二つのロゴス

 

土曜日、久しぶりにお会いしたMさんから、「タケバタ君、やせた?」と嬉しいお声かけ。いえ、体重は変動はありません。でも、ここ数ヶ月、毎朝の腹筋を続けているせいで、ポッこりお腹が引き締まったのであります。いやはや、継続は力なり。

で、そのMさんとお会いしたのが、大学院時代に博論へと導いてくださった指導教官「ゆきこさん」が主催された「えにしの会」。別の研究会で泣く泣く1回欠席した以外は、毎回参加し、様々なことを学ばせて頂いている。今回、この会の前後で二冊の「えにし」を頂いた。

一つが、当日のシンポジウムにも登壇された権丈善一氏。以前から氏の社会保障に関するスタンスや研究から沢山学ばせて頂いていて、生ケンジョウ先生を見れるのを楽しみにしていた。話の枕に、「忙しい研究者、というのは本来論理矛盾だ」と仰っておられたが、しかし社会保障審議会の委員もしていて、著作も多く、挙げ句の果てに当日の講演は事前に原稿を作ってそれをネットでアップまでしている。議論は精密なのに、仕事が速い。こういうキレの良さは100年経っても学習出来なくても、本当に爪のあかを煎じて飲ませて頂きたいくらいだ。

で、内容はリンクを張った講演原稿を参考にして頂くことにして、権丈氏の論理の鮮やかさは、例えばこの日の副題である「足りないのはアイデアではなく財源である」といったワンフレーズの名言にも如実に表れている。この名言に関しては、行きの予習に読んだ彼の最新刊でも、審議会での発言として、次のような決め台詞が載せられていた。

「日本は小さすぎる福祉国家、低負担・低福祉国家と呼んでもよいと思います。だから、医療・介護も崩壊しているのだし、少子高齢化は手つかずのまま何十年も放置されてきたのです。この低負担・低福祉国家を中負担・中福祉国家にするということは、負担が増えるのみならず、しっかりとした社会保障の確立も国民に約束できる話になります。」(権丈善一『社会保障の政策転換』慶應義塾大学出版会、p71)

今、日本の政治家で、ここまで論理性と説得力を持って言い切れる人間がどれだけいるだろう。いや、研究者だってそうだ。エビデンスと論理的確かさにしっかり裏打ちされた上で、あるべき姿を明快に論じる。しかも彼の中では財源問題は、「しっかりとした社会保障の確立も国民に約束できる」という目標のための、あくまでも方法論上の課題として提示されている。こういう社会保障学者の議論には、素直にうなずける。

方法論としての財源問題、と言えば、自立支援法成立以前からずっと、介護保険との統合、1割負担という定率負担の是非を巡る議論が続いてきた。この際、障害福祉の分野に1割負担を導入する論者が必ず言っていたのは「介護保険に統合すれば財源が安定するし持続可能になる」「応能負担では低所得の障害者は殆どタダでサービスを使うことになり、サービスの乱用に繋がる。権利としてのサービスは、お金を払えば確立出来る」というロジックであった。

しかし、これって「今の目の前ですぐに使える道具を使って財源不足を解決するには、この案しかないよね」という目先の議論にしかすぎない。真の問題は、介護保険に統合すれば障害者福祉は薔薇色だ、という「アイデア」にあるのではなく、足りないのは介護・福祉に投入される「財源である」、というシンプルな俯瞰図に、ミクロな目の前しか見えていないと、ついつい気づかない。気がつけば意図的に作り上げられた(=偏りのある)ロジックに踊らされる。権丈先生の本を読み、実際の話を伺っていて、当たり前の話だが、物事を鵜呑みにせず、自分の頭できっちり確かめる大切さを、改めて感じた。

そして、この自立支援法の応益負担に関しては、次の名言をふと思い出す。

「応益負担は「{無実の罪で収監された}刑務所からの保釈金」の徴収に等しい」

自立支援法が審議された社会保障審議会の席で、この歴史的名言を述べた盲ろう者で初めての東大教授、福島智氏。土曜日は、氏を4年以上取材し、膨大なインタビューや周辺取材を基に出来上がったルポタージュ『ゆびさきの宇宙-福島智・盲ろうを生きて』(生井久美子著、岩波書店)が、ちょうどこの会の開催に合わせて出版され、販売されていた。著者の生井さんから直接サインをしてもらい、ルンルンと帰りの列車で読み始めたら、面白くて深くて、一気に読んでしまう。ご本人は謙遜されて

「著者は生井久美子になっていますが、私『も』、本づくりの一員に加えてもらったというのが、ありのままの気持ちです。」(同上、p256)

と書かれているが、まさに福島氏と二人三脚で、「この世にいま、『福島智』という人が生きていること」の凄さと不思議さ、面白さやその他色々なものを一冊の中に込めている。福祉分野のルポとしては、アメリカ障害者運動の歴史を追った大作『哀れみはいらない』(シャピロ著、現代書館)とはテイストが違うけど、面白さと深さで言えばあの名著と並ぶ、ここ最近で読んだ本の中でも最も良かった一冊だ。そして、生井さんの丹念な取材を通じて見えてきた「福島智」という身体から出てくる言葉を読み進めるうちに、僕が知っている別の世界へと気がつけばつながっていた。

「人間が存在する『意味がある』とするなら、その意味は、まさにその存在自体にすでに内包されているのではないか。もしそうなら、障害の有無や、人種、男女など個人のさまざまな属性の違いなどほとんど無意味なほど、私たちの存在はそれ自体で完結した価値を持っている。
でも、私たちは日常的な問題につきあたり、現実的な課題にとりくむとき、ついそのことを忘れてしまいがちです。
人間の存在がそれ自体に秘めた、生きているという最高度の『目的』よりも、ある個人が具有する能力や特性などの『手段』の方をより重視してしまう傾向があるのではないか。さまざまな現実的な問題にぶつかったとき、私たちにとって最大の、そして最重要の仕事が『生きること』そのものにあるという原点に立ち返りたいと思います」(前掲、p190-191)

手段と目的の転倒の認識、これは権丈氏が掴んでいた宇宙観と通じるものであり、哲学の巫女を自称する池田晶子氏がしばしば述べた「相対的な自分を超えた、誰にでも正しい本当の言葉」として、心の内奥にズバッと迫ってくる。そして、この宇宙観について、福島さんと生井さんの協働作業の中から、こんな言葉が紡ぎ出される。

「『盲ろう者の状態』が宇宙空間のようなものだとすれば、この私の生きている状態は、自分の存在の意味を考えさせられる状態なんです。たとえば、夜空を見上げた時、有史以前からおそらく無数の人間が自然に対する畏怖の念とともに、自らの生の意味を漠然とでも考えてきたと思います。『盲ろう』の状態は、もちろん本物の宇宙空間とは違いますが、それを想像させる面がある。いわば、『認識のプラネタリウム』を経験するとでもいうのでしょうか」(同上、p192)

池田晶子氏が、哲学的思索を通じて得た『認識のプラネタリウム』という内面宇宙に、福島氏は18歳で盲ろうになり、期せずして放り込まれてしまった。だが真っ当に考え続ける中で、『完結した価値』に気づいた。その『完結した価値』つまりは「宇宙」に気づいたからこそ、そこから反射され、福島智という身体を通じて伝わってくる言葉は、個人某の主義主張を超えた、普遍的なロゴスとしてストンと心の中に入ってくる。

神格化や絶対化するつもりは毛頭ないが、権丈氏にしても、福島氏にしても、論理的に考え抜いた末に、個人の思惑を超えたロゴスとして伝えてくださると、私たちは深く頷き、心揺さぶられる。そんな事を感じた週末であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。