夏の終わりに

 

遅めの夏休みも終わった。今日からみっちり仕事の再開である。

10日間の夏休みのうち、1週間はインドネシアのバリ島にいた。そのうちの殆どをスミニャックのビーチでボンヤリしていた。もちろん、クタやデンパサールにお買い物に出かけ、ジンバランのビーチで夕日を見ながら魚料理(イカンバカール)に舌鼓を打ったりしたことは、断片的記憶として残っている。だが、それ以外のことは、ぼんやりしている。

毎日予定らしきものはあまり入れず、文字通りボーッとしていたからだ。偶然宿泊先のホテルは、日本人が殆どいなかったことも幸いして、すっかり日本的なものから離れ、ということは必然的に仕事の事も忘れた。出かける前は、「パソコンでも持って行ってこれからのことを練ろうか」などと阿呆なことを考えていたが、あんな重い塊を持って行かなくてよかった。毎日、海を眺めて、本を読んで、うたた寝して、ちょっとだけ泳ぐ。そうしている内に、ノートにメモを取るなんて事も出来なくなり、ただただボンヤリの繰り返し。そういう徹底した「放電」状態が、逆にバッテリーチャージに大変重要だ、と、帰国して気づく。そう、帰国後、ここしばらくとらわれていた、あの嫌な切迫感から解放されていたのだ。

なるべく、日常的なものから離れるため、旅のお供本もすこし毛色の変わったものばかりを持参した。例えば、こんな感じ

「われわれは、今日の大衆人の心理図表にまず二つの特徴を指摘することができる。つまり、自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩である。この二つの傾向はあの甘やかされた子供の真理に特徴的なものである。そして実際のところ、今日の大衆の心を見るに際し、この子供の心理を軸として眺めれば誤ることはないのである。」(オルデガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫、p80

80年前の警句にみちたこの本を、最初に手にしたのは15年前。大学生の頃、他大学の思想史の有名人教員のゼミに「もぐり」をした時の、指定書籍だった。ただ、忙しかったのと、その先生との相性が合わなかった事もあり、ゼミも出席は数回で、オルデガのこの本も結局読まずに「積ん読」となっていたのだ。今回初めて通読してみて、ジャーナリストでもあるオルデガの、その読みやすい文体と、内容の普遍性に驚きながら、頷いていた。なるほど、「甘やかされた子供」とは、言い得て妙なフレーズ。「無制限な膨張と徹底的な忘恩」に浸ると、確かに会社は潰れ、社会は駄目になる。世襲政治に代表される今の日本社会の多くの断片に当てはまるだけでなく、別に二代目三代目ではないけれど、先達からの叡智への忘恩がないか、と問われると、己自身にもグサッとくるフレーズ。あと、脈絡はないが、別の本のこんなフレーズも気になった。

「かつては作者の独創性、他に少しも依存しない独創性こそが創造の根源であり原動力であると考えられていた。それに対して引用の理論の目指しているのは、ほかのテキスト(プレ・テキスト)からの直接、間接の引用、既存の諸要素(先立つほかのテキストの諸部分)の組み替えのうちに、作品形成の仕組みと秘密を見出すことである。(略)たしかに<引用>の観点が導入されることによって、かつてのような素朴で牧歌的な<独創性>の観念は崩れ去るであろう。けれども実際には、引用においても既存の諸要素の自由な組み替えという点で、創造活動はまぎれもなく働いている。むしろ引用の理論は、創造活動が決して真空の中で無前提におこなわれるのではないこと、創造活動の実際の有り様は既存の諸要素を大きく媒介にしていることを、かえってよく示している。」(中村雄二郎「ブリコラージュ」中村雄二郎・山口昌男著『知の旅への誘い』岩波新書p32-33

この本も、1981年の著作なので、もう30年近く前になる。以前に書いたが、確か予備校生か大学1年頃の、「知」そのものへの憧れを持っていた頃に古本屋で買い求め(後ろに200円と書かれていた)、憧憬の眼差しで読んだ本である。十数年ぶりに読み直し、改めて二人の「智の巨人」の叡智に触れ、最近の自らのタコツボ的閉塞感を反省しながら読んでいた。また、オリジナリティにこだわりたくとも沸いてこない哀しさを感じていたのだが、改めて「既存の諸要素の自由な組み替え」こそが「創造活動」なのだ、と後押しを得た。これなら、僕にも出来るし、ささやかながらし続けてきた事でもある。結局、無から有を作る天才型、ではなく、目の前のものをウンウン唸って組み合わせて、何とか形を整える「ブリコラージュ」型なのだ、と改めて再認識する。

あとは、まだ読み終えていないのだけれど、600頁もあるThe wind-up bird chronicleの3分の1は読み進めた。2月のカリフォルニア出張の際に買い求めた、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」3巻分の英訳合本、である。日本語版は2,3度読んでいたので、筋は頭に入っている。むしろ、場所と言語を変えて読むと、新たな発見も少なくない。特にこの本は、大学生の頃に読んだ一読目ではその世界にのめり込んでしまい、読み終わった後、しばらくその世界から出られなかった思い出がある。それだけ、引きずり込む力の強い本であるがゆえに、慣れない言語で突っかかりながら読むと、読み流せない、引っかかりが出来る部分がある。言語的な未熟さによる引っかかりが勿論大半なのだが、でも一部で、諸要素間の関係について再考を促す引っかかりも出てくる。村上作品を「味読」したい場合には、こういう読み方も「アリ」だ、と再認識させられる。

そんなこんなで、仕事の事は考えずに、プラグを抜いてボンヤリできた。で、今日からグーグルカレンダーをのぞき込むと、また、みっちり詰まっている日程に逆戻り。休みボケもまだあるのだが、今から夕方まで、二つの会合に出ずっぱり、である。さて、寝言はこれくらいにして、そろそろ起きなくては。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。