批評精神

 

ようやく風邪が治ったようだ。まだ鼻水は時折でるが、それ以外の症状はそれぞれ終了したようである。

それにしても長かった。1週間以上、ぐずぐずしたままだった。大学がスタートした為、最低限こなさなければならない仕事も少なくないが、それ以外はどれも「先送り」して、とにかく早めにベッドに潜り込む日々だった。ようやく今日くらいから、頭も多少冴えてきたようだ。だが、太ったからand/or病み上がり、のため、身体は怠くて、まだ本調子ではない。そうは言うものの、来週末の国内での学会発表用のパワーポイントと、来月頭の台湾での学会用の英語のドラフト、というヘビーな仕事の、どちらも〆切が迫っている。迫っている、といえば、来週金曜の講演のレジュメも出来ていない。まずい。

そんな中でも、仕事に集中しきれない一方で、他人の仕事にはちゃっかり読みふけっていた。

「批評は、誰にとってもこうだ、というような言い方ではない言い方、自分にいま感じられる言い方で、誰にとってもそうであるはずだ、というようなこと、普遍的なことを、いってみることだ。というか、普遍的なことをいおうとすると、変な言い方になってしまうことが、『批評を書く』ということなのである。」(加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波書店、p3)

こういう風通しのよい文章に出会うと、濁っていた頭もクリアになってくる。普遍的なことを「自分にいま感じられる言い方」でいってみること。なるほど、批評についての、端的な説明だ。そして、僕などブログをこうして書いていても、なかなかその高みにたどり着けない(=けれども密やかに憧れている)境地でもある。

その昔、北杜夫や遠藤周作の「エッセイ」が妙に好きだった。太宰治の小説よりも、津軽などの紀行文というか、エッセイ的テイストのあるものが、印象に残っていたりする。それらの中には、加藤氏がまさに指摘する批評的なもの、つまりは僕自身の世界にも通じる普遍的な感覚を、著者自身の「言い方」で言っている、その部分に心惹かれていったのだ。文章がドライブしていく、そのうねりの中に、心が没入していくのを、ワクワク楽しみながら読み進めていた。

で、はたと停滞している自分の仕事に戻ると、言葉が出てこない理由には、この部分があるような気がしている。自分が感じるオモロイと思うこと、それには一定の普遍的な何か、があると思っている。それを、学問的(=つまりは一定の手続きや、そのサークル内での先行研究といった)準拠枠組みの中で書こうとしているから、何だかワクワクせず、放ったらかしのままになっている。だが、それはあくまでも形式の問題であり、本当にオモロイと感じることを、その感じたままで、「いってみること」こそ、まずは大切ではないか。自己表現に変に自己規制をかけて、もっともらしく、なんて振る舞おうとするから、書いている文章にノビやきらめきがない。端的にいって、書いている本人がおもしろがっていないから、発表も原稿も面白くないのだ。

もちろん、手続きや先行研究の叡智は大切にすべきだ。だが、それは、オモロイ核心部分を書ききった上での、いわばお化粧の部分で必要なこと。その前の土台の部分が腐っていたり、カスカスであれば、いくら上塗りしても、総崩れするだけ。そう考えると、今頭を悩ます二つの〆切も、とにかくオモロイエッセンスを、普遍的に感じられるある「高み」を自分なりの言葉で表現しきること、これに尽きる。その上で、必要なお化粧を手早くしていけば、薄化粧の中に栄える何か、が生まれてくるはずだ。

論文や学会発表は批評とは違う。だが、自分の頭でしっかと考え、他人の受け売りでない自分の論理を構築することのない、つまりは批評精神のない論文なり発表は、ただのクズに過ぎない。自分がワクワクするためにも、クズの生産ではなく、いかに批評的知にアクセス出来るか。病み上がりで多少スロースタートだが、そろそろギアチェンジすべき時期に来ている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。