呪詛より祝福

 

甲府駅前のガラガラの喫茶店、洋楽ポップスを聴きながら、ぼんやりカプチーノなんぞ頂いている。

最近にない、エアポケットのような「あまりもの」の時間と空間の余裕。なんのことはない、今朝の大雨で、乗るはずだった身延線の特急電車が運休になったのだ。塩尻経由の切符を買い換えても、30分近い待ち時間。まあ、今日は夕方までに大阪の調査現場にたどり着けばいいので、気がせくことなく、のんびりしている。

だが、駅のみどりの窓口では、大声で文句を言うオジサンも。JR職員がルールに基づいてこうなっている、という説明をするのだが、「責任者だせ」と声を張り上げる。こういう展開は、横で見ていても、何だかげんなりする。そういう光景を見ていて思い出したのが、次の内田先生の言葉だ。

『気づかぬうちに私たちの社会には「他人の苦しみをおのれの喜びとする」タイプのマインドが瀰漫しつつある。自分には何の直接的利益もない(どころか、しばしば不利益をもたらす)にもかかわらず、それによって自分以上に苦しむ人がいるなら、その苦しみを自分の「得点」にカウントする風儀がいつのまにか私たちの時代の「ふつう」になってしまった。』(アナザー忙しい週末

まあ、このオジサンの場合、払い戻しのお金を受け取れば直接的利益になるので別だが、おたがいさん、の事態に対して、「自分以上に苦しむ人」を作り出す風潮があるような気がする。「恨み・呪い」が原動力となる行為は、やはり真っ当ではない。そんな真っ当さ、が社会的に薄くなりかけている。こう書くと月並みだが、内田先生は、こんな風にも書いている。

『それは「呪うものは呪われよ」ではない(それでは呪いは増殖するばかりである)。「呪詛には祝福」と人類の黎明期から決まっている。「他者の喜びをおのれの喜びとする」ことである。』(同上)

そう、恨みモードではなく、祝福モードにどれほど持って行けるか、が鍵なのだ。でも、意図せざる事態で恨みたくなる時に「呪詛を祝福」に変えるためには、時間的余裕と器の余裕の両方が必要になる。ここしばらく、時間的余裕がなかったばっかりに、心の器は酷くやさぐれかけていた。やはり、カプチーノなんぞ飲みながら、ゆるゆるする時間を作っておかないと、「呪詛には祝福」とはいかない。精進がたりんなぁ、と思いながら、喫茶店のソファーに深く座り込む朝であった。さて、そろそろあずさに乗るとするか。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。