お顔の見える関係

 

ようやく授業もおわり、一息がつけ、このブログも書ける。この前、ある人のブログを読んでいたら、ブログ通信簿なるサイトがあるという記載を見つけ、このスルメブログも採点してもらおうと思ったら、「最近書き込んでいないので判定出来ません」とのこと。いやはや、そりゃ月3,4回しか書かなかったら、ブログとしてはダメなペースかも知れないけれど、ねぇ。

ブログに関して、僕はあまり多くのブログをチェックする、という趣味はないのだが、いくつか見ているだけでも、色々なタイプがあるようだ。思いつく類型化としては、身辺雑事系、普段言えない思いの暴露系、読書メモ系、普段の自分とは違うキャラ展開系、記憶メモ系、思考の補助具系。ま、類型化したらこの100倍以上の類型があるのだろうが、あまり読んでいないので、後の類型化は皆さんにお任せ、である。

僕はどの類型か、というと、多分くらいの割合かな。少なくとも絶対にしないのがの類型だ。そりゃ当たり前で、自分の名前を公表してブログを書いているのだが、そんな公開の場での「オフレコ」というのは変な話。それだけでなく、僕は基本的にメールやブログを書く際も、「基本的に転送されても大丈夫なように」とかなり気を遣う。普段のタケバタからは想像出来ないかも知れませんが、これでも「石橋を叩いて渡る」タイプの時もあるのですよ。だから時として、メール一本書くのに数時間、いや思案の時間も含めると数日程度かかる時もある。気持ちが乗らないと、返信しない。酔っぱらっている時は、絶対メールを書かない。そうすると、ついつい返信が溜まる。純粋にビジネスのメールなら、たったと返信するが、少なくとも私信に関しては、結構時間がかかってしまう。

このブログも、それと同じスタンス。どなたが読んでいるかわからない(というより、誰も読んでいないのかも知れないけれど)公共の空間に言葉を投げかける時、私信を出すのと同じように、むやみやたらと自分の心情だけを綴るのは憚られてしまう。仮想の「あなた」という相手との対話を考えると、その対話する他者が見えない独り言は、非常にアブナイと感じるのだ。だから、そういう他者が想起出来ない時には、ブログは一切書かない。そうすると、気がつけば2週間近くも放ったらかしになってしまう。すいません。

最近の犯罪事情を垣間見ると、どうもこの仮想空間での「仮想的対話」という心構えがない人が多いようだ。秋葉原の無差別殺人事件の犯人は、ネットで実際のコメント・書き込み等を求め、そこで「相手にしてくれない」という思いを募らせた、という。なんだろう、そういう直接の返信、はなくとも、仮想的に「あなた」を想起し、その「あなた」と対話する形で物事を考えていけば、決して無視されたという悪循環的思考にはたどり着かないような気もするのだが

これは某事件に限ったことではない。どうも、ブログという性質はそういうものなのかもしれないが、対話のないモノローグ的垂れ流しブログ、が目につく。別にこのサイトはそれらと比べて高尚・高邁だといっているのではない。そうではなくて、モノローグかダイアローグか、でローグ、すなわち論理の運びようが違ってくるような気がするのだ。他者に開かれた論理と、自己にしか開かれない論理。この二つの論理の違いが、大きな差となって、読み手の読者に、そして公共空間へと跳ね返ってくるような気がしているのである。

僕の好きな言葉は、大阪のお母様、と敬愛するある方がよく口にする「お顔の見える関係作り」というフレーズ。蜘蛛の糸を通じて見ず知らずの方に届く媒体であっても、それを通じて読んで下さる「あなた」とは、仮想的にでも「対話者」として、「お顔の見える関係」を築きたい。そういうスタンスで、文章を書いている。メールでもしかり。だからこそ、メールやブログ的な表現がもどかしく、つい電話をかけたり、あるいは会いに出かけたりする。思うことは直接相手に伝える。そういうスタンスこそ、対話的スタンスのような気がしている。

だからこそ、このブログの更新が出来ていないと、実際に思い浮かぶお顔の方々にたいして、「すいません」となるのだ。今日明日で試験監督も終わるので、ぼちぼち更新頻度も上がる、予定です。また、皆さん、このブログをごひいきに。

社会の当事者として

 

札幌行きの飛行機の中で読み終えた本は、いろいろな意味で考えさせられる一冊だった。

「行政や政治が悪いと責めるだけで、社会はよくなるであろうか。市民の1人1人がこの社会を作っているのだ。暮らしやすい社会作りのために自分たちに何が出来るか、を考える時期でもあると思う。私たちは、消費者として金を払ってサービスを買うだけ、そして不十分なサービスに対してクレームをつけるだけ、自分は一方的な被害者で何の責任もない、という関係に慣れきっていないだろうか。たしかに、私たちは消費者でもあるが、社会の当事者でもある。人と人のつながりや安全な地域社会はお金で買えない。ガードマンを雇うだけで、地域の安全の問題が解決するわけではない。」(前田正子『福祉がいまできること』岩波書店、p207)

著者はもともと子育て政策についても著書があり、民間のシンクタンクなどで働いてきた専門家。自身も子育て中の母親として、中田市長就任時の4年間、副市長を勤めた。その中で、子育てだけでなく、福祉行政全般にわたって、副市長のポジションから政策的課題を解決すべく模索してきた専門家。そこで触れられる子育て支援や児童虐待、生活保護やワーキングプア、日雇い労働者の高齢化問題など、どれも待ったなしの問題であり、かつ告発調ではなく、何とかその現状を変えようと現場で奮闘する人々の声を丹念に拾っている。しかも、文章が読みやすく、説得力のある筆力。

山手線車内で読み始めたのだが、千歳空港到着時には一気に読了した。多様化・複雑化する社会問題と、それに比べて伸び悩む予算、行政に対するバッシングなどを整理していった後の、上記の一言は、大変に重く、説得力がある。そして、この文章に辿り着いて、その前の甲府から新宿に向かう「かいじ号」の中で読了した、別の本を思い出していた。

「高福祉・高負担の国は、みんなが高い負担を引き受け、みんなが高福祉の受益者となる仕組を原則としているのであって、一部の弱者を救済する手段として福祉を位置づけているわけではない。この場合、福祉とは社会全体の連帯を意味し、高額納税者であれ誰であれ、全員が何らかの形で福祉国家に暮らす恩恵を受けるようになっているのである。この論理が受け入れられるためには、国民の間に社会的連帯意識が成立していなければならない。そうでなければ、納税者たる自分に対するサービスが悪いという理由だけで、『官』という存在が非難されることになってしまう。(略)自分のカネが自由に使えず、税金や社会保険負担に多くを取られるような社会、それは、ある意味で不自由な社会だ。だが、その不自由さを悪だと決めつけることは、やや早計であろう。」(薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義』光文社新書、p119

フランス在住経験のある社会学者の目には、アメリカや日本のように自由を崇高で最大限に尊重する民主主義、以外の選択肢がフランスにはあると見えてきた。それは、不平等な状態におかれた対象となる他者を支援するためには、時としては自分自身の自由を制限する(税金を多く納める、ストに不満を言わず支援する、自分の主観・価値観・利己主義的信条を押しつけない)こともいとわない、という平等重視の「社会全体の連帯」の民主主義、である。この社会学者の視点を、行政の最前線にいた前田氏の議論に絡めると、事態が立体的に見えてくる。

消費者への顧客満足度重視が至上主義となる自由主義的民主主義は、時として「不十分なサービスに対してクレームをつけるだけ」となりがちだ。だが、特に行政が関わる社会サービスの分野にあっては、「暮らしやすい社会作りのために自分たちに何が出来るか」を考え、暮らしにくい状態にある人のことも自分事として考える「当事者」意識、つまりは「社会全体の連帯」を基盤としたものの見方や関わり方も大切なのではないか。このお二人の主張は、山梨の現場のお手伝いに関わらせて頂いている僕自身にも、本当にその通り、と赤ペンで線を引きまくるように、納得していた。

だからこそ、これを整理していて浮かんだ問いは、小さくない。

「では、みんなが当事者意識を持ち、社会的に連帯していくためには、どうしたらいいのだろう?」

これは、大学で講義をしていても、明日のように講演に呼ばれて話す際も、いつも気にかける点である。日本人が当たり前に持つ、自由主義的資本主義を所与の現実としている限り、上記の整理は実に偏った極論に思える。だが、日本でもアメリカでもない国のリアリティに触れたとき、また、日本の国内であっても市場原理主義的ソリューションで解決できない福祉現場に直面したとき、私たちが当たり前にしているこの常識そのものへの違和感が生じてくる。そして、その中から見えてくるのは、行政を悪と単純に見なし、公務員削減と効率的小さな政府を是とするワンフレーズポリティックスに関する違和感である。これは、僕も福祉現場に関わらせて頂き、またスウェーデンに半年ばかし住んでみて、すごく感じた。そして、今、山梨の現場で行政や地域の皆さんと関わっていて、切実な問いとして、目の前に差し出されている部分でもある。

だからこそ、自身に問われるのだ。では、どうしたらその「違う現実」を伝えられるのだろうか、と。

そんなことを考えているうちに、エアポートライナーは8年ぶりくらいの札幌駅に、僕を運んでくれていた。

見誤らないために

 

最近とみに考えていること、それは自分がやっていることの、相対的位置づけ、である。

「ある事柄の『意味』は、常に、より包括的なコンテクスト、外側のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して、『情報』は、そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは、自らが関心を向ける情報的な差異に関して、それをより包括的なコンテクストに位置づけて、その重要性を説明することができないのである。」(大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書、p87-88)

「より包括的なコンテクスト」への「参照を前提」にしているのが、確かに研究の大前提である。だが、研究者がタコツボ化(=オタク化)されて久しい。自分がおもろい、と思っていること、問題や、と怒っていること、そういった感情的な「情報」を「意味」のあるまとまりに束ねて、「より包括的なコンテクスト」への「参照」の中で論じる。これが、研究の醍醐味のはずだ。だが、「意味」のあるまとまりに束ね損ねていたり、あるいは、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なき、内輪の議論に終始している場合も少なくない。自家中毒的な症状を示している文章が、あふれている。そして、自分もそういう部類に入っているとしたら、福祉オタク、なのか

「真実は細部に宿る」という箴言を、一方では信じている。しかし、「より包括的なコンテクスト」への「参照」なく、細部に「のみ」拘泥することは、結局足下すくわれる、というか、本質を捉えきれず、事態を矮小化したり、あるいは構造的問題を隠蔽するのに荷担することにも繋がりうるかもしれない。「外側のコンテクスト」で何が言われているのか、それと「参照」する(=結びつける)なかで、この目の前で生起している時代をどのように位置づけることができるか。こういう視点を持たない限り、日々の生々流転する現象に必死に対応し続けた(=その細部には最大限のパフォーマンスで参画した)結果として、気がつけば、大きな失敗に至る可能性もある。大局観、という言葉が、頭の中に点滅している。

福祉という現場は、一方で目の前にいる人の生活そのものと直結しているリアリティを持つ。「この方の安心・安全がどう護れるのか」という抜き差しならぬ問いの前に常に置かれている。その一方で、その首尾範囲や条件設定などは、常に政治的・財政的パワーポリティクスの中で揺れ動くものである。今日の常識的議論の前提は、その常識を支える主義・人間観などに色濃く反映されているが、それは所与の現実だけでなく、揺れ動くものである。介護保険制定時に、あれほど「権利としての福祉の確立」が叫ばれたのに、その数年後に「財政破綻」の基に介護給付や労働者賃金の圧縮化に向かったのも、揺れ動く現実の反映の表れである。揺れ動く現実の表層的な情報に一喜一憂することなく、でもその核心をたぐりながら、抜き差しならぬ問いにどうこの現場で取り組めるか、とりあえずの解を出せるか、が問われている。

そして、それを研究者として外部から批判するのか、また、実践者として内部にコミットするのか、もまた問われるところだ。御用学者に陥るリスクは、常にある。だが、現実を見据えない理想論を言っていても、何も変わらない。抜き差しならぬ問いを前にして、変えるべきではない目的と、柔軟になるべき方法論の混同・誤解の危険性は常につきまとう。それとどう対峙しながら、歩みを進めるか。そのためにこそ、「より包括的なコンテクスト」への「参照」が絶対不可欠なのだ。

呪詛より祝福

 

甲府駅前のガラガラの喫茶店、洋楽ポップスを聴きながら、ぼんやりカプチーノなんぞ頂いている。

最近にない、エアポケットのような「あまりもの」の時間と空間の余裕。なんのことはない、今朝の大雨で、乗るはずだった身延線の特急電車が運休になったのだ。塩尻経由の切符を買い換えても、30分近い待ち時間。まあ、今日は夕方までに大阪の調査現場にたどり着けばいいので、気がせくことなく、のんびりしている。

だが、駅のみどりの窓口では、大声で文句を言うオジサンも。JR職員がルールに基づいてこうなっている、という説明をするのだが、「責任者だせ」と声を張り上げる。こういう展開は、横で見ていても、何だかげんなりする。そういう光景を見ていて思い出したのが、次の内田先生の言葉だ。

『気づかぬうちに私たちの社会には「他人の苦しみをおのれの喜びとする」タイプのマインドが瀰漫しつつある。自分には何の直接的利益もない(どころか、しばしば不利益をもたらす)にもかかわらず、それによって自分以上に苦しむ人がいるなら、その苦しみを自分の「得点」にカウントする風儀がいつのまにか私たちの時代の「ふつう」になってしまった。』(アナザー忙しい週末

まあ、このオジサンの場合、払い戻しのお金を受け取れば直接的利益になるので別だが、おたがいさん、の事態に対して、「自分以上に苦しむ人」を作り出す風潮があるような気がする。「恨み・呪い」が原動力となる行為は、やはり真っ当ではない。そんな真っ当さ、が社会的に薄くなりかけている。こう書くと月並みだが、内田先生は、こんな風にも書いている。

『それは「呪うものは呪われよ」ではない(それでは呪いは増殖するばかりである)。「呪詛には祝福」と人類の黎明期から決まっている。「他者の喜びをおのれの喜びとする」ことである。』(同上)

そう、恨みモードではなく、祝福モードにどれほど持って行けるか、が鍵なのだ。でも、意図せざる事態で恨みたくなる時に「呪詛を祝福」に変えるためには、時間的余裕と器の余裕の両方が必要になる。ここしばらく、時間的余裕がなかったばっかりに、心の器は酷くやさぐれかけていた。やはり、カプチーノなんぞ飲みながら、ゆるゆるする時間を作っておかないと、「呪詛には祝福」とはいかない。精進がたりんなぁ、と思いながら、喫茶店のソファーに深く座り込む朝であった。さて、そろそろあずさに乗るとするか。