単なる宣伝を超えて!?

 

昨日今日とオープンキャンパス。未来の学生さん達に出逢える大切な機会である。

昨日一緒のブースで対応した同僚と、「自分たちの時代にはオープンキャンパスなんて無かったよね」と話す。赤本や合格体験記、大学の入試案内パンフレットといったごく限られた情報で、4年間という大切な期間の所属先を決めるのだから、よく考えたらバクチ的要素があった。まあ、僕自身は、たまたま合格体験記に書かれていた「変人科」という名前に引かれて、人間科学部の門を叩く、という、相当リスキーな選択肢をしたのだが、結果的に今、大学の教員になれているのも、その選択肢が間違っていなかった、のだろう(多分)。

今の受験生は、大学に来て、教員や在校生と話したりするなかで、その雰囲気を感じることが出来る。どこの大学だって、学生囲い込みの側面がこのオープンキャンパスにあることは否定出来ないが、でも、その現場に行き、そこにいる人々のお顔をみて、雰囲気を感じると、宣伝している内容以外の、言外の何か、が感じ取れるはずだ。今日来て下さる方々も、そこでこの大学に対するよい雰囲気を感じ取ってくれたらよいのだが

さて、バタバタしているうちに、告知をし忘れた、大切な情報を二つ、ご紹介しておきます。

一つ目が、山梨県障害者自立支援協議会の平成20年度報告書がようやくネットでアップされました。
http://www.pref.yamanashi.jp/shogai-fks/jiritsushien-kyougikai.html

昨年2月からスタートさせ、市町村に権限が委譲された時代にあって、県単位で出来る「広域的・専門的支援」とは何か? 当事者主体や権利擁護支援を本当に官民協働で議論出来るのか? 形式的会議で終わらせないために、どうすればいいのか? そういった課題や宿題が山積し、昨年1年間、やりながら、悩みながら続けてきた同協議会の報告書。通常の審議会や協議会より、泥臭い記述が多いかも知れないけれど、その分、現場のリアリティに基づく何か、が記載されているのではないか、とちょっぴり自負している。

もちろんこれは通過点であり、来月8月10日に開かれる、県内全ての地域自立支援協議会と山梨県障害者自立支援協議会の「合同協議会」で、この内容も報告し、併せて地域の側からも提言を受け、一つでも二つでも、実際の課題に取り組んで、成果を上げていくための土台が出来ただけである。でも、プロセスとしての中間報告を出しておくことの大切さを、玉木さんが座長を務める西宮市から多く学んだ。市町村ほどダイレクトに課題に接していない分、少しパンチは弱いかも知れないけれど、ご笑覧くださいませ。ちなみに、泥臭さで言えば遙かに泥臭い内容として、私と今井志朗さんという二人の特別アドバイザーの二年間の活動報告も、ついております。こちらは、二年間の学びをまとめた、「宿題」提出のような気分で書きました。

で、書き物について、大切なもう一つの御報告が。次の本が出来ました。

「障害者総合福祉サービス法の展望」
茨木尚子・大熊由紀子・尾上浩二・北野誠一・竹端寛 編著
出版社名:(株)ミネルヴァ書房、発行年月日:20097
ISBN
コード:978-4-623-05519-7
ページ/サイズ:
368p/A5
販売価格:3,150円(税込)

自画自賛ではありますが、良い本になっております。リンク先のDPIHPに目次も記載されていますが、90年代以後の20年間の障害者福祉政策の激変を振り返り、自立支援法以後、すっかり忘れ去られてしまった観のある地域生活支援のうねりや、社会福祉基礎構造改革、支援費に到る経緯やその背景分析などが、ちゃんとなされています。また、介護保険との関係についても、相当突っ込んだ議論をした上で、第三部で自立支援法を批判するだけでなく、では何が必要なのか、の対案を示すべく、努力してきました。ここ数年、DPIの研究会でずっと議論してきた内容をまとめた成果でもあります。僕は個人的に、障害者福祉の分野での、今や古典的名著とも言える「自立生活の思想と展望」(定藤・岡本・北野編、ミネルヴァ書房)の続編とも感じているのですが

3000円を超える、とは高い本になってしまいましたが、その価値は十分にある、はず。なので、良かったら、お手にとってくださいませ

と、うだうだ書いているうちに、今日の大切な宣伝ミッションである、オープンキャンパスの打合せの時間であった。では、この辺で。

二重の誤解

 

久しぶりに、何も予定のない三連休。こういう時でなければ、出来ないことがある。

例えば、観葉植物の植え替え。あれは確か7年ほど前のこと、大阪のお母さまと勝手に思慕させて頂いているMさんから、観葉植物の株を分けて頂いた。その名は、確かドラゴン・ツリー。日光さえきちんと与えていなければ、あまり水やりをしなくても、すくすく育つよ、といって、Mさんのご自宅で見せて頂いたのは、天井に届きそうなほど、大きな鉢植えに育った立派な「樹木」。その一部を株分けして頂いたのだ。

以来、西宮時代に一度、近所の花屋で植え替えを手伝ってもらい、山梨に来て二年目くらいに、大学の近所の花屋で一回り大きな鉢植えに植え替えて、幹はひょろひょろではあるが、育ってきた。窓際の隅、と言っても、あまり日もあたらず、家主(=つまり私)は気が向いた時しか水もやらず、夏は締め切っていたら30度以上はある暑いマンション最上階で暮らしているのに、何とか枯れずに育ってきたのである。バジルを枯らし、クワズイモも根腐れ、サボテンまで枯らしたこともある我が家では、例外中の例外と言うべき快挙。食卓では切り花を切らさぬようにしているが、それ以外では我が家の唯一の生存する緑、である。

この貴重な観葉植物は、どうも最近よりひょろひょろ伸びていき、以前買った接ぎ木も越してしまった。そこで、ようやくこの連休のタイミングを利用して、以前酒折にあった花屋の本店に電話して持ち込む。今は昭和町に移動したので車で30分ほど。たった30分、なのだが、この面倒くささを乗り越えるには、たっぷりとした時間的余裕が必要なのだ。

で、専門家の前に持ち込んでみて、二重の意味で誤解していることがわかった。

誤解その1:植え替える必要はないこと。
ひょろひょろ長く伸びる様子を一目見て、オーナーとおぼしき女性が一言、「日照不足ですね」。日の光が少ないから、光合成をする断面を増やそうと、ひょろひょろ伸びているのだ。だから、茎も痩せている。故に、植え替えも必要ない。下手に大きな鉢に入れると、水がなかなか下まで落ちず、逆に根腐れの原因になる、とのこと。今は茎も根も大きく育てるのが大切なようだ。よって、ひょろひょろ伸び、の対策も、変わってくる。一本の添え木を外し、4本の竹を鉢の四隅に差し込んで、もう一方の端っこを真ん中でまとめてツリー上にしたものに螺旋階段的に巻き付けるべし、とのこと。こうして、幹が太くなるのを待った方がよいそうだ。なるほど。

誤解その2:名前の間違い。
ドラゴンツリーと信じ込んできたのだが、花屋に行く前にネットで調べてみると、そんな名前は出てこない。なんだろう、と思ってお姉さんに聞いてみると、「姫モンステラ」と書いて鉢に刺してくれた。7年間も、名前を間違っていたのですね。たいそうスンマセン。

というわけで、指導料も払えないので565円の液体肥料だけを買い求め、帰りにホームセンターで竹を買い、今日は我が家で補強作業と水やりをしてみたら、少しずつお元気になってこられた。もう少し光も当てて、我が家の「姫」が育つ支援が必要なようだ。

エビの真実

 

今日はまだ時間が早いので、最終とは言っても、「かいじ」ではなく「ふじかわ」の人である。三重からの帰り道、と言えばいつも6時か7時頃まで打ち合わせをして帰るので、東京経由になる。だが、今日は5時前には打ち合わせが終わったので、何とか静岡経由での最終列車に間に合った。それにしても、昨日今日は濃厚だった。仕事のついでにお伊勢さんにお参りまでしてきたからである。だが、この話に入る前には、前段の「尾ひれ」が必要だ。

時計の針を先週に戻すと、先週の木曜日、干し草かブタクサの花粉にやられ、朝からヨークのホテルで死にそうになっていた。近所の薬局で症状を訴えると、「ヨークは盆地だから特に花粉症が酷いのよ」とのこと。早速市販薬を飲んで、少しするとだいぶ症状が緩和されてきた。

水曜午前で終わるエジンバラの学会(SPA)から金曜朝から始まるシェフィールドの学会(EASP)への移動日で、木曜は半日程度の休日。前日の夜はヨークの美しくコンパクトな中心街を一人でほっつき歩き、フィッシュアンドチップスを食べ、パブで一杯のお勧め地ビールを求めてハシゴした。そんな優雅な夕べだった故、ホテルの部屋に戻った夜中以後の急激な鼻づまりと絶不調は、天国から地獄そのもの。まさに身も心もクタクタになり、絶望的な気分だった故、朝10時に飲んだ抗アレルギー薬は、まさに「藁をもすがる」気分。1,2時間でぴたりと症状が止まったのは、本当によかった。

で、そういう絶不調からの回復期、せっかくヨークに来たのだから、とヨーク大聖堂に出かける。国内有数という大聖堂に佇まい、ぼんやりしていると、ひんやりした空気も手伝って、ようやく落ち着きを取り戻す。やはり、『土地の神様』にご挨拶するのは大切なことだ。

で、そうやってヨークの記憶がはっきりしていた月曜日の帰国後、一週間ため込んだ新聞記事を読んでいて、書評欄で井上章一氏の新作が出ていた。その名も、『伊勢神宮』。その記事を見た瞬間、ふと心によぎった。あ、昨年来しょっちゅう三重に出かけているのに、お伊勢さんにご挨拶に行っていないよな、と。しかも今週金曜の鳥羽での会議は、午後5時に着けばいい。早めの列車に乗れば、3時間は伊勢に滞在出来る。このチャンスを逃したら、次はいつかわからない。それが、急遽決まったお伊勢参り、につながったのだ。

実は伊勢神宮も、イギリスと同じ96年に訪れているから、奇しくもちょうど13年ぶりの訪問であった。正月の幕の内に友人と訪れている。だが、その時は内宮しか出かけず、かつ人が多くてほとんどその記憶も残っていない。今回は、伊勢市出身の県庁職員のアドバイスを受け、ちゃんと外宮から内宮へとお参りするプロセスを踏む。先週のヨークもその時期にしては異常なほど暑くて参ったが、今週の伊勢はムシムシしていて汗びっしょり、となる。しかし、手順を踏んだお参りをしていく中で、気持ちはすっきりしていく。

それにしても、予想以上の人の多さ。未だに伊勢神宮が引きつける魅力の大きさ、を感じずにはいられなかった。おかげ横丁で赤福なんぞをつまむ時間的余裕はなかったが、まずはきちんと本意を達成出来た事に大満足。徒然草に出てくる、石清水八幡宮の入口で引き返した「仁和寺のある法師」にならずに済んだ。

そういえば、行きの伊勢神宮予習本で、「仁和寺のある法師」のような間抜けなお坊さんの話を読んだ。(残念ながら井上章一氏の作品はアマゾンですぐに買えなかった)

「なぜ僧侶は普通の人と同じ場所で参拝出来なかったのか。それは僧侶が死の汚れに触れることが多いとされたからである。神宮は死を来れった。後で書くが、神道が理想とする『永遠に生きる』という理念に死ぬということは反する。現実には避けることのできない死という現実をできるだけ遠ざけたいとして、どうしても死者に接することの多い僧尼に遠慮願ったのだろう。でもそれは厳格になされたわけではない。(略)江戸時代にはお坊さんも鬘をすれば参拝できることとなり、宇治橋前に貸し鬘屋ができたという。当時は鬘のことをエビといった。そこでエビを着ければ参宮できると聞いた坊さん、つるつる頭に伊勢海老をくくりつけたという笑い話も伝わる。」(矢野憲一『伊勢神宮』角川選書、p130-131)

「仁和寺のある法師」といい、「つるつる頭に伊勢海老」といい、こういう僧侶のそそっかしいエピソードは、思わずクスリ、ときてしまう。そして、僕自身もスノッブで、かつ思いこみも決めつけが多い方だから、こういう勘違いをしてしまうなぁ、と思う。そういえば、帰りの名古屋駅の売店で買った本の中に、そんな決めつけに対する戒めのフレーズも見つけた。

「『自分の正体を明らかにせよ』
言語と同じくらい私たちの存在に染みついた、生存のための方法論。だからこそ、私は声を大にして、『正体を明らかにするな』と若者たちに言いたいのだ。心の中に青春の残り火を懸命に維持している大人たちにも呼びかけたいのだ。生命の本質は、異質なベクトル間のバランスのダイナミックスにある。たとえ、『正体を明らかにする』ことが市場の要請だとしても、『正体を明らかにしない』という衝動と釣り合って、はじめて私たちは生命を全うすることが出来る。」(茂木健一郎『疾走する精神』中公新書、p173)

そういえば、前々回のブログにも書いたが、前回ヨークや伊勢神宮を訪れた13年前。僕はまさしく「自分の正体を明らかに」したがる人間だった。早く認めて欲しい、少しは尊敬してもらいたい、社会の中に自分の活躍出来る居場所が欲しい。そういった若さ故の焦りと不遜な思い上がりに支配され、「自分の正体」はこれです、と決めつけ、それを売り込もう、認めてもらおう、と必死だったのかもしれない。その時は、自分の専門性のなさが非常に嫌で、早くひとかどの人物になりたい、早く何らかの専門家の入り口に入りたい、と焦っていたのかもしれない。

だが、13年後、今の段階でも結局『正体を明らかにしない』というか、それが出来ていない。未だに自分が専門家かどうかアヤシイし、よしんば専門家の片隅にいたとしても(一応そう世間で規定されているようだ)、一体何の専門家なのか、よくわかっていないし、説明出来ない。専門は?と聞かれ、その時々で障害者福祉論とも福祉政策とも社会福祉とも答えるが、どれも中途半端だし、どれも強く主張は出来ない。そのことで、自分の中での欠落感や未熟さを感じることは、少なくないし、ブログに書き続ける自己反省的言及に、それが如実に表れている。(それを見て、いつものくどさ、と思う方もいるかもしれないが)

だがそんな中でも、こうして山梨や三重でご縁を頂き、エンパワメントや支援に関わる仕事をしている。多少なりとも、現場にお役に立っているようだ。そこから考えると、中途半端な自己定義、というなの「決めつけ」が、自身の存在や考え方に限界を規定することでもあるのではないか、とこの茂木氏の文章から感じる。そして、自分への決めつけが、他者への、社会への決めつけへとつながる。そこから、「つるつる頭に伊勢海老」というお笑い種が生じる。周りから見れば、本人が至って真面目に伊勢海老をくくりつけているのが、可笑しい。だが、視点を変えれば、そういう「決めつけ」を正当化した人ほど、他人に指摘されて逆上する可能性が少なくない。「これが正しいはずだ。何が悪いのだ」と。

うねうね書き続けて来たが、「つるつる頭に伊勢海老」を、僕自身が真顔でしてはいないか? 13年前の愚かさから、少しは成長したか?という以前の問いに戻る。戻る、というより、自分の好きなフレーズで言えば、拡大する螺旋階段的上昇が出来ているか、ということ。同じ地点に戻ってきたようでいて、前回より半径が広く、より高みに昇れているかどうか。そういう位相の違いが、13年前とあるかどうか? それがなければ、「つるつる頭に伊勢海老」を今もしていることになる。さて、僕は以前と違って、少しはエビの真実に気づきはじめたのだろうか。

恥をかいて知る

 

 何でこんなにうまくいかないのだろう。そう疑問を持ったとき、まず自分の思慮不足と努力不足を疑った方がいい。今回の場合も、典型的な僕自身の努力&思慮不足だった。

 1週間たってすっかり記憶が忘れかけているが、先週の金曜日、イギリスのシェフィールドで開かれた社会政策関連の学会で、口頭発表を行った。その際、分科会発表だったのだが、私の発表時に聞いておられたのが8~9人。そして、質問をしてくださったのは、司会者を除くとわずか一人。しかも、日本人。もちろん、その日本人のFさんとの出会いは良いご縁だった。海外を拠点に研究をされている志ある人と出会える、というのは、こういう国際学会の良いところであり、昨年の台湾の学会で出会ったKさんとは、エジンバラでもご一緒させて頂いた。それはそれでありがたい。

 ただ、日本人以外の人に理解されない、興味を持たれない。実はこの学会発表の母体となる発表は、6月に名古屋で開かれた学会で発表していたのだが、その際は、今までの経験の中でもかなり良い評価や反応をもらった。それ故に、また英語故に気合いを入れて準備をしていた故に、他国の参加者からの興味や反応がない事に、とほほ、となっていたのである。そして、会場では「やっぱり日本の障害福祉行政を変えるためのエンパワメント研修」といったドメスティックな内容故に受けなかったのかな、と思っていた。だが、その後、日本人研究者で集った最終日の夜、皆さんの議論を聞きながら、ぼんやり気づきはじめたのだ。僕の井戸の掘り方が浅かったのだ、と。

 イギリスの学会で買い求めた本の中に、それを傍証する本がいくつかあった。単にイギリスのソーシャルケアや障害者支援の課題を整理するだけでなく、イギリス以外のコンテキストで読み込んでも「なるほど」と頷ける取り組みなり視点がある。風通しの良い本であれば、イギリスのコミュニティケアという具体的な論点なのだけれど、日本の論点にかぶせて検討する事も可能だ。つまり、読者がその気になって読めば、自ずと国際比較が可能となるテキストもありうるのだ。

 これは、学会発表での各発表内容にも如実に表れている。東アジアの各国における社会政策の取り組みに関する具体的な発表もあったのだが、それが単にその地域の取り組み成果、というタコツボ議論であれば、その国の人間にとっては面白くても、その国以外の人間が読むと、だから何なの?(So what?)という内容になってしまうのだ。残念ながら、僕自身の発表もその部分があったのではないか、と思う。

 しかし、その成果について少し抽象化したり、あるいは他国の人間にもわかる形での理論的言説に当てはめてどこまで言えるかを模索してみたりする。例えば「ストリートレベルの官僚制」理論であったり、あるいはローカルガバナンスや熟議民主主義であったり。それも、紹介レベルではなく、その理論の骨組みや議論の中核とどれくらいふれあうのか、外れるのか、をあぶり出す形で整理していく。決して理論中心の議論ではなくても、その社会のコンテキストを超えられる理論を誘い水に議論する事で、こちらの伝えたいことも、異なる社会で理解してもらう糸口を開くことが可能になる。

 これって、きっと国際学会に来ている「まともな学者」なら、当たり前のように知っているはずの事であり、実際日本からいらしておられたK先生などもそう語っておられた。しかし、to tell the truth、私自身は恥ずかしながら、よくわかっていなかったのです。そういう意味で、特殊を超える普遍性や比較出来る視点が、私自身の発表に欠落していた。それが、結果としての私の発表の「つまらなさ」につながったのだ。そう思うと、つくづく、悔しい!!

 ローカル・ノリッジは大切なのだが、その一方で、その国のコンテキストを超えて他の社会にも相通ずる普遍性への糸口が開かれている、そういう風通しの良さが大切なのだろう、と改めて感じた。なるほど、痛い思いをしないと、恥をかかないと、僕はわからないのだなぁ、と今回もつくづく感じたのであった。

13年いまむかし

 

フランクフルト空港は夕方であるが、日差しは明るい。ドイツくらい南にくると白夜はないのだろうが、それでも日照時間は長いのだろう。

マンチェスターからのフライトは定刻通りドイツに着き、成田行きの搭乗時間までまだ3時間以上も待たされる。タックスフリーもぱっとしないので、バーに腰掛けて、ドイツビールを頼み、ワイヤレス回線をつなぐ。旅の途中で疲れていて、真面目な本を読む気力もない。そんなときに、パソコンをかちゃかちゃするほど、よい時間つぶしはない。

この1週間、ある学会での発表と、別の学会参加をかねて、イギリスまで来ていた。ヨーロッパといえども、スウェーデンとデンマークを除いてはほとんどご縁がなかった。イギリスは、13年ぶり。1996325日には、湖水地方のケズウィックに居たらしい。

なぜ物覚えの悪い僕がそこまで正確な日付を書けるのか。それは、13年前にイギリスに持って行った本を、再読しようと鞄に入れていたのだが、取り出してみると、13年前のバスチケットがしおり代わりに挟まれていたのだ。

13年。今の人生全体で考えたら、3分の1弱の期間。長いようで、あっという間の期間だったような気がする。

13年前、生まれて初めて、一人で海外旅行に訪れたのが、イギリスだった。大学も2年間が終わった折り返しの春休み。楽しくて安全なところだ、と友達に勧められ、バックパッカーはロンドンの地に降り立った。ただ、そのバックパッカーは大変重要な事実を見逃していた。友人が訪れたロンドンは夏。私が訪れたのは冬。夏は夜10時過ぎまで明るくて、人々も陽気で、気持ちがいい。だが、冬は寒くて、日差しもあまりなく、陰鬱な日々なのである。そう、夏目漱石が神経衰弱になった、あの寒いロンドンなのである

そんな寒いロンドンで、旅仲間も現地での友人も出来ず、湖水地方の人気もまばらなB&Bで、美味しいお茶を入れて頂き、ストーブに暖まりながら読んでいたのが、こんな本だった。

「自分を見せびらかさないから、おのずからはっきり見られ、
自分を主張しないから、きわだって見える。
信用を求めないから、信用をうけ、
うぬぼれないから、最高のものとなる。
争うことをしないから、天下の人で争えるものはいない」
(チャン・チュンユアン著、『老子の思想』講談社学術文庫、p131)

21歳の若者のチョイスとしては、背伸びをしている、という感じは否めない。だが、哲学や思想的なものにあこがれていた青年には、ハイデッカーやヘーゲル、西田幾多郎や和辻哲郎の思想を老子と交わらせて、「道徳経」に独自の視点から解釈を加えるこの文庫に、得も言われぬ知的憧れと興奮を持って読んでいた。

13年前、この言葉をどれだけ理解出来ていたか、はアヤシイし、もちろん今だってわかっているとは言えないだろう。そして、13年前にほのかに思想を専門とする学者にあこがれたが、ドイツ語に挫折した青年は、13年前に思いもしなかった福祉分野の研究者になってしまった。

だが、13年前の何も知らない青二才も、この13年間で多少なりとも試行錯誤や痛い思いをし、従って当時は難解に感じた老子の言葉やその解釈も、以前よりは実感を伴った言葉として身に浸みてくる。そう、今回のような海外旅行中に、アミノ酸を取るためにホテルで飲む味噌汁のように。

愚かなるヒロシ君は、この13年間、見せびらかし、主張し、信用を求め、うぬぼれ、争ってきた。そのたびに、逆効果をもたらし、摩擦と混乱の渦の中に巻き込まれ、傷つき、また少なからぬ人を傷つけ、迷惑もかけてきた。今だって、まだ逆効果の連鎖を完全には断ち切ることは出来ていない。だが、以前より少しはその逆効果の正体を自覚出来るようになってきた。そして、無駄な力みを減らし、必要な力を出せるように、ちょびっとずつだが、軌道修正をしてきたのだと思う。

そして13年後。海外に行くなら、遊びではなく仕事で行きたい、と力んでいたら、幸か不幸か仕事「のみ」で出かける機会が多くなってしまった。今ではもうちょっと遊びに出かける事もしたいな、と軌道修正の必要を感じている。英語は相も変わらず酷いけど、以前よりちょっとは議論に耐えうるものになっていった。

もちろん、直感や感情が先行して、批判的思考が身に付いていないのは、今もそう変わりはない弱点だ。あるいは、13年前より多分5キロ以上は肉が付いてしまった。時差ボケはなかなかとれないし、疲れやすいし、味噌汁を持って行かないと、身体が持たない。そういう衰えや弱みはあるけれど、13年前よりは少しは「ものわかり」が良くなったのではないか、と思う。人はそれを、成熟した、とも、若さを失った、とも言う。出来れば、後者ではなく、前者の意味で捉えたいのだけれど

閑話休題。
以下、エジンバラからヨークへ向かう旅の中日に書いたメモ書きをとどめておく。


7月1日(月)

「研究者の役割、それはcollaboraterです」

スコットランドのエジンバラで開かれていた社会政策学会(Social Policy Association)。その週に開かれる別の学会(East Asia Social Policy reserch network international conference)で発表するために訪英し、ついでに同時期に開かれていた関連学会に、こちらは勉強のために参加した。この学会では、我が国でも最近関心が持たれているダイレクトペイメント(障害者が、自らの障害程度に応じて現金給付を受け、自らが必要な福祉サービスや、誰に支援を受けたいか、を選ぶことが出来る制度)が、高齢者や障害児家族にも応用されてIndividual Budgetsというパイロットプログラムに高められ、その成果についての分析発表などがあり、それはそれで学ぶことが多かった。曰く、障害者では自己決定出来ることがサービスの満足度を高めることにかなり役立つ一方、高齢者は選択する事に困難を感じ、このパイロットプログラムに満足していない、など、様々な分析がなされていた。

それらの議論も面白かったのだが、最も面白かったのが、学会の最終日の最終講演。研究者(Marian Barnes)と精神障害者の家族、当事者が「社会正義と当事者参画」というタイトルで発表した時のこと。講演内容はかなり面白く、終わった後に話を聞いてみたい、と密かに思っていた。だが、質疑応答の時間の「最後にもう一人」という段階で、誰も手を挙げない。100人以上の英語を母国語とする研究者の集まりで、ひどい英語で聞くのも躊躇したのだが、せっかくやってきたのだから、と恐る恐る手を挙げて、一番聞きたかったことを聞いてみたのだ。

「当事者参画に果たす研究者の役割とは何ですか? サポーターなのでしょうか、ファシリテーターなのでしょうか? あるいは、それ以外の役割ですか?」 

冒頭の発言は、この質問に間髪入れずにマリアンが答えた内容である。手持ちの英英辞典でcollaboraterを引いてみると、こんな事が書かれている。

someone who works with other people or groups in order to achieve something, especially in science or art
(特に科学や芸術の分野で、何かを成し遂げるために、他の人々や集団と協働する人:ロングマン現代アメリカ英語辞典より)

つまり、マリアンさんは、当事者参画を進めるにあたっての研究者の役割とは、協働を促進する役割である、と整理しているのである。この話を聞いて、我が意を得たり、と深く頷いた。そして、会の終わった後、彼女に近寄ってもう少し話を聞いてみると、彼女はこう続けたのだ。

「アカデミックの世界は、現場とは離れている。その際、現場と協働して、現場を変えるためにお手伝いするのが、当事者参画を目指す研究者の役割だ。協働して研究を行うだけでなく、今何が起こっているのが、という全体像を当事者や家族に伝え、彼ら彼女らが政策にも参画出来るのかを伝える役割がある。」

文字通り、洋の東西を問わず、同じ思いで仕事をしている人に出会えること、これほど嬉しいことは無かった。そして、改めて僕自身がきちんとcollaboraterの役割を全う出来ているのか、を問い直す機会にもなった。