恥をかいて知る

 

 何でこんなにうまくいかないのだろう。そう疑問を持ったとき、まず自分の思慮不足と努力不足を疑った方がいい。今回の場合も、典型的な僕自身の努力&思慮不足だった。

 1週間たってすっかり記憶が忘れかけているが、先週の金曜日、イギリスのシェフィールドで開かれた社会政策関連の学会で、口頭発表を行った。その際、分科会発表だったのだが、私の発表時に聞いておられたのが8~9人。そして、質問をしてくださったのは、司会者を除くとわずか一人。しかも、日本人。もちろん、その日本人のFさんとの出会いは良いご縁だった。海外を拠点に研究をされている志ある人と出会える、というのは、こういう国際学会の良いところであり、昨年の台湾の学会で出会ったKさんとは、エジンバラでもご一緒させて頂いた。それはそれでありがたい。

 ただ、日本人以外の人に理解されない、興味を持たれない。実はこの学会発表の母体となる発表は、6月に名古屋で開かれた学会で発表していたのだが、その際は、今までの経験の中でもかなり良い評価や反応をもらった。それ故に、また英語故に気合いを入れて準備をしていた故に、他国の参加者からの興味や反応がない事に、とほほ、となっていたのである。そして、会場では「やっぱり日本の障害福祉行政を変えるためのエンパワメント研修」といったドメスティックな内容故に受けなかったのかな、と思っていた。だが、その後、日本人研究者で集った最終日の夜、皆さんの議論を聞きながら、ぼんやり気づきはじめたのだ。僕の井戸の掘り方が浅かったのだ、と。

 イギリスの学会で買い求めた本の中に、それを傍証する本がいくつかあった。単にイギリスのソーシャルケアや障害者支援の課題を整理するだけでなく、イギリス以外のコンテキストで読み込んでも「なるほど」と頷ける取り組みなり視点がある。風通しの良い本であれば、イギリスのコミュニティケアという具体的な論点なのだけれど、日本の論点にかぶせて検討する事も可能だ。つまり、読者がその気になって読めば、自ずと国際比較が可能となるテキストもありうるのだ。

 これは、学会発表での各発表内容にも如実に表れている。東アジアの各国における社会政策の取り組みに関する具体的な発表もあったのだが、それが単にその地域の取り組み成果、というタコツボ議論であれば、その国の人間にとっては面白くても、その国以外の人間が読むと、だから何なの?(So what?)という内容になってしまうのだ。残念ながら、僕自身の発表もその部分があったのではないか、と思う。

 しかし、その成果について少し抽象化したり、あるいは他国の人間にもわかる形での理論的言説に当てはめてどこまで言えるかを模索してみたりする。例えば「ストリートレベルの官僚制」理論であったり、あるいはローカルガバナンスや熟議民主主義であったり。それも、紹介レベルではなく、その理論の骨組みや議論の中核とどれくらいふれあうのか、外れるのか、をあぶり出す形で整理していく。決して理論中心の議論ではなくても、その社会のコンテキストを超えられる理論を誘い水に議論する事で、こちらの伝えたいことも、異なる社会で理解してもらう糸口を開くことが可能になる。

 これって、きっと国際学会に来ている「まともな学者」なら、当たり前のように知っているはずの事であり、実際日本からいらしておられたK先生などもそう語っておられた。しかし、to tell the truth、私自身は恥ずかしながら、よくわかっていなかったのです。そういう意味で、特殊を超える普遍性や比較出来る視点が、私自身の発表に欠落していた。それが、結果としての私の発表の「つまらなさ」につながったのだ。そう思うと、つくづく、悔しい!!

 ローカル・ノリッジは大切なのだが、その一方で、その国のコンテキストを超えて他の社会にも相通ずる普遍性への糸口が開かれている、そういう風通しの良さが大切なのだろう、と改めて感じた。なるほど、痛い思いをしないと、恥をかかないと、僕はわからないのだなぁ、と今回もつくづく感じたのであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。