みんな同じ

 

苦労をされているのだな、とよくわかった。

新聞記事で目にした、「英語のバカヤロー」(古屋裕子編、泰文堂)。12人の帰国子女ではない日本人研究者が、英語とどう格闘したか、のインタビュー集。自分自身も勿論ネイティブではないし、英語が母国語の国に暮らした事がないので、非常に興味津々に2時間弱で読了。スウェーデンで半年暮らしたが、その時はアヤシイ英語でごまかした。だが、カリフォルニアなどで、弁護士や専門家と議論出来ても、八百屋や魚屋でつっかえていた、という経験は、自分だけではなかったのだ。そういう共感だけでなく、今後の自分に大きく役立つ箴言も、実はいくつも入っていた。

「国際学会では、昼食会で壁の花にならないためにも必ずどこかのセッションに出て、一言ふたこと気のきいた質問をして自己アピールをして、少しでも存在を覚えてもらうというのが、参加者の鉄則です。しかし、ほかの研究者の挙手をかき分けて英語で発言するのは、当然のことながら英語に自信のない日本人には非常にハードルが高いです。」(酒井啓子、p164)

酒井氏の「壁の花」のエピソードは、非常に身につまされる。こないだの台湾の学会では、まさに自分自身が壁の花、だったからだ。あの酒井氏ですら、国際学会の壇上でぼろぼろになった、という。そういうエピソードの中から、また海外に全く知り合いのいない学会で自己の存在感をアピールするためにも、まさに体当たりで英語と格闘してきたのだ。僕自身、台湾では自分が発表したり、興味ある発表は聞いたが、その際にも自分の質疑応答の下手さ加減に本当にうんざりした。だから、オシャベリの浅野史郎氏の次の発言も、本当によくわかる。

「言語能力に自信を持っているからこそ、英語を話す場でも、自分の言語パフォーマンスに対する要求が高いんだと思います。『日本語だったら気の利いたことを言ったり、冗談を飛ばして笑いをとったりできるのになぁ』と思ってしまい、すごくもどかしい訳ですよ。」(同上、p110)

僕自身、言語能力が高いかどうかは別として、日本語であれば早口でくるくるとまくし立てる技だけは一応備えている。なので、この浅野氏が感じた「もどかし」さは、まさに我が事として理解出来る。そう、それを台湾でも、カリフォルニアでもやっぱり感じたから、悔しさを克服するために、VOAspecial Englishなどのシャドーイングなんぞ続けている。なんでもこないだ読んだ米原万里さんの対談集『言葉を育てる米原万里対談集 』(ちくま文庫)でも、シャドーイングがスピーキングの最も近道、と書かれていて、それにすがっているのだ。確かに、その甲斐あってか、多少今回のカリフォルニア出張では、幾分は酷い英語が緩和したような、いつもと同じような

そして、この本の箴言は、英語に限らない。

「英語は下手でもすばらしい研究をしていたらみんなが固唾をのんで聞いています。耳を澄まして。学生にもよく言いますが、一遍でも論文を書いてから外国に修行しに行ったほうがいいと私は思います。立派な論文が一遍あるだけで、周囲の自分に対する耳の澄まし方が全然違うんです。」(松原哲朗、p184)
「人に話して聞かせたいような中身はそんなにないじゃない。みんな目的をわきに置いて、手段だけ磨いている。そんなに靴を磨いてどこへ行くんですか。行くべきすてきなパーティーもないのに。」(養老孟司、p38)

松原氏は自身が海外研究の前にNatureに論文が掲載された経験を元に、「立派な論文が一遍ある」だけで違う、という。まだ、僕にはそれほどの代表作はない。この言葉は、ずしりと重く響く。だが、何より重いのが、養老氏の「そんなに靴を磨いてどこへ行くんですか」という批判。靴は、行き先があって、初めて輝く。伝えたいことがあるだけでなく、それを「他人も聞きたい」と思える水準まで考察が出来た上で、初めて「行くべきすてきなパーティー」が眼前に拡がる。パーティーへ行くための「一遍の論文」が先であり、それがないのに手段としての英語という靴だけ磨いても、仕方ないのだ。

英語の本を読んでいたつもりなのに、いつのまにか自らの研究のふがいなさに反省することしきりであった

「知の官僚制化」を超える編み込み

 

以前、久しぶりに我が家の本棚を整理したと書いたが、その際、いろいろ面白そうな本を発掘する。発掘、なんていうか、もともとは自分が買ったはずなのに、忘れていただけだ。情けない。ま、でも読んでよかった。

「人文・社会科学が、生活人から浮世離れの所作のようにおもわれているのは、日本に特有な輸入学問のせいばかりではない。学者流儀の認識が、生活人の実践の論理とちがう理論的論理だと多くの人びとにおもわれてしまっているからである。この隘路を乗り越えるためには、他者や社会を外側から認識するのとおなじように、認識する自分自身と認識枠(専門)について徹底的に客観化することである。(略)そのためにはブルデューが『掘り起こす必要があるのは研究者の個人的無意識ではなく、その研究分野の認識論的無意識である』と述べているように、再帰的学問ハビトゥスの錬磨と制度化が必要である。たとえそうした試みが、学問界を聖域化し、特権化する学者エスノセントリズム(自集団中心主義)を逆撫ですることにより、憤慨され、疎まれるにしても」(竹内洋『社会学の名著30』ちくま新書、p247-248

竹内氏の社会学案内は、自身の個人史を編み込みながら名著の持つ理論的魅力を伝え、見事なタペストリーとなった「竹内流」の編みものになっている。自身の視点と理論への理解の両方が相当深くて骨太なものではない限り、この様に豊かに折りあがらない。自分自身の編みものを振り返ると、縦糸も横糸もまだよれよれ。ほつれやすい、だけでなく、編み上げた作品としても弱い。こういう分かりやすくて骨太な文章からは、沢山のことを学ばされる。

で、ブルデュー案内の文章での竹内氏の論考に、背中を押されたような気がしている。最近、このブログでも反省的な文章がなぜ多いのだろうか、と思っていたのだが、「認識する自分自身と認識枠(専門)について徹底的に客観化すること」をしていたのかもしれない。そう、自分の枠組み、というイデオロギーに自覚的でないと、他者の、そして社会のイデオロギーの立ち位置をも相対化することは出来ないのだ。

福祉の学問領域でも、竹内氏の言うように、「学問界を聖域化し、特権化する学者エスノセントリズム(自集団中心主義)」はふくらみつつある。

「『実証主義的厳格さ』は、学者の官僚化と学問の官僚制化を象徴するものである。学会誌に発表される論文は、学会文法にそうことによって、洗練されてはいるが、知的興奮を伴うものはすくない。挑戦的な問題提起型論文は学術的ではないと論文査読者から掲載を拒否されやすい。学問の洗練という名で実のところは知の官僚制化が進んでいる。」(同上、p247)

この文言は、僕が入会している学会誌に無縁と言えるだろうか。「学会文法にそうことによって、洗練されてはいるが、知的興奮を伴うものはすくない」という、「研究分野の認識論的無意識」の帰結。そのことへの問題意識は、ブルデューに仮託した竹内氏にも共通するところなのだろう。そして、私自身も同感する。学者コミュニティ内部にのみ依拠すると、このような「洗練された無内容」という帰結に辿り着く。それを超えながら、かつ本質に迫る内容、と言えば。そう、ご縁があった私にとっての何人かの「師匠」はみな、「学者エスノセントリズム(自集団中心主義)を逆撫ですることにより、憤慨され、疎まれる」仕事をされ、そのことで、大切な何かを伝えてこられた方々ばかりだ。精神病院に潜入ルポする、「寝たきり老人は寝かせきり老人だった」と発見する、専門家支配の脱却と、脱施設や地域自立生活支援を提唱するどれもその時代の業界の主流(=学会文法)から逸脱している。ゆえに、異端視もされる。しかし、師匠の「挑戦的な問題提起型論文」は、パラダイムシフトとして、既存の枠組みに揺さぶりをかけ、新たな時代の幕開けにつながる

そういう仕事をしておられる先達達に共通するのは、まさに竹内氏の整理するように「認識する自分自身と認識枠(専門)について徹底的に客観化」する姿勢だ。そこから、「知の官僚制化」を超えた「知的興奮」を伴う新たな枠組みが生まれる。自分自身、そのことには気づけたようだ。後は、ちゃんとした編み込みを仕込むのみ。これは、言うはやすし、なのだが

私の両義性

 

身延線の沿線ではそこかしこで桜模様が見え始めている。ここ数日、寒の戻りはあるものの、春はいよいよ目前に来ているようだ。

月曜から3日ほど、大阪と三重に出かけてきた。毎日違う現場で、いろいろな人とやりとりする機会もあった。久しぶりの友人や先輩との語らいのチャンスもあった。そうして、いつもとは異なる場所で話をしている中で、改めての自己定義、というか、自分のやっている方向性のようなものが、その現場との「あいだ」に立ち現れている。そう「あいだ」といえば、「あいだ」論を精神科の臨床から哲学領域にまで高めた木村敏氏の入門書的な語りおこしである「臨床哲学の知」(洋泉社)の記述を思い出す。(その本が手元にないので、記憶を頼りに再構成してみる)

木村氏は、私というものを、主語的なものと述語的なことの二つから構成される、としている。アイデンティティとか私の唯一無二性という時、それは主語としての、取り替えの効かない場としての私であり、彼はそのことを「リアリティ」と呼んでいる。そして、それ以外に、リアリティを持った私が、いろいろな現場で、様々な人や出来事との「あいだ」で繰り広げられる多元的な現実は、述語的な「こと」であるという。私は同じでも、することは、その時々で違ってくる。職業人をする、家庭人をする、職業と言っても僕で言えば、研究する、教育する、実践するといった様々な「する」から成り立っている。この時々によって違う「する」の現実を、先のリアリティに対比させて「アクチュアリティ」と呼んでいる。

この二つを用いると、今までの自分のバラバラな営みが、割とすっきり整理出来てくる。

例えばこの3日間を例にとっても、ある通所施設の組織的課題の整理、入所施設や地域移行からの退院促進、支援職員のエンパワメント、など多様なジャンルの仕事を引き受けている。確かにつながりはあるのだが、違うアクチュアリティの場に複数関わる中で、僕自身の唯一無二性のようなものがそもそもあるのだろうか、という揺らぎが生じする。しかし、どういう述語を持ってきても、その述語の主語として、取り替えられない唯一無二の場としてのタケバタヒロシという主語(=リアリティ)がいつでもかぶっているのだ。どんな述語と向き合う際にも、幸か不幸か、この主語は不在にすることは出来ない。つまり、何に関わっても、タケバタが関わる、という主語性はいつもついてくるのである。

これは、考えようによっては面白い。

専門家、と言われる人の中には、自身の「述語性」を限定して、つまり「する」ことを限定して、一つの「する」を深く深く掘り下げる中で、その専門家としてのアイデンティティを築こうとするかたもおられる。それはそれでよいのだが、欲張りタケバタは、その述語性の限定が時として「タコツボ的隘路」にはまりこむことに対する危惧をもっていた。ゆえに、タコツボにならないように、あれこれと手を出すのだが、するとどうしても深入りしにくいし、散漫になりやすい。そんな述語の中途半端さや、場合によってはその分裂に当惑していたのであった。

しかし、結局何をやっていても、その述語が立ち現れる「場」である主語としての私の一貫性は、別に無理しなくても保持されている。何をしても「私は私」という自己同一性は間違いなくあるのだ。ならば、無理に述語性まで制約しなくても、のびのび気になることをとことん追い求めたらいいのではないか。複数の述語が同時並行的に走っていても、それを統括する場としての私、というリアリティに対する信頼があれば、なんとかなるのだ。私という場の輪郭を意識しながら、一つ一つの立ち現れるアクチュアリティの世界に没入し、そこで流れるリズムやメロディに身を寄せる。そういう両義性の中で、各現場の求める何かに寄り添うことが可能ではないか。

少し出張に疲れ果てながら、ぼんやりそんなことが頭に浮かぶ、夕刻の「ふじかわ」号であった。、

念願の…

 

自宅の書斎の片づけをした。ほんと、荒んでいた。

本棚だけでなく、机の上も本が散乱し、にっちもさっちもいなかなった。アメリカ出張中にパートナーが服の移動を行って下さったのはよいが、その残骸が書斎に溜まっていた。そして、出張帰りのスーツケースやら、色んな書類やらが、地べたにどかどか、ぐちゃぐちゃ。それをみて、益々片づける気力が失せ、いつしか書斎のPCの前からも遠ざかり、そしてこのスルメブログからも

こういう悪循環を断ち切ることが出来たのは、ようやく少し、春休みが取れたからだ。まずはじっくり睡眠を取った後、久しぶりに台所にも立つ。昼は大家さんに頂いたほうれん草とベーコンのパスタ。夜は、新ジャガのフライドポテトにゴーヤチャンプル、そしてうるめいわしの梅煮。春の味が非常に美味しい。こういう美味しいものを食しているうちに、気力が沸いてくる。そして少しは改心して、「時間は有限だから」と、読まない本をどんどん処分し、スペースを見つけ、机の上の本をそちらに移す。ついでに服の入れ替えと、いらない服も処分する。そうして、ようやっと書斎も衣装棚もまともになった。頭がすーっとしてくる。

実はこの休暇の間に、整理本も集中的に読んでいた。

「私たちは、必ずしも自由に読書の時間をとれるわけではありません。他にやらなければならないことを山ほど抱え、それでも仕事のためには本を読まなければならず、また楽しみのために本も読みたい。その時間が取れないこともかなり大きなストレスです。では、どうしたらいいのでしょう。まず、<読書以外の気がかりに何とか片をつけること>が必要です。そのための一つの手法として先ほど触れたGTD(Getting Things Done)というものがあります。」(米山優『自分で考える本』NTT出版p29)

これを読んで気になり、早速GTDの推奨者、デビッド・アレン氏の著作『ストレスフリーの整理術』『ストレスフリーの仕事術』(ともに二見書房)を読んでみる。以前、『ガラクタ捨てれば自分が見える』を読んだ時と同じような見通しのよさが、よりプラグマティックに書かれていて面白い。たとえばこんな風に

「私はまず『あなたの能力は、あなたがリラックスできる能力に比例する』という法則からはじめ、さらに生産性を向上させる次の4つの分野について掘り下げていった。
1,あちこちに散らばった『やりかけの仕事』を集めて処理すれば、するべきことが明らかになり、エネルギーが沸いてくること。
2,やるべきととをあらゆる視点から観察し、意識的に管理すれば生産性が高まること。
3,信頼出来る枠組みを構築し、それを使い続ければ必要な集中力を得られること。
4,柔軟かつ前向きな行動を日常的に実践することにより、物事が前に進んでいくこと。」
(デビッド・アレン『ストレスフリーの仕事術』二見書房、p20-21)

この4つが、一番出来ていなかった領域。「やりかけの仕事」が不明確で、エネルギーが沸いてこないことはしょっちゅうある。それが忙しいはずなのに無駄なネット暇つぶし、に直結する。意識的な管理が崩壊すると、生産性も破壊される。だからこそ、予定表を含めた枠組みも崩壊。それゆえ、柔軟さや前向きさがなくなり、物事が悲観的、日和見的処理になっていく

こんな日が続いて、非常に身も心もささくれだっていたのだ。そこで、一念発起して、とにかく捨てる、処理する、収集する、整理する。この本に書かれているGTDのメソッドを徹底的にするには、実はまだその半分の段階にも来ていない(全ての情報を収集し分類・整理しきっていない)のだけれど、とにかく暫定的に職場と自宅の書類を大処分したので、まずは整理の前段階に入った。それと共に、少しずつ頭がクリアになってくる。特に、自宅書斎は、本棚の整理も今日したので、「あ、こんな本を買っていたっけ」というめっけもんに沢山出会う。なるほど、意識的な管理は、大変だけれど、大切なのですね。

もともと本を読むスピードも速くないし、要領も頭も良くない。ならば、なおさらのこと、<読書以外の気がかりに何とか片をつけること>が大切なのだ。そういえば、カリフォルニア調査の時、現地のソーシャルワーカーに職員教育の質問をしていた時、彼の地でもタイムマネジメントが最大の鍵だ、と言っていた事を思い出した。膨大なケース数を、しかも一定のクオリティを保ちながらこなす為には、時間管理の術が欠かせないのだそうな。それって、全くもって自分にも当てはまる。本を読んでいない、考えていないと、どんどんアホになる。しかし、「読書以外の気がかり」はなかなか消え失せない。ならば。マメな整理以外、状況は打開出来ないのだ。ま、これに気がつけたのも、こうして休暇があったから。心にも時間にもroom(余地、余裕、隙間)をどう創れるか。山梨に来て4月で5年目、そろそろこれくらいは出来なくっちゃ

民主主義の絶対条件

 

ジェラルド・カーティスと言えば、日本の政治に精通しているアメリカ人研究者。彼が大学院生の時に大分の自民党議員の選挙事務所にボランティアで入り込み、日本の選挙風土を実に丁寧にフィールドワークとしてまとめた出世作「代議士の誕生」(サイマル出版会)は、読み物としても大変面白い。現場にじっくり入り込んだ上で、その現場から一歩引いて日本の政治風土全体のコンテキストの中で問題点を指摘する。彼のクールヘッドとウォームハートに基づく分析を読みながら、私自身も彼の研究手法から多くのことを学ばせて頂いた。

そのカーティス氏が、実に興味深い事を書いていた。

「国家権力があくまでも公平・公正に使われていると国民が信じられることが、民主主義の絶対条件である。いま日本では政治家もマスコミも、さらには国民一般も、この問題にあまりにも鈍感になっていないか。今回の事件は一人の野党リーダーの問題だけではない。党利党略ばかりを考えず、法治国家としてのプロセスの正当性を守る意味においても、麻生首相をはじめ与野党の政治家たちは、検察の責任者が公の場に出てきて国民に説明責任を果たすよう求めるべきだ、と私は思う。」(朝日新聞2009年3月12日 私の視点)

国家権力の正当性という問題を、このように真正面に捉えている論調が、日本の新聞自体の社説なり論調に出ているだろうか。確かに、この記事は大新聞に掲載されたが、あくまでも新聞社の主張・社説ではなく、研究者個人の考えである。カーティス氏はその記事の中で、このようにも述べている。

「朝日新聞は3月10日、『民主党、この不信にどう答える』と題した社説を掲げたが、どうして『検察、この不信にどう答える』と問いかけないのか。検察のやることは絶対に正しく、疑う余地もないことでも思っているからなのか。マスコミは検察側が不機嫌になるような報道を自己規制して控えているからか。」(同上)

私がアメリカ滞在中に突如沸き上がった、野党第一党の党首を巡るスキャンダル疑惑について、事の真偽はわからない。別に、私はこのブログで、その善悪の判断をする気もなければ、どこかの党の主張と同調する気もない。でも、カーチス氏が言うことに、すごく同感する。日本のマスコミの論調は、「関係者の話に依れば」「調べに対して」といった形で一応の言い訳はつけるものの、国家権力の発表を「事実」のような体裁で表記している場合が少なくないからだ。「検察のやることは絶対に正しく、疑う余地もないこと」というカーティス氏の分析が、決して彼の妄想や誇張に思えない場合があるからだ。

私自身、日本という国に住む市民として、日本社会がより安定的なものであってほしいと希求している。だからこそ、「国家権力があくまでも公平・公正に使われている」と信じたい。この前提が崩れたら、「民主主義の絶対条件」にも曇りが生じる、と思う。だからこそ、日本をよく知る外部の目からのこの警告には、きちんと耳を傾けたいのだ。本当に国家権力が公平・公正であるのか、と。過度な一般化は常に禁物と思いつつ、佐藤優氏の一連の著作を読んでいても、「国策捜査」という文言が、頭の端をよぎる。

権力が悪、と言っているのではない。権力は、統治機構の維持において、必要不可欠である。だが、その権力に自覚的であるかどうか、また権力の無謬性に対して懐疑的かどうか、は常に大切なポイントではないか。無自覚な権力者は、意図的な権力者と同じくらい、権力の濫用に鈍感であり、それほど問題の根は深い。そして、無自覚な権力への同調者は、意図的な権力への同調者と同様に、これらの濫用を促進させる。国家の統治機能を真っ当に維持するために、住みやすい国を保つためには、警察や検察だって、「おてんとうさまに照らしても、真っ当と胸を張って言える仕事」をしてほしい。この3月に巣立つ我が学科の卒業生も、警察官になる学生が多いからこそ、切実にそう思う。

真っ当な主張と、真っ当な議論、そして真っ当な批判が、この問題に対してもなされることを祈るばかりだ。

積極的中途半端さ

 

成田エクスプレスの車内は暖房が効きすぎた。Tシャツ一枚で、雨模様の空を眺めながら、しかし車窓から梅の花を見て、帰国した事を感じる。

2週間弱、サンフランシスコに調査に出かけていた。これで4度目になる彼の地での障害者の権利擁護に関する調査研究だ。いつもより少し滞在期間を延ばし、腰を据えて調査に取り組んだ。それと共に、たまに日本を離れることを幸いに、少し自分のスタンスを俯瞰的に見つめ直すチャンスがあった。

とはいっても、4回もサンフランシスコに行っているのに、一度もゴールデンゲートブリッジ行く暇もないほど、なんだかんだ予定が詰まっている。日程表上では空いていても、調査先の関連資料の予習をしているうちにあっという間に時間は経つし、それだけでなく滞在期間中やその後すぐの〆切の「宿題」もわんさか抱えてきた。我ながら因果な商売だが、まあ引き受けた事には一応のけじめを付けなければならない。そうは言いながらも、ちゃっかりブータン展をやっているアジア美術館に2時間ほど滞在して、曼荼羅を久しぶりに至近距離で眺めていたりもしたのだが

で、ある場所を定点観測的に眺めていると、その現場の変容を感じられるだけでなく、その現場を眺めている自分自身の変容をも感じる事がある。今回は特にそれを実感する。これまでなら見えていなかった視点、感じ取れなかった事が、「そうだったんだねぇ」と腑に落ちる。この腑に落ちかたは、新たな発見による納得も勿論あるのだが、それよりも自分が「わかる」範囲の外にあった(=故に未分化・未消化で検討の対象外だった)ものが、急に眼前に拡がる鮮やかさ、とでも言おうか。そういう理屈でこの仕組みが成り立っているんだね、と気づくことで、今まで断片化されていた知識が、少し整ってくるというか、そういう感じだ。

この種のバージョンの再編や改変は、やはり現場に行かないと見えにくい。ただ、だからと言って現場が全て、の現場第一主義者でもない。それなら、研究なんぞしているより、どこかの現場に専心した方がよいからだ。当たり前の話だが、医療でも福祉でも法律でも、現場の最前線で生起しつつあることは、研究者ではなく臨床家こそがダイレクトに接している。ただダイレクトに接しているから、といっても、その生起しつつある事がどのような価値を帯びていたり、今までの有り様とどう違うのか、という俯瞰的な眼差しをもっているかどうか、はまた別問題であるし、そんなことは臨床家には関係ない場合も少なくない。一歩引いて普遍的に言えることはどうだ、と講釈をたれても、今そこで困っている特定の○○さんの今日明日の暮らしにダイレクトに響かない場合の方が多いからだ。

でも、そうは言っても、明後日の、半年1年後の現場の現実をより良いものに変えるためには、それなりの戦略がいる。漫然と昨日から受け渡された今日、明日を続けているだけでは、バケツリレーは出来ても、そもそもバケツリレーを本当に必要としているのか、違う方法はないのか、バケツリレーの副作用は無いのか、ということを根本的に考えることが出来ない。だからこそ、一歩引いた抽象性や客観性が求められる。

ただ、生身の人間の性の有り様に深くコミットするソーシャルワークや社会政策の領域では、理論的な善悪を論ずるよりも、より良い明日のためにどうすればいいか、についての「具体の方法論」を求められる事も少なくない。準拠点になるものが、○○理論ではなくて、障害者の地域自立生活支援を実現するためにはどうしたらよいか、という前提に立てば、○○理論のadvocatesとは違う形での価値や態度表明になる。勢いその価値には純粋な理論的価値基準より、生の人間の感情が色濃く反映されたものになりやすい。だからこそ、学派間の論争とは違う形での「神学論争」的な、頭でっかちの議論になる可能性もある。

そうであるからこそ、たまには頭を冷ますために、現実に深くコミットしすぎている場合は理論的な水準に立ち返る必要があるし、逆に理屈で詰まっている場合には、いろんな現場を比較検討して歩く中で、よりよいものは何か、についての再評価をし直すことが求められるのだ。安易な神学論争に陥らないためには、「具体の科学」とグランドセオリーの間を、実践と理論の間を、何度もなんども自分の足で歩き、往復し続ける中で考えるしかない。そして、複合科学として人びとの生活のありように深くコミットする学の分野であるだけに、結局の所、現場に貢献する理論というか、理論的に高められる現場実践の抽象化というか、つまりはメゾ的なものが求められる。そう、積極的な中途半端さが肝要なのだ。

今まで、この中途半端さが、自分にとっては一番嫌な側面だった。もっと白黒はっきり付けたい、とそう思った。だが、この福祉の分野で、白黒を単純に表明することは、安易なイズムや主義につながる。そして、イズムや主義につながったものは、その色とは違う価値観を持つ人が、全く耳を傾けてくれない、それこそ「神学論争」になる。どちらにも態度保留な中途半端さではなくて、ある価値基盤に基づいてはいるけれど、その基盤以外は全く目にも耳にも入らないのではなく、積極的に吸収し、その基盤をより良い者にするために応用する、という意味での「具体の科学」の大胆さが求められるのだと思う。

カリフォルニアまで行ってみえてきたのは、そういう己のこれまでの器の狭さと、ちびっとではあるがその器の小ささも含めた自身の中途半端さを積極的に引き受けよう、という心の変化である。結局どこに行っても見ているものは一緒じゃんか、と言われたら、そりゃそうだ。同じタケバタヒロシなんだから。でも、環境を変えるからこそ、大事なことを発見出来る時もある。そんな、4回目のカリフォルニアからの帰りであった。

内なる対話と再生産

 

教師と生徒の関係について興味深い記述に出会った。

「教師が自らの仕事に専心するならば、教師はマネされることを目的とはしないロールモデルである。教師の与えられるものと言えば、およそ次のものである。1,話をすることによって、教師は自分の専門のある側面に関して、生徒の関心を向かわせ、生徒にとってそれまで馴染みが無かった問題への関心を引き出す。2,教師は生徒と教師の持つ知識を共有することにより、生徒が学びたいという願いに答える。3,教師は生徒に教えた情報を生徒が吸収出来るように、そして生徒自身が自分独自のやり方で(既にその情報を改変しながら)その知識を再生産出来るように促す。4,生徒が教師をマネすることを望む代わりに、教師は生徒が教えられたことを自分の言葉で話せるように変えるように求めることによって生徒の独自性を刺激する。」(Peperzak, A.T,, Thinking; From Solitude to Dialogue and Contemplation, Fordham University Press, 2006, 38)

直訳調で本文の持つ雰囲気を伝え損ねているが、ぱっと開けたページにそんなことが書いてあると、思わず嬉しくなる。そう、「真似ぶ」ことから「学び」は始まるのだが、真似する(imitate)ことがゴールではない。「生徒自身が自分の独自のやり方で知識を再生産出来るように促す」ことを通じて、生徒がその知識を自家薬籠中のものにして、「自分の言葉で話す」「独自性を刺激する」、それが教師の役割なのだ。

この表現は、こないだ引いた橋本治氏の「『わかる』とは、自分の外側にあるものを、自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成をすることである。」という発言と同じ事を言っているのが面白い。でも今日はこのPeerzakさんの考えをもとに、自分自身の経験について、自分なりの「再構成」をしてみたい。

彼の教師-生徒関係の議論は、これまで何人かの先達に師事してきた自身の学びとも一致する。最初は「真似する」ことから始まるのだが、師と同じ空間を共有し、師の話す中に自分が求めるべき何かを発見し、気が付けば自分もその師が追いかける何か、を希求するようになる(ステップ1から2)。ただ、ずっと師のやり方を真似ていても、師のやり方は師の性格に合ったやり方であり、自分がそのまま引き継ぐことが出来ない。ここで、弟子としては乖離状態、というほど大げさなものではないが、師のスタンスと、自分の出来なさの間に引き裂かれる。その際、師のやり方をずっと真似しているだけでは、真の意味での脱皮は出来ない。ここが苦しいところなのだが、「自分独自のやり方で(既にその情報を改変しながら)その知識を再生産」することが求められる。こういう考え方、理論、問題意識を、自分に引きつけたら、どう理解出来るだろう。これは自分の持っている世界観をどう改鋳し、拡げてくれるだろう。そのような内なる魂との対話が求められる(ステップ3)。この3番目のステップを通り抜けると、ようやく師に教わった内容を「自分の言葉で話せるよう」になる(ステップ4)。受験勉強の暗記数学で詰まった時も、大学院の世界に馴染むために苦悩した時も、結局はこの4つのステップを通らないと、少なくとも僕は「学ぶ」「わかる」「変わる」ことは出来なかった。

ちょうど今年度末で、いくつかの報告書に頭を悩まされている。毎日パソコンに向かいながら格闘しているのは、僕なりに、これまで追い求めてきたあるテーマについて、様々な先達から教わった内容を元に、自分独自のやり方で、その情報を改鋳させながら、自分なりの言葉で語り直そうとしている営みである。ついつい先達の言葉を鵜呑みにしてしまいそうになる。だが、そこで求められるのは、知識の複写ではなく、稚拙でもいいから自分なりに再生産することである。自分の頭を通さないコピー&ペーストではなく、がらくたしか詰まっていないかもしれないけれど、この自分の身体と脳を通して、自分の経験やこれまでのわずかなストックとも相談しあって、自分なりに理解出来ることを、自分が納得する文体で、語り直す。その作業が必要なのだ。そう思うと、今は本と格闘しているが、その本の筆者をどれだけ思い浮かべ、どれほどその筆者と対話出来るか、が求められている。この著者も言うではないか、「考える事によって、孤独から対話、そして深い思考へと導き出される」と。

内なる対話を通じて、「僕はあなたの差し出してくださったものをこう理解した」という自分なりの再生産の作業、やっていると、実はワクワクしてくるものでもある。