同じ目的、違う方法

 

今日も身延線の車中より。

何だか最近、身延線車内でしかブログを書かない日々が続いている。今日は三重で地域自立生活支援に関するシンポジウム。この間、三重の市町職員エンパワメント研修で取り組んできた課題を報告する事もあって、ゲストに呼んで頂いた。今日は夕方5時には津を出られたので、何とか最終のワイドビューふじかわに間に合う。静岡に夕刻止まる新幹線は今朝の時点で満席で、かつワイドビューも指定席は一杯。大阪方面で一杯お買い物をされた皆さんが乗り込んでいる。こちらは土日もなく、馬車馬のように働いております

で、今日のシンポジウムの、自分自身の出番は午後だったのだが、午前のシンポジウムが大変考えさせられた。重い知的障害や自閉の方々を支える支援者の柳さんの問いかけと、重度の脳性麻痺当事者の松田さんの応答に、「同じ事と違うこと」の両方を見たからだ。

柳さんは、ご自身の冒頭で「今日は誤解を恐れず申し上げます」という前振りをした上で、「当事者の自己主張ということが全面に出される、というシンポジウムでは、自己主張が苦手(不得手)な自閉症や重い知的障害の当事者が排除されてはいないか?」という問いかけをされた。ご自身の、自閉症の方の声にならない自己主張に丁寧に向き合う経験談を重ね合わせながら、自己主張・自己決定・自己選択が出来る人はその尊重が大切だが、それが苦手な人にもその前提に基づく議論をすることに問題はないか、と鋭く問うたのだ。

一方、自立生活運動をしている松田さんは、そもそも「親の愛」なるものが、これまで重度障害者の自立を阻害してきた、と語る。安心や安全を重要視するあまり、施設や親の保護下を離れる生活を許さなかったのが「親の愛」だと言う。その上で、障害者自身が我慢や諦めなくてもよいように、自分らしい生活を送るための支援システムの構築が大切だ、という。

この間、自立支援法の議論の中ではなかなか忘れがちになるこの二つの本質的論議が、久しぶりに眼前で繰り広げられ、寝ぼけ頭が急速に活性化しはじめる。この二つの「同じと違い」って何だ、と。しかも、松田さんと柳さんは元々親交があるようで、仲良く昼の時間にお話しされている。一見すると真逆のような発言でいて、二人をつなぐ共通項がある。それを、同じシンポジストだった岡部さんは「お互いの立場性の違い」と整理しておられたが、何だかそれだけ、と割り切ってしまうのも、もったいないような気がする。なので、自分なりに「何が同じで何が違うのか」を少しだけ考えてみたい。

まず同じ所。二人とも、能力主義的視点ではない、という共通点がある。重度で就労能力があろうとなかろうとその人らしい暮らしが出来る、という考えは、二人に共通している。また、支援者と当事者の関わりの中で、支援者の立ち位置の有り様が大きな問題だ、というのも二人の主張を貫いているように感じた。脳性麻痺の当事者に先んじて支援を勝手に組み立てる事の問題性を松田さんが話したかと思うと、柳さんは言語表出のない自閉症の方の、行動を通じた表現を支援者がどう読み取って、どう斟酌するか、が専門家に問われている、という。二人とも支援者-当事者関係における、支援者のセンスの問題を前景化させているのだ。そして、重い障害のある人を価値ある存在と捉える、という点でも全く同一だ。どんなに重い障害がある人でも、何らかのチャレンジが出来るし、それを支えられるのだ、という視点も一緒だ。

ここまで同一でありながら、でもこの話は一見すると「違い」が目立つようにも見える。「自己主張」を前提とした議論は能力主義ではないか、という柳さんの問いかけに対して、「自己主張」を抑圧する家族システムからの解放を訴える松田さん。同じ部分が多いのに、なぜ同時に違いが強く感じられるのだろう、と、その場にいたカナリア県庁職員Nさんとお話していた。

で、その後もぼんやり考えて感じること。それは、「お互いの立場性の違い」の、更に背景にある、「そう二人に言わしめる現実」に対する違和感という共通項についてだ。二人とも、障害の重さなどの能力で判断するのではなく、どんなに重い障害のある人でも価値と尊厳があるのだ、という点では一致している。支援者と当事者の関係性に重きを置き、当事者の世界にどう寄り添えるか、が肝心だ、というのも、同じラインだ。だが、現実は、この二人の一致点そのものが、法律で守られていない現実がある。自立支援法の骨格そのものが能力主義的な要素の残滓が沢山詰まっている事は、多くの識者の論じる所だ。相談支援や権利擁護システムの弱さ、「親亡き後」の地域生活支援基盤の脆弱さなどは、重度障害者の尊厳を社会で支える仕組み作りがなっていないことの証拠でもある。

まだるっこしい説明になってしまったが、端的に言えば、二人が前提としている一致点がまずもって守られていないからこそ、その前提確保の手段としての相違点の強調がなされたのではないだろうか。自己主張ができない(不得手な)人を排除しないでと述べることも、「親の愛」より本人の主張を大切にすることも、単純な能力主義の否定と重度障害者の尊厳の保持、という目的の為の、方法論である。同じ目的であっても、障害特性故に、方法論が違う。その時、目的があまりに遠いと、まずは方法論の確保が強調される。それは戦略上間違っていないのだが、しかしこの戦略が危ういのは、手段が容易に目的化に転倒しやすい、という点である。つまり、同じ目的を共有している、という前提を強調することなく、方法論上の違いのみを強調することは、結局は仲間割れ、というか、分断的な状況の構築に意図せざる結果として協力する羽目にはならないだろうか。

二人に「そう言わしめる」くらい、状況はまだまだ厳しい。ゴールが遠く、入口の確保もままならない。だが、そうであるが故に、お互いの方法論に過度に固執すると、どちらの方法論にも関心がない一般市民から、両方ともが「面倒だ」と切り捨てられるような気もする。当事者にとっても支援者にとっても、状況が厳しいからこそ、方法論上の差異よりも、同じ目的の主張という共同戦線、そちらの方が、むしろ求められている課題として大きいのではないか。そんなことを感じていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。