口を開けてPCの前に座るのは、

 

醜い。だが、気を抜けばそうなっている自分を発見し、愕然とする。

もともと、テレビを受動的に見るタチだった。小学生の夏休みなどは、朝7時から夜10時まで、ずっとテレビの前の子ども、という、今から考えるとなんと時間の無駄にしたのだろう、と思うガキだった。ニュースは一日5回くらい見たし、その間にアニメ劇場も、遠山の金さんや必殺仕事人の再放送(何度見たんだろう)も、ブレイクする前のダウンタウンが関西ローカルで出ていた「4時ですよーだ」(ふざけたタイトルだ)も、ずっとみていた。ファミコンを買ってもらえなかったかわりに、テレビ依存症だったのだ。今でも、放っておけば、テレビの前でぼーっと口を開けて、何も手に付かないお馬鹿な時がある。

だから、結婚したときに、「これからは、せめて食事中はテレビをみない」と決めた。あほらしい話かもしれないが、それほど依存的だったのである。妻よりテレビ、となると、妻に愛想を尽かされるのは目に見えている。だから、夕食の団らん時は、せめてテレビを消して、音楽でもかけながら、お互い今日あったことをぼそぼそ語る、ということを、我が家の枠組みとした。そのおかげもあり、僕が出張や不在が多いが、何とか妻からまだ愛想を尽かされていない。逆に言えば、それほどテレビは侵襲的、なのである。

で、その侵襲製は、ネットにもある、と思う。気が付いたら、何時間もパソコンの前で、ネットサーフィンに無駄な時間を費やしている。野口悠紀夫氏の「超超整理法」を読んでいて、テレビやネットにプッシュされることの害悪が書かれていて、片腹いたくなった。そう、テレビとネットの洪水を自覚的に遮断しないと、本当に「押されっぱなし」。ずっとその波に溺れ、気が付いたら数時間を無為に過ごしている。先述の野口氏は、そうではなく「積極的にプルせよ」と進めている。自覚的に考える主体になり、自分が必要な情報だけプルする、あとは情報の押しつけがましいプッシュを遮断した方がいい、という考え方である。

以前のテレビ、今ちでは若干ネット依存症的傾向のある人間として、非常にうなずける助言だ。

ネットで何となくだらだら時間を潰していると、本人は能動的にグーグルに検索語を打ち込んでプルしたつもりなのだが、結果として情報の洪水に押し流されてプッシュされっぱなし、という事態が僕にはよくある。そのアホらしさ、を考えた際、ネットというメディアのプッシュ力に驚嘆すると共に、テレビメディアに押し流されてきた嫌な過去の記憶が蘇る。口を開けて馬鹿面でテレビを見ていた少年ヒロシ君は、成長してPCの前で馬鹿面しているタケバタ氏になっただけだ。成長のかけらもない。

忙しい忙しいと言いながら、暇を見つけてそんな「暇つぶし」をしている余裕があるのか。それは明確な逃避ではないか。そう思うなら、どう実践が出来るのか、が問われている。もう少し、自覚的にならないと。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。