(=規格外品)を頂くチャンスも少なくない。今日はいつもお世話になっているTさんが、トウモロコシを持ってきて下さった。関西在住時は高級品のイメージがあったのだが、こっちでは安いので、毎日もろこし三昧。旬なものは、ほんとにうまい。

で、今日は少しゆっくり出来たが、先週も神経がびりびりするほど、忙しい日々だった。というのも、とある会合で虐待防止法に関するプレゼンを急に頼まれたからだ。権利擁護と虐待防止というのは、共通している要素がある。どちらも、起こってしまった権利侵害や虐待に対してどう対応するか、という事後救済側面が強いのであるが、本当にそれらの事案に向き合うのであれば、事後救済だけではなダメで、いかに事前予防をするか、が鍵である、という点だ。虐待や権利侵害の芽をどう摘むのか、社会がどうそれに関われるのか、がポイントとなってくる。

そう考えた時、我が日本社会は最近どうだろう? 事前予防型社会といえるだろうか? 起こってしまったことに対応し、それを個人の問題と極小化して、その事後対応に終始している、とは言えないだろうか。そして、そういう個人モデルの事後救済型に終始した社会においては、次のような発言が論理的帰結として導き出されがちだ。

「『個人責任の時代』の到来です。これから十年以内に、これまでの政府・社会・会社の保護が薄れる代わりに、個人一人ひとりの責任が重要となる時代が来るということです。もちろん、そうだからこそ、今、ビジネス書がこれまでになく、よく売れているのでしょう。個人一人ひとりがサバイバルをかけているわけです。」(勝間和代『ビジネス頭を創る7つのフレームワーク力』ディスカヴァー・トウェンティーワン、p50)

本の売り上げの一部を途上国の自立支援プログラムに使おう、という志ある著者でも、日本社会の分析に関しては、「個人責任の時代」と言い切る。この部分に、単純に「そうなんかなぁ」という違和感を感じるのだ。政府や社会の保護が薄れそうだからこそ、どうしたらそういうセーフティネットを張り替えたり、現代版の強化をすることが可能か、を考えるのも、事前予防として大事なのではないか。それを「個人一人ひとりの責任」に矮小化することは、まさに事後救済的発想ではないか。で、個人がリスクヘッジするために、他から「一抜けた」するために、こういうビジネス書が出ているとしたら、何というか、浅ましいような気もする。

読み手に誤解を招かないように言うと、儲けることが悪い、と言っているのではない。ただ、儲け「のみ」に専心して「個人責任」を強調することは、たまたまその闘いで不運にも「負け組」になった人にとっては、取り返しのつかない事態になる可能性がある、ということだ。「政府・社会・会社の保護が薄れる」とういことは、その中で一部の強者は勝てるかもしれないが、脱落していく可能性がある弱者もまた、生まれる、ということだ。それが自由主義社会だから「しかたない」のか。あるいは、そういう社会での落ちこぼれもサポート出来るような「政府・社会・会社の保護」もある程度必要と考えるか。

自分だけが一攫千金出来る(=ということは他の人の不幸を甘い蜜にする)という社会に対しては、やはり「そうなんかなぁ」という違和感を感じてしまう。東京のような都会では無理かも知れないが、山梨ではとうもろこしをもらったり、お返ししたり、というお顔の見える関係がまだ残っている。そういうお顔の見える関係、の延長線上にある、「助け合い」とか「連帯」とかが、都市部であっても大切ではないか、と未だに古くさいことを考えている週末であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。