「知の官僚制化」を超える編み込み

 

以前、久しぶりに我が家の本棚を整理したと書いたが、その際、いろいろ面白そうな本を発掘する。発掘、なんていうか、もともとは自分が買ったはずなのに、忘れていただけだ。情けない。ま、でも読んでよかった。

「人文・社会科学が、生活人から浮世離れの所作のようにおもわれているのは、日本に特有な輸入学問のせいばかりではない。学者流儀の認識が、生活人の実践の論理とちがう理論的論理だと多くの人びとにおもわれてしまっているからである。この隘路を乗り越えるためには、他者や社会を外側から認識するのとおなじように、認識する自分自身と認識枠(専門)について徹底的に客観化することである。(略)そのためにはブルデューが『掘り起こす必要があるのは研究者の個人的無意識ではなく、その研究分野の認識論的無意識である』と述べているように、再帰的学問ハビトゥスの錬磨と制度化が必要である。たとえそうした試みが、学問界を聖域化し、特権化する学者エスノセントリズム(自集団中心主義)を逆撫ですることにより、憤慨され、疎まれるにしても」(竹内洋『社会学の名著30』ちくま新書、p247-248

竹内氏の社会学案内は、自身の個人史を編み込みながら名著の持つ理論的魅力を伝え、見事なタペストリーとなった「竹内流」の編みものになっている。自身の視点と理論への理解の両方が相当深くて骨太なものではない限り、この様に豊かに折りあがらない。自分自身の編みものを振り返ると、縦糸も横糸もまだよれよれ。ほつれやすい、だけでなく、編み上げた作品としても弱い。こういう分かりやすくて骨太な文章からは、沢山のことを学ばされる。

で、ブルデュー案内の文章での竹内氏の論考に、背中を押されたような気がしている。最近、このブログでも反省的な文章がなぜ多いのだろうか、と思っていたのだが、「認識する自分自身と認識枠(専門)について徹底的に客観化すること」をしていたのかもしれない。そう、自分の枠組み、というイデオロギーに自覚的でないと、他者の、そして社会のイデオロギーの立ち位置をも相対化することは出来ないのだ。

福祉の学問領域でも、竹内氏の言うように、「学問界を聖域化し、特権化する学者エスノセントリズム(自集団中心主義)」はふくらみつつある。

「『実証主義的厳格さ』は、学者の官僚化と学問の官僚制化を象徴するものである。学会誌に発表される論文は、学会文法にそうことによって、洗練されてはいるが、知的興奮を伴うものはすくない。挑戦的な問題提起型論文は学術的ではないと論文査読者から掲載を拒否されやすい。学問の洗練という名で実のところは知の官僚制化が進んでいる。」(同上、p247)

この文言は、僕が入会している学会誌に無縁と言えるだろうか。「学会文法にそうことによって、洗練されてはいるが、知的興奮を伴うものはすくない」という、「研究分野の認識論的無意識」の帰結。そのことへの問題意識は、ブルデューに仮託した竹内氏にも共通するところなのだろう。そして、私自身も同感する。学者コミュニティ内部にのみ依拠すると、このような「洗練された無内容」という帰結に辿り着く。それを超えながら、かつ本質に迫る内容、と言えば。そう、ご縁があった私にとっての何人かの「師匠」はみな、「学者エスノセントリズム(自集団中心主義)を逆撫ですることにより、憤慨され、疎まれる」仕事をされ、そのことで、大切な何かを伝えてこられた方々ばかりだ。精神病院に潜入ルポする、「寝たきり老人は寝かせきり老人だった」と発見する、専門家支配の脱却と、脱施設や地域自立生活支援を提唱するどれもその時代の業界の主流(=学会文法)から逸脱している。ゆえに、異端視もされる。しかし、師匠の「挑戦的な問題提起型論文」は、パラダイムシフトとして、既存の枠組みに揺さぶりをかけ、新たな時代の幕開けにつながる

そういう仕事をしておられる先達達に共通するのは、まさに竹内氏の整理するように「認識する自分自身と認識枠(専門)について徹底的に客観化」する姿勢だ。そこから、「知の官僚制化」を超えた「知的興奮」を伴う新たな枠組みが生まれる。自分自身、そのことには気づけたようだ。後は、ちゃんとした編み込みを仕込むのみ。これは、言うはやすし、なのだが

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。