みんな同じ

 

苦労をされているのだな、とよくわかった。

新聞記事で目にした、「英語のバカヤロー」(古屋裕子編、泰文堂)。12人の帰国子女ではない日本人研究者が、英語とどう格闘したか、のインタビュー集。自分自身も勿論ネイティブではないし、英語が母国語の国に暮らした事がないので、非常に興味津々に2時間弱で読了。スウェーデンで半年暮らしたが、その時はアヤシイ英語でごまかした。だが、カリフォルニアなどで、弁護士や専門家と議論出来ても、八百屋や魚屋でつっかえていた、という経験は、自分だけではなかったのだ。そういう共感だけでなく、今後の自分に大きく役立つ箴言も、実はいくつも入っていた。

「国際学会では、昼食会で壁の花にならないためにも必ずどこかのセッションに出て、一言ふたこと気のきいた質問をして自己アピールをして、少しでも存在を覚えてもらうというのが、参加者の鉄則です。しかし、ほかの研究者の挙手をかき分けて英語で発言するのは、当然のことながら英語に自信のない日本人には非常にハードルが高いです。」(酒井啓子、p164)

酒井氏の「壁の花」のエピソードは、非常に身につまされる。こないだの台湾の学会では、まさに自分自身が壁の花、だったからだ。あの酒井氏ですら、国際学会の壇上でぼろぼろになった、という。そういうエピソードの中から、また海外に全く知り合いのいない学会で自己の存在感をアピールするためにも、まさに体当たりで英語と格闘してきたのだ。僕自身、台湾では自分が発表したり、興味ある発表は聞いたが、その際にも自分の質疑応答の下手さ加減に本当にうんざりした。だから、オシャベリの浅野史郎氏の次の発言も、本当によくわかる。

「言語能力に自信を持っているからこそ、英語を話す場でも、自分の言語パフォーマンスに対する要求が高いんだと思います。『日本語だったら気の利いたことを言ったり、冗談を飛ばして笑いをとったりできるのになぁ』と思ってしまい、すごくもどかしい訳ですよ。」(同上、p110)

僕自身、言語能力が高いかどうかは別として、日本語であれば早口でくるくるとまくし立てる技だけは一応備えている。なので、この浅野氏が感じた「もどかし」さは、まさに我が事として理解出来る。そう、それを台湾でも、カリフォルニアでもやっぱり感じたから、悔しさを克服するために、VOAspecial Englishなどのシャドーイングなんぞ続けている。なんでもこないだ読んだ米原万里さんの対談集『言葉を育てる米原万里対談集 』(ちくま文庫)でも、シャドーイングがスピーキングの最も近道、と書かれていて、それにすがっているのだ。確かに、その甲斐あってか、多少今回のカリフォルニア出張では、幾分は酷い英語が緩和したような、いつもと同じような

そして、この本の箴言は、英語に限らない。

「英語は下手でもすばらしい研究をしていたらみんなが固唾をのんで聞いています。耳を澄まして。学生にもよく言いますが、一遍でも論文を書いてから外国に修行しに行ったほうがいいと私は思います。立派な論文が一遍あるだけで、周囲の自分に対する耳の澄まし方が全然違うんです。」(松原哲朗、p184)
「人に話して聞かせたいような中身はそんなにないじゃない。みんな目的をわきに置いて、手段だけ磨いている。そんなに靴を磨いてどこへ行くんですか。行くべきすてきなパーティーもないのに。」(養老孟司、p38)

松原氏は自身が海外研究の前にNatureに論文が掲載された経験を元に、「立派な論文が一遍ある」だけで違う、という。まだ、僕にはそれほどの代表作はない。この言葉は、ずしりと重く響く。だが、何より重いのが、養老氏の「そんなに靴を磨いてどこへ行くんですか」という批判。靴は、行き先があって、初めて輝く。伝えたいことがあるだけでなく、それを「他人も聞きたい」と思える水準まで考察が出来た上で、初めて「行くべきすてきなパーティー」が眼前に拡がる。パーティーへ行くための「一遍の論文」が先であり、それがないのに手段としての英語という靴だけ磨いても、仕方ないのだ。

英語の本を読んでいたつもりなのに、いつのまにか自らの研究のふがいなさに反省することしきりであった

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。