善く生きる

 

一定以上の力で引っ張り続けると、バネは延びきってしまう。器の小さい人間が、それでも無理して頑張り続けると、摩耗して、気の抜けたサイダーのように延びきってしまう。

休み明けの先週、水曜日の教授会後から、4泊5日のツアーに出かけた。木曜日は三重で1日研修と次回の研修の構築打合せをし、金曜日は古巣のNPO大阪精神医療人権センターのオンブズマン研修のお手伝い。で、土曜の午前は、ある社会福祉法人さんの中堅若手の皆さんで構成される「職員研修プロジェクトチーム」とのミーティングをこなし、土曜午後から日曜午前は、西宮で濃厚なヒアリング。その後、日曜午後はDPI日本会議主催の「障害者総合福祉サービス法」に関するタウンミーティング。折しもその日の朝刊はどれも「自立支援法廃止」という長妻大臣の発言を載せていただけに、何だか時期的にピッタリあたってしまい、気持ち悪いくらい。そういう濃厚な仕事をして、山梨に帰ってきて、くたびれ果てた。

休み明けはボチボチ動くべき、なのに、最初から飛ばしすぎて、少しダウン。本当は寝込みたかったのだが、月曜日は同僚の若すぎる死を悼み、東京までお通夜に出かける。39歳、あまりにも早すぎるし、突然すぎる。水曜日に構内で見かけた時の「普通」の出で立ちが目に焼き付いている。心よりのご冥福をお祈りする。

こういう時、改めて「善く生きる」ことの大切さ、を、深く認識する。志を持ち、原理原則を大切にし、時流に逆らってでも一貫して生きてきた人も、あっけなく死の扉の向こう側に逝ってしまう。残された私たち、という言い方は使い古されているが、しかし、私自身、自らの生を「善く生きる」ことが、「いのち」への尊厳を保つためにも、足下から出来ることなのだ、と思う。日々の実践の丁寧さと誠実さ、が何よりも問われている。

思えばしばらく、無理を重ねていると、延びきったバネ、による金属疲労を繰り返していた。器を広げる為に仕方ない、という見方もある。それも、一方で正しい。しかし、他方で「善く生きる」限界を超えるのであれば、それはバネが切れたり、劣化する、下手したらバネの持続力を、ひいては「いのち」を縮める逆効果につながる。一皮むけるべく必死になりつつ、ひとつ一つの取り組みを雑にしない。一見矛盾に見えるこの命題を、何とか両立させるために、自分に問い続けること。「善く生きる」ために、忘れてはいけないスタンドポイントなのだと思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。