理解していないのは、どちら?

 

久々にのんびり出来た日曜日。

朝から定番のジムよってけし(JA直売所)に出かける。本当はこの土日、長野で気になるフォーラムがあって、そこに行く予定にしていたのだが、1月末〆切の二本の原稿がどうしても終わらず、日付変更線ギリギリで、ようやく脱稿したのだ。身も心もクタクタになっていたので、長野まで足を向けられず、さぼってしまったのだ。久しぶりに先輩Mさんにもお逢いできるチャンスと思っていたのだが残念。

で、今日もジムで運動しながら、「積ん読」状態だった本に手を伸ばす。そしてまた、ハッとさせられるフレーズに出会う。

「『ずいぶん分かりやすく話したとおもっていたのだが』と、ぼくはいった。『理解してもらえなかったようだ』。『理解していないのは、あの人たちを理解していないのは、あなたのほうじゃないの、パウロ?』。そういって、エルザはつけ加えた。『あの人たち、あなたの話はだいたいわかったと思うわ。あの労働者の発言からしても、それは明瞭よ。あなたの話はわかった。でも、あの人たちは、あながが自分たちを理解することを求めているのよ。それが大問題なのよね。」』(パウロ・フレイレ『希望の教育学』太郎次郎社、p34)

ブラジルの民衆教育のリーダーも、後に「被抑圧者の教育学」という名著につながる叡智を、若かりし日の失敗から見いだしていた。当時フレイレは、後に自らが否定する事となる、一方向型の詰め込み型教育(銀行型教育:banking education)を行っていた。「無知な民衆」を前に、子供への罰がいかに子供の心に悪影響を与えるか、科学的知識に基づきながら分かりやすく「啓蒙」しようとしたのである。その彼の話が終わった後、聴衆の1人が、「よい話を聞きました」と前置きした上で、「先生は、ぼくがどんなところに住んでいるか、ご存じですか? ぼくらのだれかの家を訪ねられたことがありますか?」と切り出す。その上でこの聴衆は、フレイレが住む暖かな家庭とはほど遠い住環境や社会状況で暮らす実態を述べた上で、こう締めくくったのだ。「わしらが子どもを打ったとしても、そしてその打ち方が度を超したものであるとしても、それはわしらが子どもを愛していないからではないのです。暮らしが厳しくて、もう、どうしようもないのです」

この記述を読んでいて、かのフレイレ氏も若かりし頃、自分と同じ過ちをしたのだな、と親近感を持つと共に、身につまされる思いをした。何度もこのブログに書いていることだが、「あなたは間違い」という表現の裏側には往々にして「私は正しい」という文言が張り付きやすい。しかし、その「間違い」とされる側にも、単純に切って捨てることの出来ない、本人なりの妥当性がある。「便こね」という「問題行動」をする認知症のお年寄りも、その行為の背景にはかなりの意味世界がある(何かわからないものがお尻に付いていて、気持ちがわるい、でも、どう処理していいのかわからないから、とにかくタンスの中に隠しておこう)。

この「本人の側から見た世界観」を「それは間違い」と切り捨てるか、あるいは「なぜそんな世界観に立つのだろう」という「対話」を試みるか。この点は、その後の歩みを大きく変えてしまう。フレイレもこんな風に言っている。

「人びとの世界の見方は、具体的な現実そのものによって条件づけられており、ある程度まで、前者は後者によって説明される。具体的な現実が変われば、そのことをとおして、世界の見方も変わっていくだろう。しかしさらにまた、(認識行為をとおして)現実が暴き出されていき、自分のこれまでの世界の見方を規定していた諸要因が見えてくると、そのことによっても世界の捉え方は変化しはじめるものだ。」(同情、p33)

そう、対話という「認識行為をとおして現実が暴き出されてい」くことにおそれをなすと、自分が持つ「標準的」知識から逸脱することに拒否的になる。自分の世界観(=自分にとっての標準的知識の枠組み)に固執する。しかし、自分の枠組みと相手の枠組みを「対話」させる事からでしか、別の見方を獲得することは出来ない。研修や授業という現場で、自分がうまくいかない時は、たいてい対話でなく、私の世界観の押しつけになっている。つまり、僕自身が相手の世界観から現実を「暴き出す」ことを面倒だと感じたり、恐れている場合に限って、僕は無意識的にではあるが、高圧的になるのだ。そういう場合って、自分が知らなかった「自分のこれまでの世界の見方を規定していた諸要因が見えてくる」絶好のチャンスなのに、いやそうであるが故に。

「あながが自分たちを理解することを求めているのよ。」

対話相手は、理解を求めている。福祉現場の職員研修をしていて、もっと障害者の声を聞いて、と伝える前に、まずはその研修現場に来ている職員の皆さんを理解することが基本となる。こう書くと、妥協的だ、とか、当事者よりも支援者贔屓なのか、という声も聞こえてきそうだ。しかし、違うはずだ。支援者という1人の人間が置かれている現状がどういうもので、構造的に大変な部分とは何か、に思いを馳せることなく、「良い支援をすべき」と銀行型的詰め込み教育をしても、人の考えは変わらない。本人が納得して初めて、何かが変わる。そして、納得とは、相手がわかってくれている、という安心感がベースにあって、その上で、説得力ある話が上に乗っかると、自分にも確かに非はあるかもという動きにつながるのだ。そこで大切なのは、まずは「信頼」である。信頼構築無く、いきなり説得だけで来られたら、それが正論であればあるほど、論理的反発が出来ないから、感情的に反発する。そして、それは講師の側にも強いハレーションの形で跳ね返り、互いが感情癒着状態になる。ああ、失敗した講義や授業って、だいたいこのパターンだった。

当たり前のことを、自戒を込めて繰り返すが、まず僕自身が、「認識行為を通して現実を暴き出す」ことに同意署名することが大前提になる。見えてきた「自分のこれまでの世界の見方を規定していた諸要因」の中に、改善点があるのであれば、潔く変えていくことが大切なのだ。それが、対話の回路を開く第一歩なのである。

「あの人たちを理解していないのは、あなたのほうじゃないの、パウロ?」

この言葉は、私自身への呼びかけそのものでもある。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。