施設みたいなもん

 

必要に迫られて読み始めた本の中に、ほほぉ、と引きつけられるページを発見した時ほど、嬉しいことはない。今日はこんな感じ。

ある老人はこう呟いた。『誰かさんがあんたの家にケアをしにやってきた時だって、もしその支援とやらがこちらの気をそぐようなもの(disempowering)だったり、決まり切ったことの繰り返し(routinised)だったりするならば、彼らは入所施設みたいなもん(something of the asylum)を、また造り直しているだけだよ。』
Glasby, J. (2007), Understanding health and social care, Bristol: The Policy Press. p40

図式的に考えれば、入所施設とは、人里離れた所に作られた集団管理型一括処遇の場。それに対置するものが、イギリスで言うコミュニティケアであり、日本語では地域(自立)生活支援なんて言われている。自立支援法の中でも、精神病院に入院中の社会的入院患者の72000人を平成23年度までに地域移行させる、また知的障害者や身体障害者の入所施設の1割を上記の年度までに削減する、ということが、国の目標にも掲げられている。市町村や都道府県は、その目標に沿った行動計画をとろうとしている。だが、この数値目標は諸外国に比べて低すぎるのだが、それでも達成することは難しい。

こういった事は、自治体関係者なら誰でも言えることである。だが、地域移行すればそれで成功なのか、というと、そうではないのが、洋の東西を問わず言えること。以前、スウェーデンで滞在時に、現地のグループホームを取材して回った。知的障害者の入所施設を全廃したスウェーデンでも、今度はグループホームがミニ施設化する危険性がある、という話をよく聞いた。それを防ぐためには、ユニット型という、例えば普通の集合団地の101号室が世話人の部屋で、301号室と405号室、203号室が各々の居室、というように、他の人と当たり前の居住環境が保障され、かつ地域の中にとけ込み、障害者だけで固まらない、という工夫が必要だ、とも聞いた。普通の人の最低居住水準が、34平米なのだったら、障害者だってそれと同じほどの広さを保障すべきだ、と聞いて、なるほどと思いながらも、ぶったまげた思い出がある。なぜって、日本では普通の人だって、20平米どころか、ワンルームマンションの学生だって少なくないからだ。

で、こう書いていて、こないだ読んだ早川和男先生の『居住福祉』(岩波新書)を思い出す。今、本が手元にないので正式に引用出来ないのだが、早川先生は、住宅問題は福祉問題である、という観点から、日本人の在宅介護の困難性や入所施設偏重は、一般人の居住水準の低さによる。だから、ディーセントな居住環境の広さが確保されなければならない。普通の人の住宅が広くないのに、障害者や高齢者だけ広くすることは出来ない、という主張をされていた。確か97年に出た本なのに、10年以上経って初めて読む未熟者。しかし、10年を超えても色褪せない魅力を持つ一冊に、早川先生の研究の鋭さと、日本社会の変わらない実態に、憧れと、ため息を同時に抱く一冊であった。

そう、この早川先生の本を読んだ後、パートナーとこの話をしながら、スウェーデンで借りていたアパートを思い出していた。確かに、一般人のアパートも広かったねぇ、と。

私たちがエバコさん、とあだ名で呼んでいたその女性のアパート。彼女は年金生活者で、シングルである。毎年冬の時期にスウェーデンを脱出するから(その年は確かタヒチかどこかに出かけていた)、その間の半年、持ち家のアパートを貸している。普通の公務員か何かをしていた彼女は、築50年程度のアパートに暮らすが、すごくしっかりしたアパートで、かつ70年代のバリアフリー法が施行された後、後付でエレベーターも付いている。家は4人がけのテーブルが入るこじんまりとしたダイニングに、20畳近いリビング、それ以外に部屋が3部屋あるから3LDKだが、確か全部で100平米近い広さ。エバコさんの部屋は他人に使われては困る私物が入っているらしく、鍵がかかっていたが、その部屋以外は自由に使えた。めちゃめちゃ広い。その暮らしを半年して、パートナーと誓ったのだ。日本に帰ったら、とりあえず広い部屋に暮らそう。それだけ、部屋の広さは、人間の心のゆとりにもつながっていたのである。そして、改めて強調するが、彼女は決して金持ちではない。調度品やらなにやらが物語るのは、ごく中流かそれより少し低めの暮らし、なのである。

話がえらく横飛びしていくが、そう、早川先生によれば。部屋は広くなくては人間的でない、という居住権運動をスウェーデンでもイギリスでも続けてきたそうである。だから、僕が暮らしたスウェーデンでは。障害者が暮らす入所施設は、あまりにも非人間的に映った。ノーマルな暮らしに比べてあまりにも落差がある、と。またグループホームだって、普通の暮らしと同程度を保障するためには、3LDKの中に見ず知らずの3人が暮らすのはオカシイ、ならばせめて1LDKでもまともな一区画を障害者も住めるようにすべきだ、という展開が進んでいったのである。

一方我が日本では。ご承知のように、普通の人の住宅環境の質、なるものがよろしくないので、当然!?障害者や高齢者の質は悪くても問われなくなる。そんな前提だから、収容所的な現実が他国に比べて未だに温存されているし、また、地域移行が進んでも、地域の暮らしがそういう最低限な居住環境のままになる可能性が少なくない。悲しいかな、居住環境が「気をそぐようなもの(disempowering)」なのは、少なからぬ都会暮らしの日本人が共通して持っているものなのかもしれない。もしかしたら、私たちの暮らす場が、「入所施設みたいなもん(something of the asylum)」だとしたら。あまり考えたくないけれど、私たちに染みついたパースペクティブにその要素がないか、を考えたら末恐ろしい

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。